第6話「秩序ちゃんと、姉さんの話」
好代はぱんでむに来て以来、毎日バーガーを食べている。
食べて、知識が入って、訓練して、また食べる。それが好代の一日だ。
ぱんでむのクルーたちと話すようになって、好代は少しずつ「それぞれが何を好きか」を知ってきた。
摩天ちゃんは「正確であること」が好きだ。世達ちゃんは「終わること」が好きだ、と言っていた——終わらない始末書の話の流れで。郷愁ちゃんは「夕暮れの時間」が好きだ。渾沌ちゃんは「壊れる瞬間」が好きだ。
でも秩序ちゃんは——十一日間、一度も「好きなもの」を口にしたことがない。
それに気づいたのは、十一日目の朝だった。
第一章「ノックをする」
◆十一日目の朝
朝のバックヤード。好代が制服に着替えてリビング・オブ・カオスに出ると、秩序ちゃんが一人でテーブルに座っていた。
書類を見ている。いつも何かを見ている。でも今日は少し、いつもと違う気がした。書類じゃなくて、テーブルの一点を見ている感じだ。
「おはようございます」と好代は言った。
「……おはようございます」と秩序ちゃんが言った。顔を上げた。いつも通りの静かな表情だ。
好代は隣に座った。
「今日の訓練の予定は」
「午後から摩天ちゃんと実地応用のテストです。午前は自由時間にしてあります」
「ありがとうございます」
お茶が来た。秩序ちゃんが注いでくれた。
しばらく二人で飲んだ。
好代は少し考えてから、言った。
「……秩序さん、一個聞いてもいいですか」
「なんですか」
「秩序さんの「好きなもの」って何ですか」
秩序ちゃんが少し止まった。
ほんの一瞬、お茶を持つ手が静止した。
「……なぜそれを聞くんですか」
「みなさんに少しずつ聞いてきたんですが、秩序さんには聞いたことがなかったな、と思って」
秩序ちゃんがお茶を一口飲んだ。
「……業務上、自分の嗜好を共有する機会がないので」
「業務上じゃなくても聞いていいですか」
また少し間があった。
「……後で、部屋に来てください」と秩序ちゃんが言った。「少し、話せることがあるかもしれません」
第二章「執務室(ノック厳守)」
◆扉の前
午前中、好代は「黄昏」でお茶を飲んでから、秩序ちゃんの部屋の前に立った。
扉はシンプルだ。白い木の扉。取っ手が銀色。ドアプレートに小さく「執務室」と書いてある。その下に、もっと小さく「ノック厳守」と書いてある。
好代はノックした。三回、丁寧に。
「……どうぞ」
扉を開けた。
白かった。
床も壁も天井も、全部白い。塵一つない。フロアには白いデスクと白い椅子だけがある。棚が一つ——白い棚に、白いファイルが並んでいる。照明が均一で、影がほとんどない。
においがした。紙のにおいと、インクのにおい。あとかすかに——好代には判別できない、でも清潔で静かなにおい。
秩序ちゃんがデスクの椅子から立って、好代を見た。
「……座ってください」
デスクの前に椅子が一つ用意されていた。好代は座った。
秩序ちゃんもデスクに戻って座った。
二人で向かい合った。いつもの訓練記録の場面と似ているが、今日は書類がない。
◆隠し扉
しばらく沈黙があった。秩序ちゃんが何かを決めているような間だった。
「……見せたいものがあります」と秩序ちゃんが言った。
秩序ちゃんが立ち上がって、棚の端に近づいた。棚の一番端の部分に手を当てて、少し動かした。
棚が動いた。
棚の奥に扉があった。白い壁と同じ色で、ほとんど見えなかった。秩序ちゃんが取っ手を引いた。扉が開いた。
においが来た。
花のにおい。何かの線香のにおい。木のにおい。そして——バーガーのにおいが、少し遠くから。
好代は立ち上がって、秩序ちゃんの横に並んだ。
小さな部屋だった。
正確には部屋というより、小さな奥まった空間だ。白い壁に、棚が一つ。棚の上に、いくつかのものが並んでいる。
白い花が一輪、小さな花瓶に挿してある。線香台に線香が置いてある——火はついていない。バーガーの包み紙が、丁寧に畳まれて置いてある。いくつかの写真立て——写真は入っていない。空の写真立て。そして、一枚の紙が額に入って壁に掛かっている。
紙に書いてあるのは、短い文章だった。
──額の中の文字──
「おいしいものを食べたら、すぐ誰かに話したくなる。
それが私の一番好きなことだ」
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好代はそれを読んだ。
筆文字だ。読みやすい、でも少し急いで書いたような字だ。
「……誰の言葉ですか」と好代は聞いた。
「……姉さんの、です」と秩序ちゃんが言った。
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◇クルー視点モノローグ——秩序──祭壇の前で
この部屋を人に見せたのは、好代さんが初めてだ。
なぜ見せようと思ったのかは、うまく説明できない。
ただ——「好きなものは何ですか」と聞かれた時、答えられなかった。
私は業務のことしか話さない。それが正しいと思っていた。私の仕事は記録と管理だから、感情を混入させる必要がない。
でも好代さんに聞かれた時、「ない」と言えなかった。
それは——ここに、姉さんの言葉があるからだ。
「おいしいものを食べたら、すぐ誰かに話したくなる」。
それが姉さんの好きなことで、私が一番よく覚えている姉さんの顔だ。
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第三章「姉さんの話」
◆「秩序ちゃんの姉」
好代と秩序ちゃんは、執務室に戻って向かい合って座った。
「……「姉さん」というのは、渾沌さんのことですか」と好代は聞いた。
「はい」と秩序ちゃんが言った。「渾沌は私の姉です」
「姉妹なんですね」
「……同じ親から生まれた、という意味ではありません。渾沌が——私の前に存在していて、私はその後から来た。「始まり」と「続き」のような関係です」
好代はその言葉を聞いた。
「……秩序さんが「秩序」という名前なのは、姉さんが「渾沌」だからですか」
「……そうかもしれません」と秩序ちゃんが少し間を置いて言った。「姉さんがいるから、私は「秩序」になった。姉さんが全部を崩して、広げて、散らかしたものを、私が記録して、整理して、次に繋ぐ。それが私の在り方です」
「……渾沌さんは知ってますか、この話」
「……知っています。でも姉さんはこういうことを言語化するのが得意ではないので、直接話したことはない」
好代は少し考えた。
「……渾沌さんは「おいしいものを食べたらすぐ誰かに話したくなる」と言った人なんですか」
「はい。それが姉さんの一番好きなことで、私が最初に知った姉さんの「好き」でした」
秩序ちゃんの声が、少し変わった。いつもの事務的なトーンから、ほんのわずかに——温かい何かが混じった。
「……姉さんは、ぱんでむのバーガーを全部食べています。どのバーガーについても、必ず感想を言います。「これはこういうにおいで、こういう味で、こういう後味がある」と。誰かに話すために食べているみたいに」
「……それで、ぱんでむにいるんですか、渾沌さんは」
「……私はそう思っています。姉さんが「おいしいものを食べてすぐ誰かに話せる場所」として、ここを作ったんだと」
好代はそれを聞いた。
渾沌ちゃんが最初に言っていたことを思い出した。「ぱんでむのバーガーを「うまい」と言ってほしい」と。
ぱんでむを作ったのは、渾沌ちゃんが「おいしい」を誰かと共有するためだった——かもしれない。
◆秩序ちゃんの「好き」
「……秩序さんの「好きなもの」はなんですか」と好代は改めて聞いた。
秩序ちゃんが少し下を向いた。
「……私には、「好きなもの」がうまくわかりません」
「わからない、というのは」
「……姉さんのように、「これが好き」と即座に言えるものが、私にはない。記録と管理が得意なのは確かですが、それが「好き」かと言われると——目的のために行うことと、好きで行うことの境界が、私にはうまく見えない」
好代はそれを聞いた。
「……秩序さんは、私の記録をとても細かく取ってますよね」
「はい。それが業務ですから」
「でも他のクルーの記録より細かい気がします。私が気づいたことを全部書いてくれているし、私が言わなかったことまで書いてくれていることもある」
秩序ちゃんが少し止まった。
「……それは」と秩序ちゃんが言った。「あなたの能力が前例のないものだから、記録の精度を上げる必要があって」
「それだけですか」
また間があった。今度は少し長かった。
「……あなたがバーガーを食べた時の顔が、姉さんに似ているから、かもしれません」
好代は少し驚いた。
「……渾沌さんに、ですか」
「おいしそうに食べる、という意味で。嬉しそうに、という意味で。姉さんはどのバーガーを食べても、必ずその顔になります。あなたも、そうです」
秩序ちゃんの声が平坦だった。でも平坦なのに、何かが含まれていた。
「……私はあなたの記録が、好きなのかもしれません」と秩序ちゃんが言った。「業務上の関心と、それ以外の何かが、まだうまく分けられていませんが」
好代はそれを聞いた。
秩序ちゃんがそれを言うのに、少し時間がかかったことがわかった。言いにくいことを、丁寧に言ったのだと思った。
「……ありがとうございます」と好代は言った。
「……なぜ感謝するんですか」
「話してくれたから。「好きかもしれない」を教えてくれたから」
秩序ちゃんが少し下を向いた。何も言わなかった。でも拒絶でもなかった。
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◇クルー視点モノローグ——渾沌──こっそり
実は今日、廊下でちょっとだけ聞こえた。
秩序ちゃんが「私はあなたの記録が好きなのかもしれません」って言うのが。
秩序ちゃんが「好きかもしれない」って言うの、私、初めて聞いた。
私にはいつも「業務上」って言うから。感情の話はしないから。
すきよちゃんすごいな、と思った。
でも多分、すきよちゃんはその「すごいこと」を全然意識してないんだよね。ただ「好きなものは何ですか」って聞いただけで。
そういうとこが、似てるんだよな。
においがするから、近づく。好きだから、聞く。それだけで、扉が開く。
私がずっとやりたかったことを、この子はなんでもなくやる。
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第四章「秩序バーガー」
◆午後の訓練の前
午後の実地応用テストの前に、秩序ちゃんが好代に声をかけた。
「……一つ、食べてもらいたいバーガーがあります」
秩序ちゃんが持ってきたのは、白い包み紙のバーガーだった。
包み紙が、塵一つなく折られている。端が完全に揃っている。好代は思わず「包み方がきれいですね」と言った。
「……私が折りました」と秩序ちゃんが言った。
においを嗅いだ。
清潔なにおいだ。紙のにおいと、インクのにおいと、何か——正確なものの感触。均一なもの、整ったもの、誤差のないものの感触が、においとして来た。
「……何のバーガーですか」
「「記録の世界線」からのバーガーです。ある世界線では、全ての出来事が完全に記録され、記録が実在として機能します。その世界線では——過去が書き換えられない。記録が真実と同じ重さを持つ」
「秩序さんの担当バーガー、ですか」
「……そうです。私がクルーとして扱えるバーガーです。あなたに食べてもらったことはありません。今日、試してみてほしい」
好代はそれを受け取った。
においが近くなった。整ったにおい、正確なにおい。好代には少し——涼しすぎる感じもした。でも嫌じゃない。
「いただきます」
食べた。
知識が来た。
映像ではなかった。感触だった。
「全部が残る」という感触。起きたことが、起きたまま存在し続ける。消えない。曖昧にならない。風化しない。
それは、好代がこれまで食べたどのバーガーとも違った。
力の知識でもなく、感覚の知識でもなく——「確かさ」の知識だった。
何かが起きたなら、それは起きたのだ。誰も消せない。誰も書き換えられない。記録が、世界の骨格だ。
好代はそれをゆっくり受け取った。
ここのところ、「整理しないで全部受け取る」練習をしていた。今日のこの知識も——棚に入れようとするのをやめて、ただ受け取った。
「確かさ」が、全部の知識の下にある感触だった。音の知識も、においの知識も、戦闘の知識も——それぞれが「起きていること」として存在する。バラバラのまま、全部本当だ。
「……何が入りましたか」と秩序ちゃんが聞いた。
「「全部が残る」という感触です。何かが起きたなら、それは消えない。それが知識として入りました」
秩序ちゃんがメモを取った。
「……他の知識との干渉は」
「なかったです。むしろ——全部の知識の基盤みたいな感触でした。他の知識が「起きていること」として存在できるための、土台みたいな」
秩序ちゃんがペンを止めた。
「……記録の世界線のバーガーが、他の知識の安定剤として機能する可能性がある」と秩序ちゃんがゆっくり言った。「「全部が残る」という感覚が、複数の知識を並立させる基盤になる——」
「……秩序さん、少し楽しそうですね」と好代は言った。
秩序ちゃんが顔を上げた。
「……そうですか」
「はい。声のトーンが少し変わりました」
秩序ちゃんが少し下を向いて、また書類に目を戻した。でも好代には、秩序ちゃんの口元がかすかに動いた気がした。
「……記録します」と秩序ちゃんが言った。「今日の摂食で、「記録バーガー」が他の知識の安定化に寄与することが確認された。また——」と少し間を置いた。「摂食後の好代さんの表現「土台みたいな」は、適切な言語化だったと思います」
「ありがとうございます」
好代はそれを聞いて、少し嬉しかった。
秩序ちゃんに「適切」と言われるのは、褒め言葉だとわかってきた。
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◇クルー視点モノローグ——秩序──業務記録・個人追記
「私はあなたの記録が好きなのかもしれません」と言った。
言った後で、少し恥ずかしかった。「恥ずかしい」という感覚は、私にはあまりないのだが、今日はあった。
姉さんのことを話した。祭壇を見せた。
姉さんは今日も元気だ。さっきリビング・オブ・カオスでソフトクリームを食べながら「すきよちゃんと話せてよかったー!」と私に言いに来た。
「秩序ちゃんも楽しかったでしょ!?」と言うので「業務上、有意義でした」と答えたら「もう!」と言われた。
……楽しかった、かもしれない。
それが「楽しい」という感覚なのか、私にはまだうまくわからない。でも——記録を取る手が、今日はいつもより速かった。
それが証拠の一つかもしれない。
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エピローグ「今日の「おいしかった」」
実地応用テストが終わった夕方、好代は「黄昏」に入った。
郷愁ちゃんがいた。渾沌ちゃんもいた。渾沌ちゃんが「どうだった!?」と聞いたので、好代は今日あったことを話した。
秩序ちゃんの部屋のこと。祭壇のこと。「おいしいものを食べたらすぐ誰かに話したくなる」という言葉のこと。
渾沌ちゃんが聞きながら、なぜかだんだん目が潤んできた。
「……渾沌さん、泣きそうですか」
「泣いてない!全然泣いてない!ちょっと目にゴミが入っただけ!」
郷愁ちゃんが静かにお茶を渾沌ちゃんの前に置いた。渾沌ちゃんが飲んだ。
「……あの子が書いたんだ、あれ」と渾沌ちゃんがしばらくしてから言った。「秩序ちゃんが生まれた最初の頃に。私が「好きなことって何?」って聞いたら、あの子がすごく長い間考えて、あれを書いたんだよ」
「……そうなんですか」
「うん。私の言葉を、秩序ちゃんが書き留めてくれたの。私が言ったことは覚えてなかったけど、秩序ちゃんが「あなたが言った」って教えてくれた」
好代はそれを聞いた。
渾沌ちゃんが言ったことを、秩序ちゃんが記録した。記録したから、残った。残ったから、今もある。
「おいしいものを食べたらすぐ誰かに話したくなる」——渾沌ちゃんの言葉が、秩序ちゃんの部屋にある。
それは、秩序ちゃんの「好き」だったのかもしれない。姉さんの言葉を残すことが。
好代は今日食べた「記録バーガー」の知識を思い出した。「全部が残る」という感触。消えないこと。
それは秩序ちゃんが、ずっとやってきたことだ。渾沌ちゃんが散らかして広げたものを、消えないように記録する。
「……今日のバーガー、おいしかったです」と好代は言った。
「どんな味だった?」と渾沌ちゃんが聞いた。
「清潔で、整ったにおいがして、食べたら「確かさ」が入ってきました。今まで食べた中で一番地味だったかもしれませんが、一番「安心」した気がします」
「……秩序ちゃんらしいね」と渾沌ちゃんが笑った。
郷愁ちゃんが「そうかもしれない」という顔で、夕暮れの窓の外を見た。
三人で、しばらくそのままでいた。
好代は今日の全部——祭壇の言葉も、秩序ちゃんの「好きかもしれない」も、渾沌ちゃんの少し潤んだ目も——全部が本当に起きたことで、消えないのだ、と思った。
それで十分だった。




