姫、早起きは三文の徳。
「あの男は庶民ではないな」
アスランが去った後、焚き火に水をかけてしばらく残火の確認をしているときに、おとうさんは蒲公英の根で作った珈琲擬を飲みながら言った。
「セシルに悟られずに近くに寄り、あろうことか柔肌を見たのは許さないが、気配を消して近づくのは並大抵のことではない。気配を消すというのは、言葉で言うのは簡単だが、呼吸、心音、風の音、枝や木の葉の音、衣擦れの音、緊張感ですら邪魔になる。そうとうに鍛えている。そして山道を駆けるアヴィスに追いつく健脚だ。ここまでなら、冒険者の線もあるんだが、命を狙われているというのに剣すら携帯していない。それにさっきの食事も変だ……」
「なにか変なことがあった?」
私は珍しく深刻そうな顔をしているお父さんの顔を窺った。こういう顔をされているとき、私はお父さんと血が繋がっていないのだと思い知らされる。心に薄い壁を立てて、本心をさらそうとせず、私に隠して物事を終わらせる他人行儀なところがある。
「短刀を携帯していなかった」
私とお父さんの腰帯には短刀が鞘におさまっている。これは私たちが狩人だから持っているのではなく、農民も町民も食事用の短刀は常に持ち歩いている。私たちはこれで枝を切ったり、身を守ったり、動物をばらしたりするので、食事用には滅多に使わないので(不衛生だし)家には食事用の短刀を置いてある。だが人探しをしているアスランが短刀を持たないのは違和感がある。
「本当だね。さっきの食事の時も予備の短刀出したから気付かなかったけど……」
「どっかの貴族か。世間知らずの騎士か。はたまた……注意したほうがいいな。顔は良いし、性格も良さそうだが、善良な人間がすべての人間にとって好都合な存在とは限らないのがこの世だ」
「うん……」
私は自分の部屋に行こうとすると、お父さんが私を呼び止めた。
「窓は閉めておけよ。別の狼が来るかもしれない」
私は顔が赤くなるのが分かった。誰が、あんなやつ誘い入れるか!
「馬鹿!」
私は勢い良く扉を閉めたが、お父さんが悲しい顔をするのを見てしまった。一人娘が盗られる心配をする父親の顔ではなく、葬式で見るような底抜けの悲しさの表情だ。
「なんで……そんな顔をするの?」
私の疑問に誰も答えてくれなかった。
朝、太陽が昇る前に目が覚めた。昨日の夜の嫌な残滓が心を曇らせたままだった。私は寝巻きのまま、家の外へ出て、明るくなる空の消えつつある星を眺めた。
「うーん、良い朝だなぁ」
深呼吸すると新鮮な空気が肺に入ってきた。
「よっしゃー! 今日も元気に頑張るぞぉ!」
朝一番の気合の言葉は、近所では目覚まし代わりになっていた。
※短刀を携帯するのは歴史上あったことなので参考にしました。今で言うところの、マイ箸……というだけではなく、作中にあるとおり色んなことに用いていたようです。作中では衛生面を考えて使いわけていると書いていますが、たぶん同じ短刀で色々していたんだじゃないかなぁと思います。汚れの意識が今より低い時代ですので……。
蒲公英珈琲はカフェインが無いから妊婦用とかで売っていますね。味は御愛嬌ですね……(笑)