第一章 ──滅びの山道にて
山々を切り裂くように吹き荒れる風が、血と土の匂いを運んでいた。
フェルシア王国の北境は、グレイン帝国軍による侵攻を受けている。
その最前線は、もはや戦場というより地獄に近かった。
巨獣の咆哮が空気を震わせる。
黒い影が山道を踏み砕き、兵士たちの悲鳴が重なる。
「……龍だ。帝国が、ついに龍を出してきた……!」
震える声が、誰のものかも分からないほど混乱していた。
龍は、山肌を削りながら進む。
その巨体は、城壁をも容易く砕く。
フェルシアの兵士たちは、ただ逃げ惑うしかなかった。
その混乱の中、銀髪の少女が立ち尽くしていた。
王女リュミエラ・フェルシア。
まだ若いが、王国の魔術師団を束ねる存在だ。
「これ以上は、持たない……」
彼女の魔力は尽きかけ、膝が震えていた。
龍の進軍を止める術は、もう残されていない。
そのときだった。
「姫様! あれを……!」
兵士の叫びに、リュミエラは顔を上げる。
山道の外れ、崖下の岩場に一人の男が倒れていた。
黒髪、黒い瞳。
異国の衣服。
そして、周囲の魔力にまったく馴染まない異質な気配。
「……誰?」
リュミエラは思わず呟いた。
その瞬間、龍の咆哮が再び響き、兵士たちが悲鳴を上げる。
「姫様、退却を! ここはもう……!」
だが、リュミエラは倒れた男から目を離せなかった。
彼の胸元には、奇妙な紋様が光っている。
魔術でも召喚でもない、見たことのない構造の光。
──その光が、龍の魔力波を乱している。
「あなたは、一体……」
リュミエラは男に手を伸ばした。
その瞬間、男の瞳がゆっくりと開く。
黒い瞳が、まっすぐに彼女を捉えた。
「……ここは……どこだ?」
声はかすれていたが、意識ははっきりしている。
だが次の瞬間、龍の影が二人を覆い尽くした。
「危ない!」
リュミエラが咄嗟に防御魔法を展開する。
だが、龍の爪はそれを容易く砕いた。
死を覚悟した、その刹那。
「……鳥だ」
男が呟いた。
「え……?」
「鳥を……飛ばせ。小さくて、速いやつを……」
状況にそぐわない言葉だった。
だが、男の声には奇妙な確信があった。
「鳥……? 召喚獣のこと……?」
「違う。もっと、単純でいい。魔力で形を作って……飛ばすだけでいい……」
リュミエラは混乱しながらも、魔力を集中させる。
彼の言う通り、ただ“鳥の形”を作る。
炎の小さな鳥──炎鷹。
それは、彼女が今まで使ったことのない魔法だった。
「できた……!」
炎の鳥が、ふわりと浮かび上がる。
男はそれを見ると、微かに笑った。
「……飛ばせ。あの龍の……目に向けて」
リュミエラは震える手で、炎鷹を龍へと放つ。
小さな炎の鳥は、風を切って一直線に飛んだ。
龍が気づき、咆哮する。
だが遅い。
──炎鷹が、龍の右目に突き刺さった。
爆ぜる炎。
龍が苦痛に吠え、巨体をよじらせる。
兵士たちが息を呑んだ。
「……龍が、怯んだ……?」
リュミエラ自身も信じられなかった。
だが、男は静かに言った。
「あれは、まだ始まりだ。もっと小さく、もっと速く。数を揃えれば、巨獣なんて怖くない」
その言葉は、彼自身も理解していない記憶の欠片だった。
リュミエラは男を見つめる。
「あなた……何者なの……?」
男は答えられない。
ただ、胸の奥に奇妙な確信だけがあった。
──自分は、この世界の戦い方を変えられる。
龍の咆哮が再び響く。
だが、リュミエラの瞳にはもう恐怖はなかった。
「あなたの力を、貸してくれる?」
男はゆっくりと頷いた。
「俺に分かるのは、鳥を飛ばす方法だけだ。それでよければ」
「十分よ」
リュミエラは微笑んだ。
その瞬間、フェルシア王国の運命が静かに動き始めた。




