第5話「渾沌ちゃんと、はじめての失敗」
好代はこれまで、バーガーに関して失敗したことがなかった。
正確に言えば、食べること自体が十七年間「失敗」だった。でも、ぱんでむに来てからは違う。食べた全部が成功だった。知識は入る、体は安定している、組み合わせもうまくいく。
だから九日目に初めて「うまくいかない」ことが起きた時、好代はどうしたらいいか少しわからなかった。
失敗の経験が少ない人間は、失敗した時に何をすればいいかを知らない。
好代はそれを、渾沌ちゃんに教わることになる。
第一章「訓練の崩壊」
◆九日目の訓練
九日目。好代の頭の中には今、四十種類以上の知識が入っている。
あれから、訓練の合間に少しずつバーガーを追加してきた。七種類新しく加わった。時間知覚の精度を上げるもの、遠距離の音をピンポイントで拾うもの、金属の構造を感知できるもの。どれも単独では問題なく使える。
今日の訓練のテーマは「同時並行制御」だった。
複数の知識を同時に引き出しながら、それぞれを独立して使う——そういう練習だ。
摩天ちゃんの説明では、「音の知識で周囲を把握しながら、においの知識で気流を読みつつ、戦闘知識で動く」という三重の同時展開を試みる、というものだった。
「……やってみます」
好代は目を閉じた。
まず音の知識を引き出した。部屋の中の音が全部見える——壁の向こうで誰かが話している。空調のかすかな振動。自分の心拍。
次においの知識。空気の流れが読める——摩天ちゃんが右にいる。扉は閉まっている。外廊下で誰かが歩いた。
三つ目、戦闘知識——
そこで、何かが起きた。
頭の中の「棚」が、ぐらついた。
音の知識とにおいの知識が干渉した。二つが別々の方向に「空間の地図」を作ろうとして、片方が「右」と言い、もう片方が「やや右斜め」と言った。わずかな誤差だ。でも戦闘知識が両方の情報を受け取って、どちらを使えばいいかわからなくなった。
棚が混雑した。
引き出しが全部少し開いた状態になった。
好代の動きが、止まった。
「……止まりました」
「何が起きた」と摩天ちゃんが静かに聞いた。
「音とにおいの空間認識が少しずれていて、戦闘知識がどちらを基準にすればいいか判断できなくなりました。棚が全部中途半端に開いた状態です」
摩天ちゃんが少し考えた。
「……リセットして」
「どうやって」
「知識を全部、一度しまう」
好代はやってみた。
一度全部を閉じた。音も、においも、戦闘も。棚を全部閉めて、深呼吸した。
また引き出した。今度は慎重に、音だけ。
できた。
においだけ。できた。
二つ同時。——また、ずれた。
同じところでまた止まった。
「……同じ場所で同じ現象が起きました」と好代は言った。「この組み合わせが相性悪いのか、それとも私の使い方の問題か、判断できません」
摩天ちゃんが少し間を置いた。
「……今日はここまでにしよう」
「まだ続けられます」
「無理に続けても、同じ失敗を繰り返すだけ。解決策がわかってから再挑戦する方が効率的」
好代はうなずいた。でも少し、悔しい感触があった。
今まで失敗したことがなかったから、どうしていいかわからない。
◆昼すぎ、渾沌ちゃんと会う
訓練が終わって、好代はリビング・オブ・カオスに戻った。
渾沌ちゃんがソファに横になって、天井を見ていた。今日はモニターがついていない。
「すきよちゃん、元気ない顔してる」と渾沌ちゃんが言った。
「……そうですか」
「なんかあった?」
「訓練でうまくいかないことがあって」
渾沌ちゃんがむくっと起き上がった。
「失敗した?」
「はい。同じ場所で二回同じ失敗をしました」
「おー!すきよちゃん、はじめて失敗したんじゃん!」
渾沌ちゃんが、なぜかとても嬉しそうな顔をした。
「……喜ぶところですか」
「喜ぶよ!すごいことじゃん!」
「すごいことじゃないと思いますが」
「うんうん、でもすごいんだって。ちょっと来て来て!私の部屋に来てほしいんだけど」
渾沌ちゃんが立ち上がって、廊下に向かった。
好代は少し迷ってから、ついていった。
第二章「あそびば!」
◆渾沌ちゃんの部屋
渾沌ちゃんの個室は、廊下の奥だった。扉に「あそびば!」と書いてある。ひらがな。マーカーペンで大きく。
扉を開けた瞬間、好代は思わず目を細めた。
広い。
廊下から想像した何百倍も広い。
床一面にボールプールがある。プールの中に無数の小さな丸いものが詰まっていて——よく見ると、それが星みたいに光っている。一個一個がかすかに発光していて、色も全部少し違う。青い光、緑の光、白い光、赤い光。
壁は見えない。壁の代わりに、また光るものが続いている。宇宙みたいだ。
天井もない。上を見ると、ずっと高いところに星が散っている。
においがした。懐かしいというか——おもちゃのにおいに近い。新しいぬいぐるみのにおいと、少し甘いにおいが混ざっている。
「……渾沌さんの部屋ですか、ここ」
「そう!私の「あそびば」!このボールプール、一個一個が別の宇宙なんだよ。触ると中の様子が少しわかる」
「……一個一個が宇宙」
「うん。ボールプールって言ってるけど、正確にはボールプールじゃなくて宇宙プール。でもボールプールの方がかわいいから、ボールプールって呼んでる」
渾沌ちゃんがボールの中に飛び込んだ。ざぱん、という音がして、光がいくつか散った。
「入っていいよ!端の方は特に何もないから」
好代は恐る恐る端のボールを一個手に取った。
小さな球体が手のひらに収まった。温かい。かすかに、何かの気配がする。
「……何か、います、この中に」
「いるよ!虫みたいな生き物かな、その色は。何かの星に住んでるやつ」
「大丈夫ですか、これ」
「大丈夫大丈夫!このボールの中にいるのは、ちゃんとこの中で続いてるから。壊れないし、出てこない」
好代は手のひらの球体を、ゆっくり戻した。
渾沌ちゃんがボールの中から好代を見上げた。
「すきよちゃん、今日失敗したって言ってたじゃん」
「はい」
「何回失敗したの?」
「二回、同じ場所で」
「それって、どう感じた?」
好代は少し考えた。
「……悔しかったです。それと、どうしたらいいかわからない感触がありました」
「どうしたらいいかわからない、か」と渾沌ちゃんが繰り返した。「それって、すきよちゃんが今まで失敗したことが少なかったからじゃない?」
「……そうかもしれません。バーガーについては特に。今まで全部うまくいってたので」
「うまくいってたのは、うまくいくようにできてたからだよ」と渾沌ちゃんが言った。「でも今日は、うまくいかないところに当たった。それって、続きが出てきたってことじゃん」
好代は少し考えた。
◆渾沌ちゃんの話
渾沌ちゃんがボールプールの中で仰向けになった。星が散っている天井を見ながら話し始めた。
「私ね、始まりと終わりを全部見てきたの」
「……どういう意味ですか」
「いろんなものの。宇宙の始まりとか、文明の終わりとか、でっかいものからちっちゃいものまで全部。好きだったから、見てた。壊れるのが特に好きで」
「壊れるのが好き」
「うん!壊れる瞬間って、すごくきれいなんだよ。何かが崩れる時、形が一番複雑になる。崩れる前も後も、あんな複雑な形にはならないから。だから壊れてる最中が、一番面白い」
好代はボールプールの端に座った。星が手のひらの近くで光っている。
「……今日の私の話も、そういうことですか」
「そうそう!すきよちゃん、今ちょうど「崩れてる最中」なんだよ。今まで全部うまくいってた知識が、多すぎてぶつかり合い始めた。それって、次に進む前に一回崩れなきゃいけないってことじゃん。崩れないと、次の形になれないから」
「崩れないと次の形になれない」
「すきよちゃん、今まで「棚が増えた」って言ってたじゃん。棚が四十二個になった。でも棚が多いと、引き出すのが大変になる。これは棚の構造自体を作り直す必要がある段階だと思う。私はそれを、「壊してみる」って呼んでる」
「……棚の構造を、壊す」
「そう!棚が多すぎたら、全部の棚を一回バラバラにして、別の構造に組み直す。棚じゃなくて、もっと別の何かに。それをやったことがないから、どうしたらいいかわからなかったんじゃないかな」
好代はそれを聞いて、少し黙った。
棚を壊す。今まで積み上げてきた整理方法を、一度崩す。
それが怖いとか怖くないとかより、そういう発想が今日まで出てこなかった。
「……渾沌さんはそれを、どうやってやるんですか」
「私はー……考えないようにしてる!」
「え」
「考えすぎると、棚を守ろうとするじゃん。整理した通りに使おうとする。だから一回、全部わざと混ぜて、何が出てくるか見てみる。混ぜたら変なことになる場合もあるけど、そこから新しい形が出てくることがある」
「……それは訓練でやっていいことですか」
「摩天ちゃんに聞いてみればいいじゃん!でもまあ、一回やってみなよ。壊れた方が面白くなることって、意外とあるよ」
好代は少し考えた。
渾沌ちゃんの言っていることが、完全にはわからない。でも何かが、引っかかった。
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◇クルー視点モノローグ——渾沌
失敗したすきよちゃんの顔を見て、私は少しほっとした。
ずっとうまくいってたら、それはそれで心配だったから。
私は始まりも終わりも全部見てきた。その中で一番好きなのは、「壊れている途中」だ。崩れながら、次の形を探している瞬間。あれが一番面白い。
すきよちゃんは今、そこにいる。
ごちゃ混ぜになった知識が全部、同時に存在しようとして、ぶつかり合っている。棚の構造が許容量を超えた。
人間はそれを「失敗」と呼ぶけど、私は「脱皮の前」と呼ぶ。
この子が次にどんな形になるか、楽しみで仕方ない。
……そういえば、私がこの子を最初にスカウトしたのも、そういう直感があったからかな。
壊れても平気な子、だと思った。
壊れてもちゃんと帰ってくる子。
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第三章「棚を全部、開けてみる」
◆午後の訓練室
翌日、好代は摩天ちゃんに昨日の話をした。渾沌ちゃんが言った「棚を壊す」という発想のことを。
摩天ちゃんがしばらく無言で聞いた。
「……渾沌が言ったことは、理論的には正しい」と摩天ちゃんが言った。「でも危険もある」
「どういう危険ですか」
「全部を同時に開けると、互いが干渉して制御不能になる可能性がある。特に戦闘系と感覚系が同時に暴走すると——自分の感覚が信用できなくなる」
「どのくらいのリスクですか」
「……わからない。あなたの場合、前例がない」
好代は少し考えた。
「やってみたいです」
「……理由は?」
「今のままだと、複数の知識が干渉する問題が解決しない。渾沌さんの言い方が正確かどうかはわかりませんが、今の構造のまま数を増やしても、同じ場所でまた止まると思います」
摩天ちゃんが少し間を置いた。
「……やってみよう。私がいる」
好代はうなずいた。
訓練室の真ん中に立った。摩天ちゃんが壁際に立った。いつもの「観察と止める準備」の体制だ。
「……始めます」
好代は目を閉じた。
頭の中の棚を、意識した。
並んでいる棚のそれぞれに、それぞれの世界線の知識が入っている。今まで、一個ずつ丁寧に引き出して使ってきた。
今日は——全部、少し開ける。
好代は、棚に手をかけた。全部同時に、少しだけ引いた。
情報が来た。
全部が同時に、少しずつ。
音の知識。においの知識。触覚の知識。視覚拡張の知識。時間知覚の知識。物質感知。戦闘の知識。記憶の知識。継続の意志の知識。においを操作する知識。帰れない場所の知識——全部が同時に、薄く開いた。
最初は混雑した。棚が全部少し開いた状態。昨日と同じだ。どれを引き出せばいいかわからない状態になった。
でも今日は——止まらなかった。
好代はそのまま、混雑した状態に居続けた。
棚が全部開いている。全部の知識がざわざわしている。音が来る、においが来る、触覚が来る、全部が同時に来ている。
うるさかった。
頭の中がとてもうるさかった。
でも好代は目を開けた。
うるさいまま、部屋を見た。
音で、摩天ちゃんの立ち位置がわかる。においで、部屋の気流がわかる。触覚で、床の振動がわかる。視覚で、光の反射がわかる。全部が同時に来ていて、全部がバラバラに意味を持っている。
バラバラだ。でも——全部、本当のことを言っている。
どれかを選ぶんじゃなくて、全部を同時に信じればいい。
好代はゆっくり、右足を出した。
音でわかった通り、摩天ちゃんは右にいる。においでわかった通り、気流は右に向かっている。触覚でわかった通り、床は均一だ。全部が「右に進んでいい」と言っていた。
そのまま歩いた。
三歩。五歩。止まった。
頭の中のうるさいのは、消えていない。でも——うるさくても動ける。
「……歩けました」と好代は言った。
摩天ちゃんが少し前に出た。
「……どんな感じでしたか」
「棚が全部開いた状態でうるさかったですが、全部がそれぞれ本当のことを言っていたので、全部を同時に信じて動きました」
「全部を同時に信じる」
「一個を選ぶんじゃなくて、全部がバラバラなまま、全部が正しい、と思って動く」
摩天ちゃんがしばらく何かを考えた。
「……それは」と摩天ちゃんが言った。「棚を壊したんじゃなくて、棚を無視した」
「無視」
「整理するのをやめた。整理しなくても動けるなら、棚の構造は関係ない。全部がバラバラに正しいまま、それを全部受け取って動く」
好代は少し黙った。
確かにそうかもしれない。整理するのをやめた、とは思っていなかったが、結果としてそうなっていた。
「……渾沌さんが「考えないようにしてる」と言っていたのは、そういうことだったのかもしれません」
「……渾沌らしい言い方だ」と摩天ちゃんが言った。何かを少し思い出したような、かすかな表情で。
◆夕方の再挑戦
昨日止まった課題——「音とにおいを同時に使いながら戦闘知識で動く」——を、もう一度やった。
今度は整理しようとしなかった。棚を選ばなかった。全部開けたまま、全部受け取って、動いた。
止まらなかった。
音が言う「右」とにおいが言う「やや右」が同時に来た。どちらが正しいか選ぶんじゃなくて、「音の右」と「においのやや右」が両方本当で、その間を歩けばいい、と思って動いた。
戦闘知識が言う最適ルートが、二つの情報を全部使って計算した結果として出てきた。
三種類が一個に統合されたんじゃなくて、三種類がバラバラのまま全部動いた。
「……昨日とは違う動き方でした」と好代は訓練の後で言った。
「どんな違い?」と摩天ちゃんが聞いた。
「昨日は情報を整理してから動こうとしていました。今日は整理する前に動きました。整理しながら動く、ではなくて、整理しないまま全部受け取って動く」
摩天ちゃんが短く考えた。
「……それが「棚の次の段階」かもしれない。記録する」
好代はうなずいた。
訓練室を出た。廊下に出ると、渾沌ちゃんが廊下の角でソフトクリームを食べていた。なぜ廊下でソフトクリームを食べているのかは不明だ。
「どうだった!?」と渾沌ちゃんが聞いた。
「うまくいきました」
「やっぱり!すきよちゃん、壊れた後の方が面白い形してる!」
好代はそれを聞いて、少し笑った。
初めて「失敗した後に笑う」という経験をした。
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◇クルー視点モノローグ——摩天
「整理しないまま全部受け取って動く」。
それは、私が今まで訓練で教えてきたどの方法とも違う。
私は「棚を整理する」訓練を続けてきた。デッドライン系で棚を効率化する方法も見つけた。でも棚を「使わない」という発想は、なかった。
四十二種類の知識が全部バラバラに開いた状態で、どれも選ばずに全部受け取って動く。それは——うるさい環境の中でも機能できる、ということだ。
戦場では情報が整理されている暇はない。全部が同時に来る。その状態で動けるなら、それはかなり実戦的だ。
……渾沌が「壊れた方が面白くなる」と言っていた。私はそれを信じていなかった。
少し、信じてもいいかもしれない。
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第四章「渾沌ちゃんの「こわれてる」話」
夜、好代は「黄昏」でお茶を飲みながら、渾沌ちゃんに今日の話をした。郷愁ちゃんもカウンターにいて、三人でいた。
渾沌ちゃんが嬉しそうに聞いて、「だからさー!」と何度も言った。
「渾沌さん、一個聞いていいですか」と好代は言った。
「なになに!」
「「壊れてみたことある?」と最初に言いましたよね。あれは渾沌さん自身が壊れたことがある、ということですか」
渾沌ちゃんがソファの上に膝を抱えた。少し間があった。
「……ある。でも私の場合、壊れるのはたいていちっちゃいことで。あ、「ちっちゃい」は比喩で、宇宙から見ると割とでっかいんだけど。でも私的にはちっちゃい」
「壊れるとどうなりますか」
「バラバラになって、しばらく散らかった状態になって、そのうちまとまる。必ずまとまるってわかってるから、怖くない」
「必ずまとまるって、どうしてわかるんですか」
渾沌ちゃんが少し考えた。
「……うーん。たくさん見てきたから?壊れたものが全部消えるわけじゃないって、知ってるから。形は変わるけど、何かは残る。残ったものがまた集まって、別の形になる」
好代はそれを聞いた。
郷愁ちゃんが静かにお茶を飲んでいた。何も言わなかったが、うなずくように少しだけ動いた気がした。
「……「黄昏の20世紀バーガー」のことも、少し思い出しました」と好代は言った。渾沌ちゃんに向かって。「あれは「失われたものが残っている」バーガーですよね。郷愁さんの担当の」
「そうそう!すきよちゃん、郷愁ちゃんのバーガーも食べたんだって!?びっくりした、私」
「勝手に食べました」
「で、どうだった?」
「帰れない場所が見えました。でも帰れました」
渾沌ちゃんがしばらく好代を見た。
「……それ、すごいことだよ」と渾沌ちゃんが静かに言った。今日一番静かな声で。「帰れた、っていうのが」
「そうですか」
「うん。みんな帰れるわけじゃないから、あのバーガーでは」
郷愁ちゃんがカウンターの奥でお茶を注ぎ直した。向こうを向いているが、聞いていることはわかった。
好代はお茶を飲んだ。温かかった。
失敗した日に、こういうことを話している。これが「ぱんでむで働く」ということかもしれない、と思った。
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◇クルー視点モノローグ——渾沌──夜の記録
すきよちゃんが「帰れない場所に行って帰ってきた」と言った時、私はちょっとだけ泣きそうになった。
渋谷のマクドナルドの前で、あの子を見つけた日のことを思い出した。
十七年間、においだけ嗅いで立ち止まっていた子。「届かない」から好きでいることをやめなかった子。
私はたくさんのものが始まるのも終わるのも見てきた。その中で、「どこへ行っても帰ってくる」ものを見たことがある。それは大体、何かをすごく好きな人だ。
好きだから、どこへ行ってもそこが基準になる。帰れない場所に行っても、「好きなものがある場所」が別にあるから戻れる。
すきよちゃんにとっての「好きなもの」は、バーガーのにおいだ。
それがある限り、この子はどこへ行っても帰ってくると思う。
……それで、私はこの子をスカウトした。それだけじゃないけど。でも一番最初は、それだった。
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エピローグ「十日目の朝に向かって」
好代は夜、ぱんでむを出る前に一人で訓練室に戻った。
誰もいない。明かりをつけて、真ん中に立った。
目を閉じた。
棚を全部、少しずつ開けた。
うるさくなった。四十二種類の知識が全部、同時に薄く来る。音、におい、触覚、視覚、時間、物質、戦闘、記憶、継続の意志——全部。
うるさいまま、目を開けた。
部屋が見えた。空の訓練室。砂袋が揺れている。床の金属板が光を反射している。音が壁に反響している。においは今日の訓練の汗と、ぱんでむ全体のにおいが混ざっている。
全部が同時に来ている。全部がバラバラに本当のことを言っている。
好代はゆっくり歩いた。十歩、止まった。振り返った。また歩いた。
うるさいままで、動けた。
好代は訓練室を出て、ぱんでむを後にした。
渋谷の夜に出た。
深呼吸した。夜の渋谷のにおい。排気ガスと人と飲食店のにおい。
マクドナルドの前を通った。においがした。
好代は止まらなかった。でも、においを全部吸い込んだ。
頭の中の棚が、少し開いた。においの知識が来た。懐かしいにおい、帰り道のにおい。でも全部がバラバラに来た。どれかを選ばなかった。全部を受け取った。
そのまま歩き続けた。
うるさくても、好代は進んだ。
十日目が来る。




