身代わり花嫁は、誓う前に顔を見せます
花嫁が逃げたと聞かされたのは、私が花嫁の靴紐を結び終えたあとだった。
いや、靴を履いていたのは私だ。姉のミレイユのために仕立てられた靴を、父が私の足に押しつけたのは一刻ほど前である。踵が浮くので、紐をきつく締めなければ歩けない。
「式だけ済ませればいい」
控え室の扉を閉め、父は声を落とした。
「ヴァラン家が欲しいのは婚姻だ。花嫁が姉か妹かなど、誓ったあとなら些細なことだろう」
「リュカ様には?」
「知らせる必要はない。顔は誓いが済むまで見せないしきたりだと言ってある」
鏡の中の私は、姉の白い花嫁衣装に埋もれていた。肩を詰める時間もなかったらしく、布を留めるための小さな針が背中に刺さる。
父は二枚の紙を机に置いた。一枚は姉とリュカ・ヴァランの婚約を記した取り決め。もう一枚は婚礼後に通す予定だという、私の名前を書き込むための白紙だった。
「誓いのあと、こちらに署名してもらう。客の前で花嫁を追い返せる男はいない。おまえだって、あの家に嫁げば困らない」
姉は先月から、この縁談を断りたいと何度も言っていた。父は聞かなかった。今朝、姉が町外れの叔母の家へ発ったと知るまで、姉の返事を待つつもりだったらしい。
彼が今、私に待つよう求めているのは返事ではない。嘘が形になるまでの時間だ。
「私は、その人に会ったこともありません」
「だから何だ。おまえは昔から聞き分けがいい。姉さんの不始末を、家のために引き受けなさい」
廊下の向こうで、鐘がひとつ鳴った。
私は靴紐を結び直そうとして、指を止めた。花嫁の靴に合わない足を、紐で押し込めるのはもうやめよう。
「式には出ます」
父の顔が緩む。
「ただし、誓う前に顔を見せます」
「セラ」
「それを許さないなら、私はここを出ません」
父は返事をしなかった。代わりに、白い布を私の頭に深くかぶせた。
祭壇へ続く通路には、領内の商人たちが並んでいた。ヴァラン家が管理する山越えの道を使う人たちだ。父は婚姻を結べば通行料の優遇を得られると期待していた。客席の前半分が、その話で商売をしている人たちだと私は知っている。
花嫁が変わったことは、まだ誰も知らない。
祭壇の前に立つ青年も、私を姉だと思っていた。
リュカ・ヴァランは祝辞のために作った紙を手にしていた。端が何度も折り返されている。彼も、この婚礼をただの取引と思っているわけではないのかもしれない。そう考えた瞬間、父が私の背をそっと押した。
司祭が誓いの言葉を促す前に、私は両手でベールを上げた。
客席から小さな息が漏れる。
「私はミレイユではありません。妹のセラです」
父の靴音が一歩近づいた。止めるなら今だ、と私の背中が覚えていた。私は祭壇を降りずに続けた。
「姉はこの婚姻を望まず、今朝、家を出ました。リュカ様には知らされていないと聞いています。あなたが姉との結婚を望んで来られたなら、どうかここで断ってください」
リュカは私ではなく、父を見た。
「事実ですか」
「娘は二人とも私の娘だ。約束そのものは変わらん。式を終えてから話せば――」
「セラ嬢ご本人に尋ねています」
驚いて顔を上げると、彼がこちらを向いていた。
「あなたは、私との結婚を望んでここに立っていますか」
逃げ場のない問いだった。私は姉の代わりとしてなら嫁げない。けれどこの人のことを知らないのに、嫌だと決めてしまうのも違う。
「今は、選べません。あなたのことを何も知らないからです」
「私も同じです」
彼は祝辞の紙を二つに折った。
「では、この婚礼は行いません。お越しくださった皆さんには私から説明します」
ざわめきが大きくなる。父は客席を見回し、私の手首をつかんだ。
「皆の前で家を恥にさらしたな」
私は痛みを堪え、父の指をひとつずつ外した。
「呼んだのは、父上です。姉が断ったあとも」
声が震えた。それでも、今度は聞き取れたはずだ。
リュカが司祭に何か短く告げ、客席へ向き直った。彼は花嫁が誰かを責めるかわりに、予定していた食事はそのまま用意すること、この場で商売の話をしなくてもよいことを伝えた。
祝宴は、婚礼のない食事会になった。
私は控え室へ引き返す前に、脱げそうな姉の靴を見下ろした。この靴では廊下を急げない。紐を解いて足を抜き、両手で持った。
素足を見た客が何人か笑った。けれど私は、初めてまっすぐ歩けた。
翌朝、姉から手紙が届いた。叔母の家に着き、当分はそこで過ごすという。結婚を断ると父に三度伝えたこと、リュカにも書状を送ったが返事がなかったことが書かれていた。
書状が届かなかった理由は父に聞かなくても分かる。
私は姉に、今は無事でいることだけ知らせてほしい、と返した。戻って来て謝れとは書かなかった。姉が結婚を望まないのは、誰かの不始末ではない。
父は私に一週間、口をきかなかった。
婚礼の費用は父が払うことになり、道の通行料もこれまで通りだった。リュカが特別な罰を求めたわけではない。父が手に入れるつもりだった優遇が、婚姻がなくなったので生じなかっただけだ。
食堂には、商人たちからの問い合わせが積み上がった。「今後の取り決めは?」と書かれた紙を父が不機嫌に払いのける。姉妹のどちらでもいいと口にした日のことは、商人たちの方がよく覚えているだろう。
私も家を出たかった。だが、誰にどこまで頼れるのかを考えたとき、すぐに答えは出なかった。姉のいる叔母の家へ行けばいい。頭では分かるのに、父の「聞き分けがいい」という言葉が、自分の選択のように染みついていた。
婚礼から十日目、リュカの名で私宛ての封書が届いた。
父が先に封を切った形跡はない。宛名は「セラ・フェルトン様」と、間違えようのない文字で書かれている。
『先日はあなたの言葉を聞いてから、自分の返事を決められました。礼を申し上げます。姉上に届かなかった書状は、私のもとへも届いていませんでした。よろしければ、次は式場でなく、あなたの都合のよい場所でお話ししませんか』
末尾には「断ってくださっても、道の取り決めには何も影響しません」とあった。
私が封書をしまうと、父が尋ねた。
「また婚姻の話か」
「分かりません。私に会いたいそうです」
「だったら今度こそ、家の役に立て」
私は返事を急がなかった。その晩、叔母に手紙を書いた。泊めてほしいと頼むのではなく、空いている部屋の賃料を教えてほしいと書いた。母が残した小さな蓄えと、これまで受け取っていた家の手当で、しばらくは払える。続きは自分で考えなければならない。
叔母から返事が来て、私は自分の靴と普段着だけを荷造りした。姉の白い靴は、衣装箱に戻した。
家を出る朝、父は玄関に立っていた。
「婚姻の話を持ち帰らないなら、戻る必要はない」
「はい」
あまりに簡単に答えたので、自分でも驚いた。怖くないわけではない。けれど、次にすることを父に決めてもらわなくても、私は玄関の扉を開けられた。
叔母の家に移ってから、私はリュカに会うと返事をした。待ち合わせは毎週市の立つ広場。人目がある方が安心だと書くと、「その方が私もよいです」と短い返信が来た。
当日、広場へ行くと彼は果物売りの列の最後にいた。式の日と違って、使い込んだ外套を着ている。
「こういう場所は嫌でしたか」
「いえ。買い物の邪魔になっていなければ」
「私の方こそ。売り手に、列を乱さないよう注意されたところです」
彼は苦笑した。相手はヴァラン家の人間だというのに、売り手は容赦がなかったらしい。よく見れば彼の手には小さな傷が幾つもある。領内の道を自分で見に行くこともあるのだと、後で知った。
私たちは歩きながら、姉のことを話した。彼は姉から返事をもらえなかったため、望まれない婚姻だと知らなかったと詫びた。私も同じことを詫びようとしたが、彼に止められた。
「あなたが詫びることではないでしょう」
祭壇でも、彼はそう言わなかった。きっと十日間、あの日に何が起きたかを考えていたのだろう。
「ずっと私が決めるのを待っていたんですか」
「最初の手紙を書くかどうかは、私が決めました」
少し考えてから、彼は付け足した。
「次に会うかどうかは、あなたが決めることだと思いました」
その日は菓子を一つ買い、立ったまま分けて食べた。私のことを知ろうとする質問はあったが、父の商売について尋ねられることはなかった。
市の帰り道、私は彼をまた見たいと思った。あの祭壇で選べなかったものを、今なら一つずつ選べる気がした。
二度目に会った日は雨だった。市が早く畳まれ、私たちは軒下で濡れた荷車を見送った。話題が尽きたころ、彼があの祝辞の紙を持っていたことを思い出して尋ねた。
「姉に何とおっしゃるつもりだったんですか」
「彼女のことを知らないまま、頼りになる夫になりたい、と」
「それを読み上げなくてよかったですね」
「ええ。頼りになる、というのは相手に確かめてから言うべきでした」
雨が軒を打つ音の中で、二人とも笑った。
三度目には私の方から誘った。姉を迎えに来たリュカに、礼を伝えたいというより、この人が何を面白がるのか知りたくなったのだ。市場を外れた石橋まで歩き、彼は川の増水を見るのが苦手だと話した。私が、細い道で向こうから人が来るとつい先に譲ってしまうと話すと、彼は次の橋で立ち止まった。
「今日は、どちらに行きたいですか」
橋は左右に分かれていた。右は叔母の家への近道、左はもう少し川沿いを歩く道だ。
「左へ」
「では、左へ」
彼は大げさに見えるほど素直に左へ歩いた。父が「おまえなら分かるだろう」と言うたびに先回りしてきた私には、尋ねてもらうだけでこんなに楽になるとは知らなかった。
次の市では、私が買おうとした梨を彼が先に二つ取った。私が酸っぱいものを好むと覚えていて、まだ青い実を選んだらしい。ところが店主は、それは日を置かないと硬くて食べられないと言う。リュカは赤くなって、売り物を戻しかけた。
「一つは、それを買いましょう。あとで食べたいから。今日は熟した方を半分にしませんか」
「はい。知らないことを知ったふりしてしまいました」
彼は謝るとき、言い訳を足さない。それも、会うたびに少しずつ知ったことだった。彼は道の様子を調べる仕事が好きで、会計の細かな数字は苦手だという。私は人の誕生日を覚えるのは得意だが、何を贈りたいかと尋ねるのは苦手だと話した。知っているつもりで決める方が楽だったから。
市場の端で父の取引先の商人に呼び止められたのは、その帰りだった。商人は私とリュカを交互に見て、声をひそめた。
「セラ様からも、山道の料金について一言お願いできませんか。お父上がお困りで」
足が止まる。私が頷けば、父はまた私を家同士の道具にするだろう。かといって、この人を困らせる権利もない。
「私は、父の取引の使いではありません。料金の話は、ヴァラン家の窓口へご相談ください」
商人は困った顔をしたが、問いを繰り返さずに帰った。言い終えたあとで手が震えた。リュカが何か言いかけるのを見て、私は先に尋ねた。
「言いすぎましたか」
「いいえ。私も窓口を通して話すつもりです。あなたに頼むべきことではありません」
彼が言ってくれたから正しくなるのではない。私が決めて口にした答えを、彼がそのまま受け止めたことが嬉しかった。
その頃、父から二通の手紙が来た。最初は、私とリュカが会っていると知って「戻れば家同士の話を整えてやる」と。次は商人たちへの説明に困っているから、私からヴァラン家に有利な言葉をもらえないかというものだった。
私は返事を書いた。
『私の婚姻については、私が決めます。道の料金については、直接ヴァラン家と相談してください』
書いた紙を何度も読み直した。失礼だろうか、冷たいだろうか、と迷う。けれどどちらも事実だったので、そのまま送った。
姉は叔母の家の小さな部屋で、私の手紙を読んで肩を揺らした。
「セラが父上にこんな返事を書くなんて」
「怒ってる?」
「嬉しいの。あの日、わたしは黙って家を出た。あなたに何をさせるかまで、考えられていなかった」
「姉さんが断ったのは、悪いことじゃない」
「でも、あなたに知らせて出るべきだった」
謝られたのは初めてだった。私は、姉の靴紐を結んだ朝から溜めていた息を、ようやく吐いた。
「次は、出かける前に言ってね。手伝えるかもしれないから」
「そうする。今度はあなたも、勝手に我慢しないで」
二人で小さく指を絡めた。家のためにどちらかを差し出す話は、もうしなかった。
冬の初め、リュカから「また会いたい」の代わりに「これからも会う約束をしたい」と言われた。私はその違いを、すぐには返せなかった。
彼は待った。次の市の日も、その次も、いつもの果物売りの列に並んでいた。私が行けない日には、無理に理由を聞かず、代わりの日を尋ねた。
ある日、私は次の市の約束を自分から決めた。これまで「会ってもよいです」と返すことはできても、「会いたい」と言うのは恥ずかしくて避けていたのだ。彼が顔をほころばせるのを見て、口にしてよかったと思った。
いつか縁談を結ぶとしても、私が彼を知らないまま誓うことはない。彼もそう思っていると知って、ようやく返事をした。
「はい。私も、あなたと約束したいです」
婚礼は春に決めた。父の通行料の話とは切り離し、姉と叔母にだけ最初に伝えた。父には後から知らせたが、出席するかどうかの返事を求めなかった。式は、リュカと私とが決めたことで足りる。
当日の控え室で、姉は新しい靴の紐を私に手渡した。今度の靴は、かかとが浮かない。私が選んで買ったものだ。
「ベール、どうする?」
姉が尋ねる。
私の膝には、薄い白布がある。式のあいだ顔を隠すのも、最初から上げておくのも自由だ。私は布を手に取り、しばらく眺めた。
「持っていく。でも、自分で上げる」
姉は私の髪に布を留めた。針は刺さらなかった。
祭壇の前で、リュカは今度こそ私の名前を呼んだ。
「セラ」
私は誓いの前にベールを上げた。彼も客席も、そこに立つのが誰かを知っている。顔を見せても、この人はここにいる。
「リュカ。私から、先に言ってもいいですか」
「もちろん」
司祭が頷くのを見て、私は自分の声で言った。
「あなたと暮らしたい。嫌なことは嫌だと言って、行きたい道は自分で選びます。あなたにも、選んでほしい」
リュカは、あの日のように私の返事を待ってから、笑った。
「はい。私も、あなたと歩きたい」
客席で姉が先に泣き、私は少し遅れて泣いた。涙で彼の顔が見えなくなっても、誰と誓っているのかは分かっていた。
帰り道には、右と左に分かれる橋がある。どちらを行くか、今度は私から尋ねようと思う。




