第8話「瑠志ちゃんと流焔ちゃんと、実地の話」
十五日目の朝、秩序ちゃんから「対外業務の依頼があります」と言われた。
対外業務——ぱんでむの外、つまり世界線の境界付近に出向いて、バーガーを届ける仕事だ。
好代はぱんでむに来て以来、外に出たことがなかった。毎日渋谷から来て、渋谷に帰る。ぱんでむの中だけで過ごしてきた。
「怖いですか」と摩天ちゃんに聞いたら、「怖くはないと思いますが、慣れないかもしれません」と言われた。
護衛として、瑠志ちゃんと流焔ちゃんが同行する、とのことだった。
二人のことは名前しか知らない。
第一章 「瑠志ちゃんと流焔ちゃん」
◆ 出発前の訓練場
朝、好代が訓練場に行くと、小柄な二人組がいた。
一人は、すごく落ち着いた立ち方をしている。腕を組んで、壁にもたれている。制服の上に腕章みたいなものをつけていて、茶髪を高く結っている。目が切れ長で、何かをずっと観察しているような目だ。
もう一人は、反対側の壁のそばで片足立ちをしていた。虎縞の黄色い短い髪で、制服の袖を片方だけまくっている。首元にスカーフが巻いてあって、それが少し焦げている。じっとしていない。
「好代さんですね」と茶色の子が言った。「瑠志です。戦闘系の担当で、護衛任務も受けます」
「流焔!」と虎の子が言った。流焔ちゃんだ。「私も戦闘!でも炎の方!」
「……よろしくお願いします」
瑠志ちゃんが好代を頭から足先まで一通り見た。
「……今の好代さんの戦闘能力を確認したい。三分だけいいですか」
「はい」
三分の確認だった。好代は棚を開けて、音とにおいと視覚と戦闘知識を全部薄く受け取りながら動いた。整理しないまま全部で動くやつだ。
瑠志ちゃんが静かに見ていた。流焔ちゃんが「おっ!」と何度か言った。
「……変な動き方ですね」と瑠志ちゃんが言った。批判ではなく、純粋な観察の声で。
「棚を整理しないで全部同時に受け取って動いてます」
「情報処理をしないで情報を全部流しながら動く。……面白い。でも隙が多い」
「はい、まだ精度が低いです」
「今日は護衛がいるから大丈夫」と瑠志ちゃんが言った。「ただ、一つ教えます。棚を全部開けると情報量が増えますが、「これだけ」という瞬間に絞ることもできますか」
好代は少し考えた。
「……まだ難しいです」
「外では必要になることがある。今日練習します」
「わかりました」
流焔ちゃんが「私が炎で何とかするから!」と明るく言った。
「流焔は余計なことを言わないように」と瑠志ちゃんが言った。
「えー! 私のサポートは十分役に立つよ!」
「役に立つが発言が多い」
好代はその二人を見て、少し笑った。
第二章 「境界の外」
◆ 出発
午前十時。三人は渾沌ちゃんに「いってらっしゃい!」と見送られ、ぱんでむの裏口から外に出た。
渾沌ちゃんがついてきて「すきよちゃんは外に出るの初めてだよね、楽しんできてね!」と言って、瑠志ちゃんに「ちゃんと連れて帰ってよ」と言った。瑠志ちゃんが「もちろんです」と言った。
外、というのは——渋谷でもなかった。
渾沌ちゃんが空間を少し動かした。渋谷を通らず、別の道を通った感覚がした。そして——
── 境界の空 ──
広い場所だった。
空が見える。でも見たことがない空だ。色が淡い紫で、雲の形が少し違う。光の方向が二つある——太陽が二つある世界線の空かもしれない。
地面は草だ。背の低い草が一面に生えていて、風で揺れている。においがした——草と、土と、どこか遠くに水のにおい。
遠くに何かある。建物みたいなもの——でも建物の形が少し違う。ここは別の世界線の、どこかの場所だ。
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好代は立ち止まった。棚を全部開けた。
音が来た——草の音、風の音、虫の音、遠くの何かの音。においが来た——草と土と水と、知らない花のにおい。視覚が来た——光が二方向から来ている、影が二重になっている。
全部が同時に来た。
ここは好代が今まで食べたバーガーのどれとも違う。まだ食べていない世界線の空気だ。
「……すごい」と好代は思わず言った。
「初めて外に出ると、そうなりますよね」と瑠志ちゃんが静かに言った。「でも今は集中を。届け先まで二十分歩きます」
「太陽が二個あるの! この世界線、面白いよね!」と流焔ちゃんが言った。
◆ 歩きながら
三人で草原を歩いた。
流焔ちゃんがずっと何か言っている。「この草、食べられそう!」「あの雲の形、面白い!」「あ、何か飛んでる!」好代はその都度に少しずつ棚を開けて、それぞれを確認した。飛んでいるのは、この世界線の鳥みたいな生き物だった。
瑠志ちゃんは無言で歩いている。でも歩き方が違う。好代は棚を開けて音で確認した——瑠志ちゃんの足音が、周囲の音に混じりながら、同時に周囲全体を把握するように動いている。歩きながら護衛をしている。
「……瑠志さん、歩き方が独特ですね」と好代は言った。
「……気づきましたか」と瑠志ちゃんが少し驚いた声で言った。
「音を使って周囲を把握しながら歩いてますよね。私も音の知識を少し持っているので、なんとなく」
「……正確です。私の担当バーガーは「反射と感知」の系統で、音と振動で空間全体を把握できます。あなたが音の知識で似たことをしているのが見えていました」
「似てる!」と流焔ちゃんが割り込んだ。「でも流焔は真逆で、全部燃やして確認するタイプ!」
「それは確認ではなく破壊だ」と瑠志ちゃんが言った。
「同じじゃない?」
「全然違います」
好代は二人のやり取りを聞きながら歩いた。
今、棚を「これだけ」に絞ってみる練習をした。音だけ、と意識した。草の音、風の音、足音、遠くの音——それだけに絞った。他が薄くなった。できた。
「……できました。「これだけ」に絞る」
「いい」と瑠志ちゃんが短く言った。瑠志ちゃんに「いい」と言われると、摩天ちゃんとはまた違う「いい」で、少し嬉しかった。
◆ 届け先
二十分歩いて、小さな建物についた。
石造りの建物で、扉が古い木製だ。表に何も書いていない。でもにおいがした——古い紙と、時間のにおい。
瑠志ちゃんが扉をノックした。中から返事がした——好代には言葉が聞き取れなかった。でも瑠志ちゃんが「いいです、入れます」と言った。
中に入ると、老人がいた。この世界線の人間だ。目が深くて、穏やかだった。
瑠志ちゃんがバーガーの入った小さな箱を手渡した。老人が受け取った。何か言った——好代には言葉がわからないが、感謝しているような感触だった。
老人が去り際に好代を見た。好代を見て、少し目が細くなった——微笑んだのかもしれない。
「……このバーガー、どんなバーガーですか」と好代は瑠志ちゃんに小声で聞いた。
「記憶の補助バーガーです。この世界線では、高齢になると特定の記憶が消えていく病気がある。そのバーガーを食べると、一時的に消えた記憶が戻る」
好代は箱が渡された場面を思い返した。老人の手の動き。受け取った時の顔。
「……届ける、ということが、業務なんですね」と好代は言った。
「そうです。ぱんでむは外に届けることもする。世界線を終わらせるだけじゃない」
流焔ちゃんが外で待っていた。戻ると「どうだった!?」と聞いてきた。
「記憶が戻るバーガーを届けました」
「なんかいい話じゃん! 私、そういう仕事も好き! 燃やさなくていいやつ!」
好代は空を見上げた。二つの太陽が、少し傾いていた。
第三章 「帰り道と瑠倫ちゃん」
◆ 帰り道、空の話
帰り道、来た草原を戻りながら、流焔ちゃんが好代に話しかけてきた。
「好代ちゃん、外は初めてだったんだよね?」
「はい」
「どうだった? 正直に言っていいよ」
好代は少し考えた。
「……知らない空気がして、知らないにおいがして、全部の棚が一斉に開きそうになりました。それを抑えながら歩くのが、難しかったです。でも——面白かった」
「でしょ! 私、外の仕事が好きなのはそれだよ。毎回違うから。全然飽きない」
「流焔さんは炎の担当バーガーなんですよね。外で使うことが多いですか」
「多い! 炎はけっこうどこでも役に立つし。でも瑠志ちゃんに「使いすぎ」ってよく言われる」
「使いすぎですよ」と瑠志ちゃんが前を歩きながら言った。
「えーっ! 全部解決したでしょ!」
「「全部燃やした」と「解決した」は別です」
好代はまた笑った。
戻り際、空が少し変わった。二つの太陽の一つが雲に隠れて、空が片側だけオレンジになった。
その時、上から声が来た。
「おー、この世界線の夕方、きれいですねー」
三人が上を見た。
空に——女の子がいた。
正確には、雲の上に立っていた。床が雲の茶室から出てきたみたいに、雲の上にいる。制服を着ていて、長い袖が風に揺れている。黄色い髪を後ろで縛っていて、上からこちらを見下ろしている。まん丸な目が穏やかで、どこか遠いところを見ていた。
「……瑠倫ちゃん、来てたんですか」と瑠志ちゃんが言った。
「たまたまこっちの雲が良かったので。三人でお仕事だったのね。お疲れさまです」と雲の上の子が言った。
「……瑠倫さん?」と好代が言った。
「瑠倫です。天象系の担当。雲とか気流とか、そういうものを扱うよ。新入りの子だね、聞いています」
「はい、好代です。雲の上にいるのが普通なんですか」
「日によって」と瑠倫ちゃんが言った。「今日はこの世界線の気流が面白かったので」
瑠倫ちゃんが手を挙げた。「またノシノシ」と言って、雲の中に沈んでいった。
流焔ちゃんが「瑠倫ちゃんはいつもあんな感じ」と言った。
「自由ですね」
「自由! でも気象操作は本当にすごいんだよ。雨とか嵐とか、必要なときに呼んでくれるから」
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◇ クルー視点モノローグ —— 瑠志 ── 帰還報告
今日の好代さんの動きは、予想より安定していた。
棚を「これだけ」に絞る練習を、歩きながら自分でやっていた。教えたことを即座に試す。それも一人で、誰かに言われる前に。
私の担当バーガーは「反射と感知」だ。音と振動で空間を把握する。棚という整理の仕方はしないが、情報を「必要なものに絞る」という動作は似ている。
彼女の「全部開けたまま動く」という方法は、私の方法とは違うが——情報の扱い方として、一つの答えだと思う。
次は外での単独行動もできるかもしれない。摩天に伝えておく。
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──────────────────◇ クルー視点モノローグ —— 流焔 ── 今日のふりかえり
好代ちゃんかわいかった。外に出た時の顔が。棚を全部開けてにおい嗅いで、でもちゃんと歩いてた。
私、外の仕事が好きなのは、いつでも違うから。毎回知らない空だし知らない地面だし。飽きない。
でも今日は特別よかった。老人に箱を渡した時の好代ちゃんの顔が、すごく真剣で。「届ける」ってそういうことか、ってわかってる顔だった。
炎の仕事は大体「燃やして解決」なんだけど。たまにこういう届ける仕事があると、炎じゃない意味もわかる。
……ちょっと嬉しかった。瑠志ちゃんには言わない。絶対「感傷的」って言われる。
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エピローグ 「外のにおい」
帰り道に渋谷を通った。渾沌ちゃんのお迎えで、いつもの路地に出た。
瑠志ちゃんと流焔ちゃんはぱんでむに戻っていった。好代は一人で渋谷の夜に出た。
歩き出して、少しして気づいた。
手のひらに、まだ草原のにおいが残っている気がする。
好代は手のひらを顔に近づけた。においを嗅いだ。かすかに——草と、土と、二つの太陽の光の感触が、あった。
また新しいの世界線の欠片が、今日追加された。
好代はポケットに手を入れて歩いた。マクドナルドの前を通った。においがした。いつものにおいだ。
でも今日は、それが少し違う意味に聞こえた。
「外」にも、届けるバーガーがある。世界線の跡だけじゃなくて、今もどこかで生きている人に届くバーガーがある。
それを知ったのが、今日だった。
十六日目が来る。




