第9話「妄執ちゃんと、観測される話」
ぱんでむに来て十七日目の朝、好代は廊下で気づいた。
前から廊下に立っている子がいる。制服姿で、こちらを見ている。距離は三メートルくらい。
目が合った。
その子がにこっと笑った。すごくきれいな笑い方だった。でもその笑い方が——じっと見すぎている感じがした。
好代は棚を開けた。音の知識。その子の足音がない——ずっとそこに立っていたのか、今来たばかりなのか、わからない。においの知識。甘いにおいがした。花みたいな、でも少し人工的な甘さ。
その子は何も言わず、廊下の角を曲がって消えた。
後で渾沌ちゃんに聞いた。「妄執ちゃんだよ」と渾沌ちゃんが言った。「接客担当のクルー。ずっとすきよちゃんのこと気になってたみたい」
「気になっていた」という言い方が、少し引っかかった。
第一章「愛の巣へ」
◆妄執ちゃん登場
昼過ぎ、好代がリビング・オブ・カオスでお茶を飲んでいると、妄執ちゃんが来た。
金髪がふんわり巻いていて、薄ピンクのリボンをつけている。青い目が大きくて、睫毛が長い。見た目がとてもかわいい子だ。でも目が、少し違う気がする。
「好代ちゃん!よかった、今日会えた」と妄執ちゃんが言った。「私、妄執っていうの。ずっと話したかったんだけど、タイミングが合わなくて」
「……はじめまして。好代です」
「知ってるよ!好代ちゃんのこと、ずっと前から知ってる」
「……私のことを」
「うん。渾沌ちゃんがスカウトしてきた子で、バーガーを知識として受け取って、においの制御を練習してて、外の仕事にも行ったんだよね。昨日の帰り、少し遅かったし、手のひらのにおいが違ったから」
好代は少し止まった。
「……どこでそれを知ったんですか」
「観てたから」と妄執ちゃんがにこっと笑った。悪気がなさそうだった。「私の担当バーガー、観測系なの。対象を観察して状態を把握する。好代ちゃんみたいに面白い子が来たから、ずっと観てた」
怖い、というよりは——独特だ、と思った。
「……私の部屋、見てみる?」と妄執ちゃんが言った。「好代ちゃんに見せたいものがあって」
◆愛の巣
妄執ちゃんの部屋の扉は、ピンク色だった。ハート形の飾りがついている。においがした——甘い花のにおい。甘くて、少し閉じた空気のにおい。
──愛の巣──
壁が、写真で埋まっていた。
壁一面に写真立てが並んでいる。モニターもある。全部に人が写っている。いくつかの写真には、ぱんでむのフロア、廊下、バックヤードが写っている。
部屋の中心に、鳥籠型のベッドがある。白い鉄の枠で組まれた丸い籠の形で、中にふわふわのクッションが入っている。籠の扉は開いている。
ピンク色の照明が全体を照らしている。甘いにおいが濃い。
写真の中に——好代の顔があった。
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廊下を歩いている自分。「黄昏」でお茶を飲んでいる自分。外の業務から帰ってきたところ。訓練場での自分。
「……これ」
「好代ちゃんの写真!」と妄執ちゃんが明るく言った。「かわいく撮れてるでしょ。一番新しいのは昨日のやつ」
「……私の許可は」
「いらないかな、と思って。観察の記録だから」
「……いります」
妄執ちゃんがぱちぱちと瞬きした。「そうなの?」という顔だった。
「……私が知らない場所で私の写真を撮られていたと知るのは、あまり気持ちよくないです」
「……なんで?私、悪いことしてないよ」
「悪いことではないかもしれませんが、観る側の目的と、観られる側の感触は別です」
妄執ちゃんが本当に「そうなの?」という顔で、長い間考えた。
「……わかった。これからは言う」と妄執ちゃんが言った。「でも——好代ちゃんのこと、観てもいい?ちゃんと聞いた上で」
「……考えます」
「考える!」と妄執ちゃんが嬉しそうに言った。「断られなかった。今日はそれだけでいい」
好代はその反応を見て、少し力が抜けた。この子は悪意がない。ただ「観ること」が全部で、それ以外の感覚が少し薄いだけだ。
第二章「観測の知識」
◆観測バーガー
二人で廊下のベンチに座った。妄執ちゃんが「私の担当バーガー、食べてみる?」と言ったので、好代はOKした。
観測バーガーが来た。包み紙がピンク色だ。においを嗅いだ——甘い中に鋭い何か。カメラのレンズみたいな、焦点を合わせる感触のにおいだ。
食べた。知識が入った。「見ること」の知識だ。対象がどこにいるか、どんな状態か——なんとなく感じ取れる感覚。情報を集める、ではなく、「存在を捉える」という感触。
好代は棚を開けた。観測の知識と、においの知識と、音の知識が混ざった。
廊下の向こうに誰かがいる、という感触が来た。二人分。摩天ちゃんと——もう一人は知らない感触だ。
「……摩天さんが廊下にいますね。もう一人いる」
「え!!!」と妄執ちゃんが飛び上がるように反応した。「わかった!?初めて食べて!?」
「なんとなく、ですが」
「すごい!!!私、もうずっと使ってても廊下二人はかなり難しいのに!!!」
「……観測の知識が、においと音の知識と組み合わさって、精度が上がったのかもしれないです」
「組み合わせ!私、一種類しか使えないから!羨ましい!!!」
妄執ちゃんが本当に羨ましそうだった。さっきの写真の話よりも、こちらの話の方が目が輝いていた。
この子は——「観ること」が本当に好きなんだ、と好代は思った。
「……妄執さんは、どんな対象を観るのが好きですか」
「面白い動き方をする子!好代ちゃんみたいな。棚を整理しないで全部同時に流して動くの、今まで見たことなかったから」
「……言葉にすると、全部がうるさいままで動いてる感じです。うるさいまま走る」
「うるさいまま走る!!!」と妄執ちゃんがメモを取り始めた。「好きそれ!!!」
◆涅槃ちゃんと空無ちゃん
夕方、リビング・オブ・カオスに新しい子が二人いた。
一人は、ソファの隅にいた。濃紺のボブカットで、前髪が目に少しかかっている。肌が白くて、表情がほとんどない。灰色の目が空洞みたいに静かだった。
膝の上の本のタイトルが見えた——「死の美学」と書いてある。目が合うと、少しだけ頷いた。
もう一人は、反対側の隅に丸まっていた。白い髪で、白い肌で、白い服だ。全体的に白い。膝を抱えて、真っ赤な目がどこか遠くを見ている。
「……はじめまして。好代です」
「……涅槃です」と濃紺髪の子が低い声で言った。「接客担当。あなたのことは話に聞いています」
「空無」と白い子が静かに言った。声がとても小さかった。「……いつか話せると思っていました」
三人でしばらく沈黙があった。涅槃ちゃんは本を読んでいる。空無ちゃんは膝を抱えたまま、どこか遠くを見ている。
「……涅槃さんの担当バーガーは何ですか」と好代は聞いた。
「「終わりの静けさ」の系統です。その世界線の最後の瞬間を濃縮した知識が入ります。終わることが怖くなくなる。でも——好代さんには少し早いかもしれません」
「なぜですか」
「まだ始まったばかりだから。終わりを知るには、たくさんのものを持ってからがいい」
好代はその言い方が少し気に入った。
「空無さんの担当は」
「……「何もない」の知識、です」と空無ちゃんが言った。「何も持たない世界線。何もないから、何でもそこに置けます。受け取る側になれる」
「それはどんな感触ですか」
「……すごく、静かです。全部降ろせる。でも——」と空無ちゃんが少し止まった。「降ろしすぎると、戻れなくなることもあります」
今の好代はうるさいまま走る、だ。空無ちゃんの「全部降ろす」とは逆のやり方。でも——どちらも、何かを受け取るための方法だと思った。
「……いつか、食べさせてもらえますか。両方」
「……はい」と空無ちゃんが言った。少しだけ、笑った気がした。
「機が来たら」と涅槃ちゃんが言った。「急がなくていい」
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◇クルー視点モノローグ——妄執──観測記録・好代ちゃんの件
「写真を撮るのは許可がいる」って言われた。
そういうもの、らしい。知らなかった。今まで誰かに言われたことがなかった。
私の担当バーガーは観測系で、対象の状態を把握することが仕事だ。ずっと、「観ること」が全部だと思っていた。観ることは知ることで、知ることは愛することだ、と私は思っている。
でも好代ちゃんは「気持ちよくない」と言った。
……観られる側の気持ち、私にはうまくわからない。私が観る側すぎて。
でも好代ちゃんは「考えます」と言った。断らなかった。
それが嬉しかった。「観てもいい?」って聞いたのは初めてだった。許可を取る概念が私になかったから。
今日から、ちゃんと聞く。好代ちゃんが嫌なことはしない。それが——「観ること」より大事かもしれない、と初めて思った。
──────────────────◇クルー視点モノローグ——涅槃──短い記録
新入りの子に「まだ早い」と言った。
本当は——早くなくても、私のバーガーは誰にでも食べてもらいたい、とも思っている。終わることを知っている方が、今を丁寧に歩けるから。
でもその子はまだ知識を積んでいる途中だ。終わりを知るのは、たくさんを持ってからがいい。それは本当のことでもある。
「いつか食べさせてもらえますか」と言われた。
……いつか、ちゃんと用意しておこう。
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エピローグ「観ることと、見せること」
夜、好代は脱衣場の鏡の前に立った。地雷系の制服を着た自分の顔。
今日、妄執ちゃんに壁いっぱいの写真を見せてもらった。知らないところで観られていた自分。
嫌だった、というより——知らなかった、という感覚の方が強い。知らないところで誰かに見られているのは、自分だけが知らない話が進んでいる感じだ。
でも妄執ちゃんは悪意がなかった。「観ること」が全部で、見せることとの違いを知らなかっただけだ。
においを嗅ぐとき、好代は棚を開けて知識を受け取る。自分から情報を取りに行く。それは「観る」に近い。
でも今日、観測バーガーの知識が入った時——廊下の向こうの人の存在を「感じた」感触は、「観る」より「気づく」に近かった気がする。
観ること、気づくこと、見せること。全部が少しずつ違う。それを今日、少し知った。




