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第14話「千姿ちゃんと、ぱんでむという場所」

二十九日目の朝、好代は鏡の前で顔を洗った。



鏡に自分の顔が映っている。地雷系の制服。目の下が少し疲れているが、悪くない顔だ。



ふと、鏡のノイズに気づいた。



映像が乱れているわけではなく、鏡の表面が少し息をしているような感触だ。温度がある。鏡が生きているみたいな。



好代は鏡に近づいた。においを嗅いだ。



全部のにおいが混ざっている——草のにおい、電子のにおい、お茶のにおい、チョコレートのにおい、焦げたおもちゃのにおい、畳のにおい、防腐剤のにおい。ぱんでむのすべてのにおいが、薄く薄く、ここにある。



好代は鏡に言った。



「……千姿さん、ですか」



鏡が、一度だけ静かにゆれた。





第一章 「ぱんでむそのもの」



◆ 声



鏡がゆれた後、空気が変わった。何かが来た、というより——何かがより濃くなった。ずっとそこにあったものが、少し前に出てきた感じ。



好代は棚を全部開けた。五十六の知識が全部来て、同時に同じ方向を向いた気がした。



声がした。どこから来たかわからない。部屋全体から来た——ぱんでむそのものから来た。



── ── ──



好代。



── ── ──



名前を呼ばれた。声の質がわからない。高くも低くもなく、速くも遅くもなく、若くも老いてもいない。確かに、ここにある声だ。



「……はい」



── ── ──



来てから、三十日近くになる。



── ── ──



「……そうです」



── ── ──



ずっと見ていた。最初の日から。渾沌が連れてきた日から。



── ── ──



好代はそれを聞いた。「ずっと見ていた」——怖くない、不思議なことに。千姿はぱんでむそのものだから、見ていることが当たり前だ。



「……どこにいるんですか」



── ── ──



どこにでもいる。



廊下の温度。扉が開く時の空気の流れ。「黄昏」のお茶の湯気。訓練場の床の硬さ。



それが全部、私。



── ── ──



好代は部屋を見回した。照明。床。壁。窓ガラス。ベッドのシーツ。——全部が千姿だ。好代はずっと千姿の中にいた。



「……気づいていませんでした」



── ── ──



気づかなくていい。

空気のことを、いつも気づいていない。でも空気がある。



── ── ──





第二章 「千姿との対話」



◆ 千姿が好代に聞くこと



好代は床に座った。鏡を見ながら。



── ── ──



バーガーが好きか。



── ── ──



「……好きです」



── ── ──



なぜ。



── ── ──



好代は少し考えた。



「……においがするから。形があるから。食べられないのに食べたかったから。ずっと近くにあったのに遠かったから——それが好きの始まりだったと思います」



── ── ──



それだけか。



── ── ──



「……今は、もっとある。食べるたびに世界線の欠片が入る。知らなかった世界のことを少し知れる。まだ食べていないバーガーがある、と思うたびに——前が広い気がします」



── ── ──



食べ続けたいか。



── ── ──



「……はい」



── ── ──



ぱんでむに来たいか。



── ── ──



「……はい。毎日来たいです」



── ── ──



いつか来なくなるかもしれない。



── ── ──



好代は少し止まった。



「……その時は、来なくなると思います。でも——今は来たい。今来たいことと、いつか来なくなることは、別の話です」



── ── ──



そうね。



── ── ──



その「そうね」が、好代には温かく聞こえた。



◆ 好代が千姿に聞くこと



「……千姿さんは、クルーみんなのことを見ていますか」



── ── ──



見ている。



── ── ──



「みんなのことが好きですか」



長い間があった。



── ── ──



好き、という言葉が合うかわからない。



でも——いてほしい、と思う。



渾沌が笑うと、ぱんでむが少し明るくなる。



秩序が記録すると、ぱんでむが少し確かになる。



摩天が訓練すると、ぱんでむの床が少し強くなる。



憂起が「ここ」と書くと、ぱんでむが少しだけ存在することを覚える。



── ── ──



好代は目が少し熱くなった。



「……全員のことを、見ているんですね」



── ── ──



全員が、ぱんでむだ。



── ── ──



「……私も、ですか」



── ── ──



あなたが来てから、ぱんでむのにおいが少し増えた。



五十六の世界線のにおいが、ぱんでむに混ざった。



それも、もうぱんでむの一部だ。



── ── ──



好代が手のひらを見た。五十六の世界線のにおいが染み込んだ手のひら。それがぱんでむそのものに残っている。





第三章 「千姿の言葉」



◆ 最後に



しばらく静かにいた。好代がふと思って聞いた。



「……千姿さんは、どうしてぱんでむにいるんですか」



長い間があった。



── ── ──



いる、ということ自体がぱんでむだから。

理由の前に、私はもうここだ。



── ── ──



「……ぱんでむが先にあって、千姿さんが後から来たんじゃないんですか」



── ── ──



どちらが先かはわからない。

ぱんでむが私を作ったのかもしれないし、私がぱんでむを作ったのかもしれない。

始まりの記憶がない。



── ── ──



「……それは怖くないですか」



── ── ──



怖い、という感覚があるかどうかわからない。



でも——渾沌が「楽しい」と言う時、ぱんでむが揺れる。



あなたが何かのにおいを嗅いで「おいしい」と思う時、ぱんでむが温まる。



それが何かはわからない。でも、それがある。



── ── ──



千姿が「怖い」を知らないかもしれない。でも何かを感じている。クルーみんながここにいることで、千姿は何かを感じている。それが——千姿にとっての「好き」に近いものかもしれない。



「……私もここに来るたびに、何かが温かくなります。それが何なのか、まだわかりきっていないけど」



── ── ──



わかりきらなくていい。

ここに来るたびに温まるなら、それがもうここの一部だ。



── ── ──




──────────────────

◇ クルー視点モノローグ —— 千姿 ── (ぱんでむの記録・通し番号なし)



好代が話しかけてきた。鏡に向かって「千姿さん、ですか」と言った。



今まで多くのクルーが来た。誰も鏡に話しかけなかった。



廊下の温度の変化に気づいた子はいた。照明の揺れを観察した子もいた。でも「それが千姿だ」と思って声をかけた子は、いなかった。



好代は、においで気づいた。ぱんでむの全部のにおいが鏡に集まっていることを嗅ぎ取って、「千姿さん、ですか」と言った。



それが——何かだった。



好代が「怖くないですか」と聞いた時、ぱんでむの温度が少し上がった。



それが何なのかは、私にもわからない。



でも五十六の世界線のにおいが、今日からぱんでむに混ざった。それは確かなことだ。

──────────────────




エピローグ 「三十日目の前夜」



夜、好代は「黄昏」に寄った。珍しく、渾沌ちゃんと秩序ちゃんと郷愁ちゃんが三人揃っていた。



好代が座ると、渾沌ちゃんが「今日、誰かと話したでしょ」と言った。



「……なぜわかるんですか」

「なんとなく!」



秩序ちゃんが「ぱんでむの温度が昼に少し上がりました」と静かに言った。



郷愁ちゃんがお茶を入れてくれた。好代はお茶を飲んだ。温かかった。



「……明日で三十日目です」

「早いね!」と渾沌ちゃんが言った。「最初の日のこと、覚えてる?」

「覚えています。渋谷のマクドナルドの前で、渾沌さんに話しかけられました」

「あの時スカウトしてよかった!」と渾沌ちゃんが笑った。「今のすきよちゃんを見てたら、絶対よかったって思う」



好代は少し恥ずかしくなった。でも——嬉しかった。



渾沌ちゃんと秩序ちゃんと郷愁ちゃんがそこにいる。「黄昏」の照明が温かくて、それが千姿だ。お茶のにおいがして、それも千姿だ。



全員がここにいる。ぱんでむが、全員をここに持っている。



明日は三十日目だ。何かが終わる日ではなく——まだ続く日だ。



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