第1話 「死んだ私」
燃え尽き症候群の原因となった作品です。2012年秋の新人賞に応募してみました。音哉の最高傑作となります。
12/28~1/2まで連続で載せた後、毎週土曜日22時更新です。
赤黒く燃えるような空。それに突き刺さるかのように高く聳え立つ灰色の岩山は、標高一万メートルはあるだろうか。
その山頂にて今、翼幅三十メートルを超える白銀の竜が岩を砕きながら地面に倒れた。
白く輝いた体から突き出る竜の手の、象の牙よりも大きな爪を眺めながら、その横を少女が通り過ぎる。
彼女は銀色の長い髪、小さな鼻、こぢんまりとした口と、可愛らしい様子なのだが、その大きな目は感情のようなものが宿っていないかのように冷たかった。華奢な体には、似合わない紺色のマントを羽織っている。
少女は、腰の高さほどの岩の上に置かれていたこぶし大の塊を手に取った。それを空にかざしてみると、深い青緑色で半透明の様相だった。
「次元石。これに魔力を注ぎ込むと……」
石を眺めていた少女だったが突然、彼女の体は光に包まれた。振り返ると、倒れていたはずの竜が首を起こし、少女に向かって口から光を吐いていた。
「まだ生きておったか……。なんじゃこの攻撃は、力を全く感じないぞ?」
「行かせん……。次元を超える力を悪用させる訳にはいかん……」
「次元の壁を守護するお主が不甲斐ないからじゃろう?」
「私の命に代えても、お前をここで……」
「やってみろ。大蜥蜴が」
◆ ◆ ◆
私を囲むように存在する薄汚れた灰色のコンクリート。その先に伸びる暗い出口に向かって私は走る。ぬかるんだ地面からの飛沫が足にかかるのを私の触覚が告げる。しかし、通学用の白い靴下が茶色に染まろうと、皮のローファーが裂けようと、私は逃げなければいけない。もし捕まれば……
「ここにいたぞ!」
出口を塞ぐように現れた人の影。背後からの足音も大きくなる。
「一つ向こうの通りに治安維持官がいたぞ!」
「くそっ! この娘が手間取らせやがったせいだ!」
「どうする!?」
「面倒だ! 諦めるぞ! お前は先に行け!」
正面の男が建物の影に消えた。
その瞬間……
―ドッ―
私はこみ上げてくる暖かい物を飲み込めずに吐き出した。目の前に赤い液体が霧のように散る。私は惰性で数歩進み、そして両膝を地面についた。カクンと糸の切れた人形のように首を折った私の目に、胸から突き出ている金属製のパイプが見える。それは、表面をべっとりと深真紅色の液体で覆っていた。
私が前のめりに倒れると、そのパイプが地面に杖のように突き立ち、その衝撃で私の口からもう一度血が吹き出す。横向きに伏して灰色のコンクリートを見つめる私の耳に、湿った音を響かせて遠ざかっていく足音が聞こえた。
――私は死ぬ。これで良かった。この狂った世界で生きていくなら、遅かれ早かれ命を失う。後悔は……無いけれど、……無いけれど……どうしてか涙が……
ゴボッと私の喉が鳴ったが、口から出てくる液体の感触は緩やかだった。
――この私の頬と地面との隙間に広がった血が乾く頃には……
暗い路地に横たわっている少女の瞳は、灰色の壁を映し続けていた。
しかし、辺りが明るくなる頃、そこには赤黒い染み以外は何も無かった。
私が次に目を開けた場所は花畑では無かった。当然か。私は人間としては中途半端な存在。天国がそんな魂を受け入れてくれる訳がない。
私は暗闇を流されるように漂っていた。このまま身を任せて進んでいけば、確か滝があり、落ちた先は地獄。三途の川に流されてしまった人間の末路はそうだと聞いたことがある。
怖くなった私は流れゆく先を見てしまう。すると、真っ暗に思えた空間に小さな光が見えた。それは、段々と大きくなるにつれて強い光を放ちだす。私の体は、そこへ誘い込まれるように姿を消した。
ここが地獄かと思った。
赤黒い空、切り立った灰色の岩山。風は生暖かく蒸し暑い。そんな世界に私は浮かんでいた。
ずずすんっと、重い何かが崩れたような音がした。視線を下に向けると、岩山の山頂のような場所に白銀に輝く大きな蜥蜴が横たわっていた。
空中を手でかくと、水の中を進むように動ける事に気が付いた私は、その蜥蜴に近づいてみる。すると、その蜥蜴は首を起こした。私を見つけたのかと思ったが、こちらを一瞥することも無く口を大きく開いた。
その時私は気が付いた。蜥蜴の先に人間がいるのだ。蜥蜴と人間の大きさは普通の逆。つまり、蜥蜴が人間の大きさであり、人間が蜥蜴くらい小さい。人が食べられてしまうと思った私は大声で叫ぼうとした。しかし、声が全く出ない事を知る。
蜥蜴は動けないようだったが、口から出した白いもので人間を包んだ。粘液だろうか? 私は助けようと、空中で必死に手足を動かして地面に向かって進む。ようやく人の顔が判別出来る距離に近づいた時、私は手を止め泳ぐのをやめた。 ……正確には動けなくなった。
彼女は私そっくりだった。いえ、あれは私。
髪は真っ白で……ううん、銀色?の髪を持ってはいるが、自分の顔を見間違う訳が無い。どういう事なんだろう? 走馬灯? 私は自分の死んだ瞬間を見ている?
違う。私は蜥蜴に食べられて死んだ訳じゃない。体を貫いた鉄パイプの感触をはっきり覚えている。口から溢れ出た血の暖かさも。なら、……あれは?
〈乗っ取れ、女。あの女の体を手に入れろ〉
私の頭で声が響いた。男性のような、女性のような、中性的な声だった。
〈あなたは誰? 神様? 鬼? 閻魔大王?〉
心の中で強く言葉を念じてみたが、それには答えが返ってこない。
〈お前は死んだのだろう? それで諦めるのか? もっと生きたくは無いのか?〉
〈えっ……生きる? でも私は……殺されて死んだのでしょ?〉
〈奴はお前だ。私が力を封じている今、お前なら体を奪い取れる〉
〈奪い取るって……、あの子はどうなるの?〉
〈このままではお前は消えて無くなるぞ。あの扉を抜ければ……お前の元いた世界だ〉
扉と言われて辺りを見回してみると、いつの間にか私そっくりの少女の隣に、縦二メートル、横一メートル程の長方形で真っ黒い穴が現れていた。その穴に奥行や厚みは見えない。空中に浮かんだ黒い障子紙のようだった。
〈急げっ!〉
〈はいっ!〉
私はその誰かに強く言われると、いつもの癖で即座に肯定の返事をしてしまった。返事をした手前、私は空中をそろそろと泳いで銀髪の少女の傍まで行った。
「誰だお前は……」
銀髪の少女は私の体が見えるようで、視線だけをこちらに向けて言った。その様子から、蜥蜴と同じくこの子も動けないんだと私は思った。
そこで私の頭にまた声が響いた。
〈入れ替われっ!〉
〈そっ……そんな事を言われても……。え…えいっ!〉
私が無我夢中で手を少女に向かって突き出すと、その手は彼女の背中に深く入り込んだ。そして突き抜けたような手ごたえを感じると、私そっくりの少女が蜥蜴に向かって飛んでいく。
「わ……私が三人になった?」
声が出た事に驚いている私の前で、その新たに表れた少女は白銀の蜥蜴の口に吸いこまれて消えてしまった。
「食べられた……?」
次に私は体の感覚が変わった事に気が付いた。ふわふわとした浮遊感のような物は無くなり、足を地面にべったりと付いている。体は、時代錯誤的な汚い紺色のマントで包まれていた。
「さっきの子の服だ……」
髪こそは銀髪では無く、いつもの私の黒髪だったが、服装と立っている場所が銀髪の少女とまったく同じだ。入れ替わった?
つまり、私が三人になったのでは無く、あの瞬間私がこの体に入って、蜥蜴の口に入って行った子は私に押し出された銀髪の少女?
〈行け! 奴の力は私がこの場所に永久に封印する。お前はここにいてはいけない。万が一封印が解けた時、体を奪われるぞ! なら、またこの世界もお前の世界も危険にさらされる!〉
「は……はい?」
私が首を傾げていると、隣に浮かんでいた黒い長方形のものが揺らぎ始めた。
〈消えるぞ! そこを抜けた所が、お前の元いた空間と場所だ! 行くんだっ!〉
「は…はいっ!」
また強く言われてしまい、即座に返事をしてしまった私。その黒い四角に恐る恐る右足を入れてみた。
「きゃっ……きゃぁぁぁ!」
底なし沼に沈み込んでいくような感覚だったのだろうか。右足は次々と引き込まれていき、すぐに私の胴体、頭と引き込まれた。
◆ ◆ ◆
黒髪になった少女がこの場から消えてしまったすぐ後、完全に地面に伏してしまっていた白銀の竜の目が開いた。
「次元竜め……ふざけた真似をしおって……。しかし、さっき私の体に入ったあやつは一体何者じゃ……。意識だけを乗っ取るならともかく、前にあった魂と入れ替わるなどありえん。それこそ双子のような物でもなければ体の拒絶反応が……。あやつ、私にそっくりだったが……まさか……な」
竜は首をもたげ、足を踏ん張り立ち上がろうとした。
「体が重い……。封印された今のままでは、この大きな体を操る事は不可能か……。しかし、この六千年生きたわしを舐めるなよ。ならば……」
竜は消えかかった黒い扉を睨むように見つめていた。