第2話「摩天ちゃんと、力のバーガー」
ぱんでむに来て三日目の朝、好代はロッカールームで制服に着替えながら、自分の状況を整理した。
事実一:自分はハンバーガーアレルギーである。
事実二:ぱんでむのバーガーは食べても死なない。
事実三:バーガーを食べると、その世界線のスキルが一時的に使える。
事実四:自分以外のクルーは、専門のバーガー能力しか使えない。
事実五:ぱんでむは全体的に変だが、においが最高においしい。
三日間で食べたバーガーはすでに七種類だ。
植物対話。風の知覚。金属の硬度を皮膚に付与するもの。二十メートル先の文字を読める視力強化。水の流れを自在に曲げる。感情を色として見る共感覚付与。光を屈折させて一時的に姿を消す透過。
どれも面白かった。
でも今日、秩序ちゃんから言われたことがある。
「今日から少し、実地研修を始めます。バーガー能力を実際の業務で使う練習です。担当は……摩天ちゃんになります」
それを聞いた渾沌ちゃんが、一瞬だけ「あ」という顔をした。
「問題ありますか」と好代は聞いた。
「……ないよ!全然ない!摩天ちゃんは良い子だから!」
「姉さん、フォローが下手です」と秩序ちゃんが言った。
好代は着替えながら少し考えた。どんな子なんだろう。
第一章「摩天ちゃん、登場」
◆朝のバックヤード
朝のバックヤードは静かだ。
共有スペース——クルーたちが「リビング・オブ・カオス」と呼んでいる場所——は、大きなソファとローテーブルがあって、壁には大きなモニターがいくつもついている。好代が来た時間はまだほとんどのクルーが部屋から出てきておらず、ソファに郷愁ちゃんが一人でお茶を飲んでいるだけだった。
好代がおはようございますと言うと、郷愁ちゃんがふわっと笑ってうなずいた。言葉が少ない人らしい。でも笑顔が温かくて、ここにいると落ち着く。
お茶をもらって座っていると、廊下から足音がした。
重い。
普通の足音より、少し重い。
現れたのは、小柄な女の子だった。
制服を着ている。他のクルーと同じぱんでむのフリルエプロンだが、なんとなく雰囲気が違った。フリルエプロンの下に、動きやすそうな短パンを合わせている。靴はヒールではなく厚底のスニーカー。髪は短く、後ろで小さくまとめてある。目が細くて、切れ長で、鋭い。
女の子は好代を見た。
無表情だった。
ただじっと、五秒くらい見た。
「……新人」
「はい。販歯厚餓安好代です」
「摩天」
それだけ言って、摩天ちゃんと名乗ったその子は冷蔵庫を開けた。肉を取り出して、まな板に置いて、無言で切り始めた。
好代は郷愁ちゃんを見た。郷愁ちゃんがひっそりと「戦闘の人だから」というような顔をした。言葉ではないが、なんとなくわかった。
しばらくして、摩天ちゃんが振り返らずに言った。
「実地研修って聞いた。私が担当になった」
「はい、よろしくお願いします」
「私の担当バーガーの能力は、肉体強化系だ。私が食べると戦闘力が上がる。あなたが食べると——」と摩天ちゃんが少し間を置いた。「どうなるか、まだわからない。これから試す」
「今日ですか」
「今日。」
淡々としている。感情の起伏が読みにくい。でも嫌いじゃないな、と好代は思った。
◆摩天ちゃんの話
摩天ちゃんは肉を切り終えて、コーヒーを淹れてテーブルに座った。好代の向かいだ。
しばらく沈黙が続いた。郷愁ちゃんはいつの間にかいなくなっていた。
好代が「あの」と言うと、摩天ちゃんが顔を上げた。
「摩天さんの担当バーガーのスキルって、具体的にどんな感じなんですか」
「……力が上がる。速さが上がる。硬さが上がる」
「どのくらい上がるんですか」
「……隕石が素手で割れる」
「すごいですね」
「でも痛くはない。感覚は変わらない。ただ、力がある」
好代は少し考えた。
「担当外のバーガーを食べると大変なことになる、と聞きました。摩天さんが別のバーガーを食べると、どうなるんですか」
摩天ちゃんが少し静かになった。
「……大浴場で回復しないといけなくなる。体が合わないから」
「長期休養みたいなものですか」
「もっと大変」と摩天ちゃんが端的に言った。「でもあなたは大丈夫らしい」
「秩序さんから聞きましたか」
「聞いた。面白いと言っていた。秩序が「面白い」と言うのは珍しい」
それを聞いて、好代は少し嬉しくなった。
「……あの、一つ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「摩天さんが一番強いバーガー能力の使い手だと聞いたんですが、それは——普通のバーガーだけじゃなくて、ぱんでむのバーガー全体の中でも強い方、ということですか?」
摩天ちゃんがコーヒーをひとくち飲んだ。
「……純粋な戦闘力なら、たぶん私が一番高い」
「その摩天さんが、私の担当になった」
「……秩序の指示なので」と摩天ちゃんが言った。「あなたがどんな能力を出すか、一番対応できるのが私だと判断したんだと思う」
「対応、というのは」
「制御できなかった場合、止める、ということ」
好代は少し考えた。
「……私が暴走した時のために、ということですか」
「可能性として」
「なるほど」
そういうことか、と好代は思った。最強の戦闘クルーが研修担当になった理由は、お世話係ではなく安全装置だ。合理的だと思った。
「……嫌じゃないですか、そういう役割」
「嫌ではない」と摩天ちゃんがすぐ言った。「必要なことをする」
それだけ言って、また沈黙になった。でもなんか、最初より居心地がよかった。
第二章「力のバーガー、一口目」
◆訓練エリア
摩天ちゃんが案内したのは、ぱんでむの少し奥まった場所にある広いフロアだった。
「訓練場」と呼んでいるらしい。普通のフロアと違って、床が金属板で覆われていて、壁が分厚い。天井が高い。隅に砂袋が吊るされていて、鉄の柱が何本か立っている。あと、大きな岩が三つほど置いてある。
岩の一つに、うっすらと拳のくぼみがある。
「摩天さんが割ったんですか」と好代は聞いた。
「そこはまだ割ってない。割れた跡は向こうにある」
向こうを見ると、確かに半分に割れた岩が端に積んであった。
好代は岩のくぼみをしばらく見つめた。
「では始める」と摩天ちゃんが言って、バーガーを持ってきた。
今日のバーガーは、これまでのものより遥かに大きかった。
バンズが深い焦げ茶色で、焼き目がしっかりついている。パティが厚い。ソースは赤みがかっていて、スパイシーなにおいがする。全体から「重さ」みたいなものが漂っている気がした。
「摩天さんの担当バーガーですか」
「そう。それを今日あなたに食べてもらう。ただし——」と摩天ちゃんが言った。「可能性が二つある。一つは、肉体強化スキルが発現してうまく使える。もう一つは——」
「もう一つは?」
「強化が暴走する。体が制御できる範囲を超えると、自分を壊す方向に力が向かうことがある。もっとも、私以外のクルーの場合の話。人間が食べたら死ぬ」
好代はバーガーを見た。
「私は大丈夫なんですか」
「……理論上は。吸収しないから、暴走の仕方が違う」
「理論上」
「試したことがないので、確かなことは言えない」
正直に言ってくれる人だ、と好代は思った。
においを嗅いだ。スパイシーで、こってりした、力強いにおい。どこかの世界の戦場みたいな、熱い感触が混じっている。
「……いただきます」
一口かじった。
◆スキル発現
最初は、いつもと同じだった。
情報が流れ込んでくる。今度は映像に近い。どこかの荒野。砂漠みたいな場所で、誰かが走っている。その人間の筋肉の動き、骨格の使い方、力の流れ方——そういったものが、圧縮されたデータみたいに全部一気に頭に入ってくる。
そして体は——
吸収しない。
いつも通りだ。
情報を受け取ったが、体は変わらない。
ただ——何かが「使える」感じがする。
好代は立ち上がった。
右手を軽く握った。
何も変わったように見えない。スペックが上がっている感触もない。
でも——
「手を出して」と摩天ちゃんが言った。
好代が右手を前に出すと、摩天ちゃんが自分の手のひらをぱんと当てた。力試しみたいに。
摩天ちゃんが少し目を細めた。
「……抵抗値が上がっている。でも、体が変わっているわけじゃない」
「どういうことですか」
「体は強化されていない。でも、何かが——使い方を、知っている」
使い方を、知っている。
好代はその言葉を反芻した。
そうかもしれない。スキルとして「強くなる」わけじゃない。でも、さっき頭に流れ込んできた「誰かの動き方」が、頭に全部ある。どこに力を入れれば効率がいいか。どう体重をかければ重心がブレないか。どう動けばスキが出にくいか。全部、「知っている」。
「……体は変わってないけど、知識として入ってきてる感じです。バーガーの力の「使い方」が」
摩天ちゃんがしばらく好代を見た。
「……面白い」
それが褒め言葉だと、好代には伝わった。
◆訓練
「動いてみてください」と摩天ちゃんが言った。
好代は走ってみた。
体が重い。十七年間、運動とは無縁の生活をしてきた体だ。足が遅くて、バランスが悪い。なのに——頭の中の「知識」は、もっとうまく動けると言っている。こっちに重心を、腕の振りはこう、着地はこっちの部位で——
ちぐはぐだ。
「体が追いついていない」と摩天ちゃんが観察するように言った。「知識はある。でも体がない」
「そうです。わかってるけど、できない」
「……面白い」
また「面白い」が出た。どうやら摩天ちゃんの「面白い」は、感情表現の代わりに機能しているらしい。
摩天ちゃんが好代の前に立った。
「腕を出してください。軽く押します。押し返してみてください」
押した。摩天ちゃんが押した。好代が押し返した。
摩天ちゃんの力は——普通じゃなかった。腕を一本指で押されただけで、ぐっと体が傾いた。当たり前だ。バーガースキルで全能力が底上げされているクルー筆頭と、ただの高校生女子だ。
でも好代は、知識を使って体重をかけた。重心をずらして、押し返す方向を変えた。
「おっ」と好代は思った。
少しだけ、摩天ちゃんの手がブレた。
「……今のは、よくできた」と摩天ちゃんが言った。
「できたっていうか、ちょっとバランスが取れた感じで」
「それで十分。初日にそれができるのは——」
摩天ちゃんがまた少し間を置いた。
「……ありえない。普通は」
好代は少し考えた。自分は体が弱い。運動神経もない。でも頭に「知識」がある。その知識を使えば、体の弱さをある程度カバーできる。
つまり——知識として得た戦闘の「最適解」を、現実の動きに翻訳する力がある人間なら、体のスペックが低くても相当なことができる、ということか。
好代はバーガーの残りを食べた。
情報がまた流れ込んだ。続きの部分だ。
訓練は三時間続いた。
◆訓練終了後
疲れた。
これほどのことは人生で初めてだ、というくらい疲れた。体を動かすのに慣れていないせいで、知識通りに動こうとするたびに別の部分がつった。足が三回つった。腕も二回つった。
壁にもたれて座っていると、摩天ちゃんがそばに立った。
「水だ」
ボトルを渡してくれた。
「……ありがとうございます」
しばらく無言で水を飲んだ。摩天ちゃんは立ったまま、腕を組んで、何かを考えるような顔をしていた。
「……あなたの能力の仕組みがだいたいわかった」と摩天ちゃんが言った。
「どんな仕組みですか」
「バーガーのスキルを、体ではなく頭に変換する。だから体は変わらない。でも、使い方を全部知っている。体が追いつけば、かなりのことができる」
「追いつくのに時間かかりそうですが」
「そう。だから——」と摩天ちゃんが少し考えた。「今日で一番使えると思ったのは、複数のバーガー知識を組み合わせること」
「組み合わせ、ですか」
「植物対話の知識と、戦闘の知識を同時に持っていたら、植物に戦闘を補佐させることができる。透過のスキルと戦闘のスキルを同時に持っていたら、姿を消しながら攻撃できる」
好代はその言葉を聞いてしばらく止まった。
そういう発想は、なかった。
クルーはそれぞれ一種類しか使えない。好代は全種類が使える代わりに、体への反映はない。でも——頭の中に複数の知識を同時に持つことはできる。
それは、全種類を組み合わせた戦術を立てられる、ということだ。
「……すごい指摘です」
「バーガーを複数食べれば、複数の知識が同時にある状態になるか?」
「試したことないですが……なりそうな気がします」
「今日の訓練で確認したいことは以上」と摩天ちゃんが言った。「明日以降も続ける」
「はい。よろしくお願いします」
摩天ちゃんがうなずいた。そして部屋を出ようとして、扉の前で少し止まった。
「……一つ、聞いていいか」
「どうぞ」
「バーガー、おいしかったか?」
好代は少し驚いた。摩天ちゃんがそういうことを聞くと思っていなかった。
「……おいしかったです。スパイシーで、食べ応えがあって、なんか熱い戦場を通り抜けたみたいな感じがしました」
摩天ちゃんがうなずいた。
「そうか」
それだけ言って出ていった。
なんでそれを聞いたのか、好代にはわからなかった。でも、嫌いじゃない聞き方だった。
◇クルー視点モノローグ——摩天
あの子の能力は、私の専門分野から見ると、とんでもないことだと思う。
バーガーのスキルを体に吸収しない。だから強化されない。でも——使い方を知っている。
私は強い。それは認める。クォーターパウンダーの能力が私の体をオーバースペックにしているから、万物を割れるし速く走れる。でも、そのスペックがあっても「どう使うか」を学ぶのに時間がかかった。
あの子は逆だ。
使い方を全部知っている。体がそれに追いついていない。でも、使い方を「知っている」ということは——経験を積めばいつか、知識と体がつながる。
そのとき、あの子は——全種類の戦術を同時に使える、というとんでもない状態になる。
秩序が「面白い」と言った理由が、わかった気がする。
……おいしかったかどうか、聞いたのは、何となくだ。
私のバーガーは、胃にもたれる。食べると大抵クルーは顔をしかめる。
あの子は「熱い戦場を通り抜けた感じ」と言った。
それが——なぜか、良かった。
────────────────────────────────────────
第三章「バーガーを二個食べたら、どうなるか」
◆三日目昼、実験開始
訓練の後、昼食の時間になった。
ぱんでむのクルーたちは昼も夜もバーガーを食べる——という話だったが、まかないとして出るバーガーが毎日違う。今日は何かな、と好代が食堂(というかバックヤードの一角)に行くと、秩序ちゃんが待っていた。
「実験してみませんか」と秩序ちゃんが言った。
「さっきの訓練後に?」
「あなたと摩天からの報告を聞きました。摩天が言っていた「複数バーガーの同時保持」の確認です」
摩天ちゃんがもう報告していたことに、好代は少し驚いた。足が速いのか、バーガー能力で通信でもしているのか。
「……具体的には、どんな実験ですか」
「植物対話バーガーと、摩天バーガーを、連続して食べてもらいます。情報が混在するかどうかの確認です」
「混在したら、何が起きますか」
「わかりません。試したことがないので」
また「わかりません」だ。でも秩序ちゃんの「わかりません」は「だから試す」につながっている。怖がっている感じがない。
「……やります」
「ありがとうございます。摩天は一応そばにいます」
隅を見ると、摩天ちゃんが腕を組んで立っていた。「一応」そばにいる、というか完全に待機している。
◆二個目
植物対話バーガーから食べた。
情報が流れてくる。緑の、涼しい、光の感触。
次に摩天バーガーを食べた。
情報が流れてくる。熱い、砂の、力の感触。
頭の中で——混ざった。
ぐわっと、二つの感触が同時に存在した。
しばらく好代はただ目を閉じていた。
整理した。
植物対話の「知識」がある。戦闘の「知識」がある。両方、ちゃんとある。混ざって消えたわけじゃない。本棚の別の段に並んでいる感じだ。
好代はゆっくり立ち上がって、食堂の隅にある観葉植物のそばに歩いた。
「……ねえ」と話しかけた。
植物から返ってくる。「水は昨日もらった。今日は大丈夫」という感触。それと——「あなたから変なにおいがする。熱いにおい」という感触。
「……私が戦闘知識を持ってるせいで、変なにおいがするって言われた」と好代は言った。
「植物に?」と秩序ちゃんが少し眉を上げた。
「はい。両方の知識があると、植物にも戦闘の気配が伝わるみたいで」
秩序ちゃんがメモをとった。
「次——少し動いてみてください。さっきの訓練と同じように」
好代は動いた。
今度は違った。
植物対話の「感覚」と戦闘の「知識」が同時にある。走りながら、周囲の空気の流れがわかる——植物対話スキルの応用かもしれない。どこに重心があればいいかわかる——戦闘知識だ。その二つが組み合わさって、動くのがさっきより少し楽になった気がした。
体はまだ弱い。でも、感覚と知識が合わさると、不思議なほど動きやすい。
「……報告します」と好代は立ち止まって言った。「二つの知識が同時にある状態で、お互いを補強し合ってます。植物対話の感覚が、戦闘知識の「環境把握」を補助してる感じで、より精度が上がる気がします」
秩序ちゃんがメモを続けた。摩天ちゃんが「ふむ」と言った。
「……三種類、四種類と増やしたら」と摩天ちゃんが言った。
「お腹がいっぱいになる前なら試せます」
「何個くらい食べられますか」
「バーガー、好きなので……六個は普通に食べます」
摩天ちゃんがまた「面白い」と言った。
◇クルー視点モノローグ——秩序
記録をつけながら、私は少し興奮していた。
彼女の能力の全容が、少しずつ見えてきた。
バーガーを食べると、スキルが「知識」として入る。体には吸収されない。だから変容しない。だから何個でも食べられる。そして、複数の知識を同時保持できる——それぞれが補強し合う形で。
我々クルーは担当バーガーのスキルを「体に刻まれた能力」として使う。いつでも使えるが、拡張できない。
彼女は毎回食べる必要がある。でも、食べれば何でも使える。そして組み合わせられる。
……この能力の天井が、まだ見えない。
バーガーの種類が増えるほど、知識が増える。知識が増えるほど、組み合わせの数が爆発的に増える。
姉さんが「面白い子を連れてきた」と言っていた理由が、少しだけわかった気がする。
……少しだけ、だ。
本当の意味では、まだわからない。
────────────────────────────────────────
第四章「ぱんでむの一日と、他のクルーたち」
◆夕方のバックヤード
訓練と実験が終わった夕方、好代はバックヤードに戻った。
リビング・オブ・カオスに、何人かクルーがいた。
ソファで渾沌ちゃんが寝そべっている。壁のモニターに何かが映っていて、渾沌ちゃんが興味なさそうに見ている。よく見ると、映っているのは遠くの何か——星みたいなものが動いている映像だ。でも好代には何を見ているのかわからない。
テーブルに、見知らぬクルーが二人いた。
一人は、疲れた顔をした子だ。高校生くらいの見た目だが、なぜか目の下にクマがあって、テーブルに積み上げた紙の束に何かを書いている。「始末書」とラベルが貼ってある。
もう一人は、猫耳の生えた薄紫色の髪の子で、大きいふわふわのクッションを抱えてうとうとしていた。
渾沌ちゃんが気づいて「すきよちゃーん!」と言った。
「今日の訓練どうだった?」
「疲れました。足が三回つりました」
「摩天ちゃん、厳しかった?」
「いえ、本人はわりと普通でした。ただついていくのが大変で」
始末書を書いていた子が顔を上げた。
「……世達です」と疲れた声で言った。「よろしく。今、始末書三百枚目なので、あまり話せない」
「お疲れ様です。三百枚……何をしたんですか」
「色々あって……ちょっと世界線を一個変な方向に処理しちゃって……」とため息をついた。「秩序ちゃんに三千枚課されたんだよね。もう終わりが見えない」
三千枚。好代には計算できない量だった。
うとうとしていた薄紫色の子がうっすら目を開けた。
「……安寧です。眠いです。新人だよね。おはよ……おやすみ……むにゃむにゃ…」
そのまままた閉じた。
「安寧ちゃんはだいたいああいう感じ」と渾沌ちゃんが言った。「寝てることが多いんだけど、起きてる時もある。どっちも大体眠そう」
好代は二人に軽くあいさつしてソファに座った。渾沌ちゃんの隣だ。
モニターをぼんやり見た。
「これ、何を見てるんですか」
「んー、色んな世界線のようすー。面白いのがあったら見てる」
「今のは?」
「……ちょっと遠くの、星がゆっくり消えてくとこ」
好代はモニターを見た。確かに、遠くの何かが少しずつ暗くなっている。
「……消えたら、どうなるんですか」
「消えます。おわり!」と渾沌ちゃんが軽く言った。
軽いな、と好代は思った。でも渾沌ちゃんが怖い人だとは思っていないから、これがこの人の「標準」なんだろうな、とも思った。
世達ちゃんが始末書を書きながら「渾沌ちゃんはああいう人だから慣れてね」と言った。
好代はうなずいた。
◆夜、摩天ちゃんとの会話
夜、好代が帰る前に、廊下で摩天ちゃんに会った。
摩天ちゃんは自分の部屋——「ギルド支部」と呼ばれているらしい——から出てきたところで、手に小さな包みを持っていた。
「……これ」と摩天ちゃんが差し出した。
受け取ると、中にバーガーが入っていた。包み紙が渋めの茶色で、シンプルな感じ。
「何ですか、これ」
「筋肉痛用。足がつる人に効くバーガーの能力がある。回復系。私の担当じゃないので食べると私は大変なことになるが、あなたなら大丈夫なはず」
好代はしばらく包みを見た。
「……ありがとうございます」
「明日の訓練に来られないと困るから」と摩天ちゃんが言った。「実用的な理由」
実用的な理由、と言いながら渡してくれたことは、好代には見えていた。
「でも、これを私に渡す前に確認したんですよね。これが回復系だって、秩序さんに」
「……確認はした」
「それって、「困るから」だけじゃないですよね」
摩天ちゃんが少し目を細めた。
「……余計なことだ。忘れて」
「忘れません」
摩天ちゃんが無言で部屋に戻っていった。
好代はバーガーを持って帰り道を歩きながら、食べた。
回復系のバーガーは、あたたかい感じのにおいがした。筋肉がほぐれていくような、心地よい情報が入ってきた。
おいしかった。
──────────────────
◇クルー視点モノローグ——摩天—補足
バーガーを渡したのは、実用的な理由だ。
それだけだ。
……ただ、今日一日見ていて思ったことがある。
あの子は、バーガーをおいしそうに食べる。
私のバーガーも。回復系のバーガーも。全部、おいしそうに。
食べることに、迷いがない。
十七年間、においだけ嗅いでいた人間が、今は躊躇なく口を開けてバーガーを食べる。
その顔が、何か——私には持っていないものを持っていて、目を離しにくい。
……実用的な理由だ。
強い部下は良い部下だ。良い部下は育てる。
それ以上ではない。
──────────────────
第2話エピローグ「また明日、のために」
渋谷の路地で、好代はしばらく立っていた。
摩天ちゃんにもらったバーガーで体が楽になっていた。足のつりも、腕の疲れも、さっきよりずっとましだ。
空を見上げた。夜空に星が見える。今日は渋谷の普通の夜空だ。ぱんでむの変な星座じゃない。
今日一日のことを整理した。
摩天ちゃんは、無口だった。でも嫌な人ではなかった。ちゃんと考えて、ちゃんと見てくれた。「面白い」という言葉が褒め言葉だとわかった。回復系のバーガーを渡してくれた時の「余計なことだ」が少し好きだった。
バーガーが二個同時に頭にあると、お互いを補強し合うことがわかった。六個食べたらどうなるか。十個食べたらどうなるか。全種類食べたらどうなるか。
考えるとわくわくする。
好代はポケットに手を入れて歩き出した。
マクドナルドの前を通った。今日もにおいがする。
でも今日は、止まらなかった。
においを嗅ぎながら、通り過ぎた。
今日はもうたくさん食べた。
明日は摩天ちゃんとの二日目の訓練がある。
それと、秩序ちゃんが「次の段階を試したい」と言っていた。
止まっている暇がない。
十七年間、においだけ嗅いでいた。
でも今は、食べられる。食べながら進める。
それだけで——もう、十分すぎるくらい、前に進む理由がある。




