第1話 ぱんでむバーガーへようこそ♪
ハンバーガーが、好きだ。
たとえば、こんがりきつね色に焼けたバンズのあの香ばしいにおい。
パティが鉄板の上で踊るときの、肉汁と煙が混ざり合う、こってりと香ばしい、罪深いにおい。
特製ソースとチーズとシャキシャキのレタスが重なり合う、あの複雑で豊かなにおい。
販歯厚餓安 好代は、マクドナルドの前を通るたびに立ち止まり、全身でそのにおいを吸い込んで
――そして泣く。
…ハンバーガーアレルギー。
医学的な正式名称はもっと長ったらしいものだが、要するに、ハンバーガーを食べると死ぬ。
具体的には、口に入れた瞬間から全身の毛細血管が沸騰し、十秒後に意識が飛び、三十秒後に心臓が止まる。
初めて口に入れた日のことは今でも忘れない。
救急搬送。胃洗浄。母親の号泣。
担当医に「あなたはハンバーガーを食べると死にます」と宣告されたときの、妙な晴れやかさ。
…それでも、好きなのだ。
販歯厚餓安 好代、十七歳は、ハンバーガーが大好きだ。
だから、諦めなかった。
十七年間、諦めずに挑戦し続けて、十七回救急搬送された。
三才のとき。五歳のとき。
七歳のとき。九歳のとき。十一歳のとき…
懲りずに食べようとして、懲りずに死にかけた。
ただ、不思議なことが一つあった。
挑戦を重ねるごとに、「死にかける」から「すごく苦しいが意識がある」に変わっていったのだ。体が、何かを学んでいくみたいに。
最終的に好代が行き着いた結論は、「においだけ嗅ぐ」だった。
今日も渋谷の路地を抜けて、マクドナルドの前に立った。目を閉じて、深く息を吸う。
「……うまそ」
声が出た。目が少し熱くなった。泣きたいわけじゃない。ただ——悔しい。
食べたい。こんなに好きなのに、食べられない。
そのときだった。
「ねえ、キミ」
背後から声がした。
好代は振り返った。
そこに、女の子がいた。
―――――――――
第一章「スカウトと、においの正体」
◆ 七月の渋谷、夕方六時過ぎ
小柄な女の子だった。
黒髪のロングツインテールに、薄黄色の大きな瞳。ちらりと見える八重歯が印象的だ。着ているのはパステルピンクと黒のフリルエプロン——どこかの制服だろうか。胸ポケットに丸くてかわいいロゴマークがついている。
女の子は、好代の顔を下から覗き込んだ。
「あなた、ここによく来るよね。でもいっつも入らない」
「……まあ」
「バーガー、好き?」
「好きです。食べると死ぬので入れないだけで」
女の子はまったく驚かなかった。むしろ目が輝いた。
「えっ、どんなアレルギー!?症状は!?何歳から!?」
「三歳から。食べると心臓が止まりかける。十七年で十七回救急搬送された」
「すごい!!!」
「すごい」の部分はツッコむべきか悩んだが、好代は疲れているのでやめた。
「私、渾沌っていうんだけど。よかったら、うちで働いてみない?バーガー食べ放題だよ?」
「食べると死ぬって今言いました」
「うちのバーガーは多分大丈夫!」
「多分って何」
渾沌、と名乗った女の子——渾沌ちゃん——はにこっと笑った。底抜けに明るい笑顔。何も怖くなさそうな顔。何も怖くないというより、怖いとか怖くないとかをそもそも認識していないような顔、とも言えた。
「……うちって、どこですか」
「ぱんでむバーガー!」
「聞いたことないです」
「少し遠いとこにあって。でもすぐ行けるよ。今から来る?」
好代は少し考えた。考えながら、においを嗅いだ。マクドナルドのにおいが鼻をくすぐる。
十七年間。においだけで生きてきた。
もし食べられる可能性が一パーセントでもあるなら——
「行きます」
「やった!!!」
渾沌ちゃんが手を叩いた。
その瞬間、夕暮れの渋谷が——ぐにゃりと、音ごと溶けた。
◆ パンデモニウム・バーガー、外観
暗い空間を歩いた。
渾沌ちゃんに手を引かれながら、足元に何があるかわからない薄紫の空間を、どのくらい歩いたかわからない。
でも気づいたら——光があった。
建物だ。
すごく大きな建物だ。
入り口の上、ネオンサインが輝いている。パステルピンクとラベンダーとゴールドを混ぜたような、甘くてきれいな色で——
♡ PANDEMONIUM BURGER ♡
― ぱんでむバーガー ―
入り口はアーチ型で、縁をラインストーンみたいな何かが飾っている。
看板の下に黒板があって、今日のおすすめメニューがハートのチョーク文字で書かれていた。
ドアは白と金の縁取りで、取っ手はピンクのリボン型。
外側だけ見れば、ものすごくかわいい——ハンバーガーショップ、だ。
ただ。
店の上が見えない。
建物の高さを目で追うと、ずっとずっと上まで続いていて、どこで終わるかわからない。雲の中、というより、もっと遠くまで。夜空の中に溶けていくみたいに、どこまでも続いている。
好代は少し目を細めた。
「……大きいですね」
「入って入って!においするでしょ!?」
においがした。
扉を開けた瞬間に、ものすごいにおいがした。
バーガーのにおい。でも今まで嗅いだことがないほど深くて複雑なにおい。甘くて、こってりして、スパイシーで、どこか懐かしくて、どこか全然知らない。「世界の全部」を圧縮したみたいなにおいが、好代の全身に染み込んだ。
目が熱くなった。
◆ 一階フロア
内装は、ポップでかわいかった。
天井は高い。とても高い。どこまでも高い。シャンデリアが下がっているが、形が少し変わっている——でも、かわいい。やわらかい光が落ちていて、フロア全体をパステルカラーに染めている。
壁はアイボリーとピンクのタイル張りで、あちこちにイラストやポスターが飾られている。かわいいキャラクターたちのポスター。カラフルなメニューボード。「本日のスペシャルバーガー」と書かれた黒板。どれもポップで、見ているだけで楽しい。
テーブルと椅子はアンティーク風の白で統一されていて、テーブルには小さな花瓶に一輪ずつ花が挿してある。窓の外は——暗い。星空だろうか。でも見たことがない星の並び方だ。
カウンターにはレジがあって、クルーたちが立っている。全員女の子で、全員ぱんでむの制服——ピンクと黒のフリルエプロン——を着ている。でも一人一人雰囲気が全然違う。笑っている子、無表情の子、ぼんやりしている子、ものすごく目力がある子。
においが、すごい。
立っているだけで、全身がにおいに包まれる。好代は目を閉じて三秒、ただにおいを嗅いだ。
幸せ、という言葉が浮かんだ。
「あ、秩序ちゃーん!」
渾沌ちゃんが大声で呼んだ。カウンターの奥から出てきた女の子は、渾沌ちゃんとまるで違う雰囲気だった。
白と青のメイド服風ロリータドレスを制服の上から重ねている——のか、これが制服なのか。明るいブロンドの髪を一つに結んでいる。目が涼しくて、静かで、きりっとしていた。
その女の子——秩序ちゃん——は、好代を頭のてっぺんから足先まで無言でスキャンした。
「……また勝手にスカウトを」
「だって!この子すごいんだよ!十七年間バーガーアレルギーなのにバーガーを食べ続けようとしてきた子なの!」
「……十七年」
秩序ちゃんの目が、ほんの一瞬だけ細くなった。
「お名前は?」
「販歯厚餓安 好代です。はんばーがー すきよ、と読みます」
「……珍しいお名前ですね」
「よく言われます」
「ここに来て、何か変だと思いましたか」
「全部変です。路地裏から空間を通って来たし、建物の高さが終わってないし、においが変だし、窓の外の星座が変だし、全部変です」
秩序ちゃんが、ほんのわずかだけ眉を上げた。それが驚きの表現らしい。
「正直ですね。では座ってください。説明しながら試食をお持ちします」
「待って——私アレルギーで死にかけるんですけど」
「ここのバーガーは——おそらく——大丈夫です」
「おそらくって何ですか」
「九十九・七パーセントの確率で大丈夫です」
「残りの〇・三パーセントは」
「……素敵な何かになります」
好代は秩序ちゃんの目を見た。にっこりした穏やかな目。でもその奥がとても静かで、涼しかった。
「……窓際の席はどこですか」
「こちらです」
好代は案内された席に座った。窓の外に変な星空が広がっている。それを眺めながら、「普通じゃないな」と思った。でも怖くはなかった。においがしているから。
◆ 初めての一口
運ばれてきたバーガーは、見た目だけなら普通だった。
丸いバンズ。レタスとトマトのはみ出し方がおいしそうで、チーズがとろりと溶けかけていて、ソースが一筋垂れている。白と金のストライプの包み紙に、ぱんでむのロゴ。
においが——
においが、すごかった。
このバーガー一個だけで、今まで嗅いだ全てのにおいが入っているみたいだった。甘くて、こってりして、懐かしくて、どこかの知らない風が入っている。
「最初の一口、怖いかもしれません」と秩序ちゃんが隣に立って言った。「でも、大丈夫です。あなたのアレルギーは——このバーガーに対しては、働かない可能性が高い」
「なぜ」
「ここのバーガーは少し特別なものです。食べると、そのバーガーが由来する世界線の情報が流れ込んで、その世界の特性を反映したスキル効果が発現する。……通常であれば、情報が体に吸収されて、不可逆の変容が起きます。でも——あなたは、もしかしたら違うかもしれない」
「違う、というのは」
「食べてみればわかります」
渾沌ちゃんが向かいの席から「ファイト!」とガッツポーズを作っていた。他のクルーたちも、それぞれさりげなく——全然さりげなくないが——こちらを窺っている。
好代はバーガーを持ち上げた。
両手で、しっかりと。
においを、吸った。
目を、閉じた。
「……いただきます」
一口、かじった。
最初の三秒、好代は身構えた。
いつもここから始まる。喉が締まって、心臓が早鐘を打って、全身が震えて、意識が遠くなる。
でも。
五秒、経った。
十秒、経った。
死ない。
代わりに、何かが来た。
「情報」という言葉しか思いつかなかった。
バーガーの一口と一緒に、何かが流れ込んでくる。映像じゃない。音じゃない。でも確かに「わかる」感覚だ。このバンズに使われた小麦がわかる。パティの火の通り方がわかる。ソースのスパイスが何種類ブレンドされているかがわかる。それだけじゃない——このバーガーが「どこから来たのか」の、ぼんやりした感触が頭に入ってくる。
そして——
何も変わらなかった。
情報は来た。でも体に何も起きなかった。
好代はゆっくりと咀嚼して、飲み込んだ。
しばらく待った。
何も起きない。
「……うまい」
声が出た。
涙が出た。
止まらなかった。
十七年間で初めて、バーガーを食べた。
ばかみたいにおいしかった。
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◇ クルー視点モノローグ —— 秩序
面白い、と私は思った。
彼女はバーガーを食べて、泣いていた。それ自体は珍しくない。初めてぱんでむのバーガーを口にした者は、大抵おかしな反応をする。笑う者、眠る者、走り出す者、消える者。
だが彼女は——泣きながら食べ続けている。
そして何も起きていない。
ぱんでむのバーガーを摂食した者の体内では、通常「変容」が始まる。バーガーが持つ世界線の情報圧が人体に上書きされ、その世界線固有のスキルが不可逆的に刻まれる。吸収しきれない場合は——別の話になる。
だが彼女の場合、情報は流れ込んでいる。目の焦点が外れた、あの顔。データを受け取っているときの顔だ。
しかし変容が、起きていない。
情報を受け取りながら、吸収していない。
……十七年間、食べようとするたびに体が拒絶してきたのなら、それは「バーガーの情報を吸収する機能」を壊したのではなく、「吸収すること自体」を体が根本から拒絶する体質になったということだ。
情報は入る。だが上書きされない。
つまりこの子は——ぱんでむにあるいかなるバーガーの能力も、好きなときに好きなだけ行使できる。
吸収しないから、後戻りもない。吸収しないから、飲み込まれることもない。
姉さんが興奮するのは、無理のないことだ。
……私も、少し——興奮している。
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好代は三個目のバーガーを食べながら、秩序ちゃんの説明を聞いた。
「ここはハンバーガーのお店です。バーガーを作って、売っています」
「……それだけですか」
「はい」
秩序ちゃんは一切表情を変えなかった。嘘はついていないと思うが、全部言っているようにも見えなかった。
「場所はどこですか、ここ」
「……少し遠いところです。でも来ようと思えばいつでも来られます。渾沌が迎えに行きます」
「あ、お迎えサービスあるんだ♪」と渾沌ちゃんが嬉しそうに割り込んだ。「私、どこでも行けるから!」
「クルーは何人いますか」
「現在三十一名と、少し。あなたを含めると三十二名です」
「もう採用されてるんですか私」
「先ほどのテストで合格しました」
「テストだったんですか」
「はい。ぱんでむのバーガーは、普通の人が食べると……色々なことになります。あなたがならなかったことは、特別な適性がある証拠です」
「色々なこと、って何ですか」
「まあ、素敵なことだよ♪」と渾沌ちゃんが笑った。
素敵なことという言い方に少し引っかかったが、好代は四個目のバーガーに手を伸ばした。おいしいのだから仕方がない。
「働くとして、仕事の内容は何ですか」
「バーガーを食べること、です」
「……え?」
「あなたの能力は、バーガーを食べることでその世界線の特性を行使できるという特殊なものです。通常クルーは一種類のバーガーを専門とします。あなたはすべてのバーガーの能力を行使できる可能性がある。それを業務として使ってもらいます」
「どんな能力があるんですか」
「色々です」
「たとえば!」と渾沌ちゃんが指を立てた。「時間を巻き戻す能力!魔法が使える能力!植物と話せる能力!炎を使う能力!空を飛ぶ能力!存在を消す——あ、これは言わなくていいか」
「最後の何ですか」
「まあ色々!とにかく色々!」
好代は五個目のバーガーを食べながら、目の前のお店が普通のハンバーガーショップではないことを静かに悟った。それでもにおいがして、食べられるので、まあいいか、と思った。
◆ 制服と、地雷系
説明が一段落したところで、秩序ちゃんが言った。
「制服についてですが」
「はい」
「ぱんでむのクルーは制服を着ます。ただし——少し特殊な制服です」
秩序ちゃんが手振りをすると、別のクルーが大きな箱を持ってきた。ラベンダー色の箱に黒いリボン。
好代は箱を開けた。
黒いフリルのスカート。
黒いブラウスと白いフリルエプロン。
黒いチョーカーと白いレースのリストカフス。
レースのヘッドドレス。
「……地雷系ですね、これ」
「ぱんでむの制服です」
「どう見ても地雷系ですよね」
「かわいいでしょ!!!」と渾沌ちゃんが大声で割り込んだ。「すきよちゃんに絶対似合うと思って!!!」
「なぜ私の体型に合わせたサイズが入っているんですか」
「ぱんでむの制服はクルーに合わせて自動で変化します。サイズも、デザインの細部も、その人に一番似合うように」
「……なぜ」
「ぱんでむのコンセプトとして、かわいいは正義、があります。クルー全員が最大限かわいくあることが、業務上の必要条件です」
「業務上の必要条件」
「はい」
好代はしばらく制服を眺めた。
地味な紺色のパーカーと薄い存在感。十七年間、特徴のない自分しか知らない。
「……着てみてもいいですか」
「もちろんです」
試着室は白い鏡張りで、広かった。
着替えながら、好代は少し不思議な気持ちになった。フリルスカートを履いたことがない。チョーカーをつけたこともない。ヘッドドレスなんて初めてだ。ブラウスのボタンを留めて、エプロンを結んで、チョーカーをつけて、ヘッドドレスを乗せて——
鏡を見た。
「……あれ」
似合った。
客観的に見て、明らかに似合っていた。
好代の薄い顔立ちが、地雷系の引き算の美学にぴたりとはまっていた。黒いフリルが膝あたりで揺れて、チョーカーが首元を引き締めて、ヘッドドレスが全体をまとめている。目の下に何も書いていないのに、なぜか目力が増した気がした。
試着室のドアを開けると——
「すきよちゃん!!!!!めちゃくちゃかわいい!!!!!!!」
渾沌ちゃんが叫んだ。音量が大きすぎた。
「秩序ちゃん見て見て!!!すきよちゃんが地雷系になった!!!!」
「……見ています」と秩序ちゃんが言った。「よく似合っていますね」
褒めているはずなのに事務的に聞こえるのが秩序ちゃんのすごいところだな、と好代は思った。
「……働きます」と好代は言った。「条件を聞いてもいいですか」
「時給はバーガー食べ放題です」
「お金じゃないんですか」
「ぱんでむの通貨はバーガーです」
「……それでいいです」
渾沌ちゃんがまた大声で喜んだ。
好代は、十七年分の「においだけ嗅ぐ」生活が今日終わったことに、ようやく気づいた。
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◇ クルー視点モノローグ —— 渾沌
よかった、と思う。
あの子が来てくれて、よかった。
私はたくさんのものを見てきた。始まりも終わりも、大きなものも小さなものも。全部が通り過ぎていく。私はその全部を楽しんで来た。楽しむのが私の在り方だから。
でも時々——ごくたまに——思うことがある。
ぱんでむのバーガーを「うまい」と言ってほしいな、と。
バーガーはぜんぶおいしい。でも食べると大抵おかしなことになってしまって、「おいしかった」と言うところまでたどり着く前に、何かが変わってしまう人がほとんどで。
あの子は言った。
泣きながら——「うまい」と言った。
それがすごく、嬉しかった。
秩序ちゃんは「スペックが高い」と言う。そうかもしれない。でも私はそれより、あの子がぱんでむのバーガーをすごくおいしそうに食べてくれたことの方が嬉しかった。
これからたくさん食べてもらえる。
たくさん「うまい」と言ってもらえる。
うん。よかった。
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翌日、好代はぱんでむに来た。
渋谷の路地で渾沌ちゃんと待ち合わせて、手を引かれてぐにゃりと空間を抜けると、あっという間にぱんでむの裏口だった。
着替えた。
制服に着替えると、なんとなく背筋が伸びた。鏡に映るのは地味な自分じゃない。チョーカーをつけた地雷系の自分だ。なんか——悪くない。
フロアに出ると秩序ちゃんがいた。
「おはようございます、好代さん。研修を始めます」
「おはようございます」
「今日は二つのことをします。一つ、ぱんでむのバーガーについての基礎説明。二つ、実際にバーガーを食べてスキルを確認します」
「わかりました」
◆ バーガーとスキルの仕組み
研修は奥の小さな部屋で行われた。白板と、丸テーブルと、椅子。渾沌ちゃんは隅で関係ない落書きをしていた。
「ぱんでむのバーガーには、それぞれ固有の能力があります」と秩序ちゃんが説明した。「バーガーを食べると、その世界線が持つ特性——スキル——が、食べた者に発現します。通常は不可逆で、体に吸収された時点で変容が始まる。クルーはそれぞれ担当バーガーの能力を常時行使できます」
「秩序さんの能力は何ですか」
「……秘密です」
「え」
「業務上、開示できない情報があります。ただ、大変便利です」
怖い、と思ったが口に出さなかった。
「あなたの場合、バーガーを食べることで一時的にその能力を行使できます。ただし——バーガーが消化し終わると効果は弱まります。また、バーガーを食べない限り能力は使えません」
「……お腹がいっぱいになったら使えなくなる、ということですか」
「おおむね、そうです」
「つまり大食いのほうが有利なんですか」
秩序ちゃんが少し間を置いた。
「……その観点は、盲点でした。一応、そうなります」
渾沌ちゃんが「すきよちゃん天才!」と叫んだ。
「それと——担当外のバーガーをクルーが食べると大変なことになる、と言いましたよね。私はならないんですよね」
「あなたはなりません。通常、バーガーの情報は体に吸収されます。吸収しきれないと——別の話になる。あなたは情報を受け取るが、吸収しない。だから変容が起きない」
「体が十七年間バーガーを拒絶し続けた結果、ということですか」
「そう考えるのが自然でしょう」
好代は少し考えた。
十七年間、何度も死にかけながら食べようとしてきた。お医者さんには「やめなさい」と言われた。お母さんにも泣かれた。それでも諦めなかったのは、単純に好きだったからだ。食べられないのに、においを嗅ぐだけで泣けるくらい好きだったから。
それが今——チートスキルになっている。
なんか、報われた気がした。
◆ 最初のバーガー能力、発動
秩序ちゃんが一個のバーガーを持ってきた。
普通より少し小さめ。バンズがつやっとしていて、ソースが薄い緑がかった色をしている。においは清涼感があって、木の葉みたいな爽やかさが混じっている。
「これを食べてください」
「何の能力のバーガーですか」
「植物や自然と対話できる能力です。特定の世界線では植物が意志を持つ事例が記録されています。そういった環境から来たバーガーです」
好代はバーガーを食べた。
流れ込んでくる情報。緑で、涼しくて、光が差し込む感触。どこかの世界線の、豊かな自然の息吹みたいなもの。そして——また体は何も変わらない。吸収しない。
でも何かが「使える」感じがする。
テーブルの隅に小さな観葉植物が置いてある。好代はその葉っぱを見た。
「……ねえ、元気?」
何かが来た。
言葉じゃない。でも確かに、感触として来た。「水が足りない」というくたびれた感じ。「日当たりはいいけど暑すぎる」という疲れた感じ。「もう少し涼しいとこに置いてほしい」という訴え。
「……この子、水が足りないみたいです。日当たりも良すぎて暑いと言ってます。もう少し日陰に移してほしいって」
秩序ちゃんが土を確認した。確かに乾いていた。植物を少し移した。翌日確認すると、葉っぱが明らかに元気になっていた。
「……当たりましたね」
「植物が不満を言うとは思いませんでした」と好代は言った。「もっとポジティブなことを言うと思ってた」
「それが現実です」と秩序ちゃんが言った。「対話できる、ということは、良いことも悪いことも伝わる、ということです」
「……なるほど」
秩序ちゃんがかすかに、本当にかすかに、表情を緩めた気がした。
「一つ聞いてもいいですか」
「なんですか」
「さっきのバーガー——おいしかったですか」
好代は少し考えた。
「おいしかったです。清涼感があって、食べ応えもあって、森の中にいる気持ちになりました。後味がずっと爽やかで」
秩序ちゃんが、ほんのわずかに——本当にほんのわずかに——口元を緩めた。好代は見間違いかもしれないと思った。でも多分見間違いではない、とも思った。
第四章「ぱんでむの魅力と、その深さ」
◆ 施設案内、開始
研修の後半は施設案内だった。渾沌ちゃんが張り切って案内役を申し出て、秩序ちゃんが「説明が不正確になる」と渋い顔をしながらも付き添った。
「まずここが一階フロア!お客様が来るメインのとこ!」と渾沌ちゃんが両手を広げた。
改めてフロアを眺めると、やはりきれいだ。パステルカラーの統一感。かわいいポスターたち。やわらかいあかり。あちこちにある小さなかわいいディスプレイ——見れば見るほど、丁寧に作られていることがわかる。
「お客様は来るんですか」と好代は聞いた。
「たまに来るよ!色んなとこから来るの」
「色んなとこ、というのは」
「まあ、色んなとこ♪」
また「色んなとこ」で終わった。好代はもう追求しないことにした。
◆ バックヤード
「こっちがバックヤード!みんなのくつろぎゾーン!」
扉を抜けると雰囲気が変わった。
廊下が続いていて、両側に扉が並んでいる。それぞれ扉のデザインが全然違う。花柄の扉、無機質な金属の扉、なぜか蔦で覆われた扉、普通のアパートのドアみたいな扉。
「これが居住区。みんなの個室がある。各部屋はそれぞれのクルーの……まあ、プライベートな空間だから、勝手に入ったらだめだよ」
「わかりました」
通り過ぎるとき、扉の向こうからそれぞれ違うにおいがした。
おもちゃみたいな楽しいにおい。
消毒薬みたいな清潔なにおい。
懐かしい炊事のにおい。
少しだけ火薬みたいなにおい。
好代は足を止めて、廊下のにおいを吸い込んだ。
これだけ個性が違う人たちが、一つの場所にいる。それが、なんとなく——いいな、と思った。
◆ 大浴場「羊水」
「こっちが大浴場!疲れたらここで休める!」
扉を開けると、湯気と温かさが出てきた。
中を少し覗くと、広い浴場がある。床はタイル張りで、ピンクがかった薄い色のお湯が張られている。
「……お湯の色が変ですね」
「気のせい気のせい!でもここに入ると疲れが全部とれるよ!体のこととか、色々!」
「体のこと、というのは」
「色々!」
また色々で終わった。
ただにおいは確かにいいにおいがした。温かくて、ふんわりしていて、眠れそうなにおい。
◆ 喫茶「黄昏」
「こっちが喫茶!黄昏って名前のお休み処!」
小さなカフェだった。
木のテーブルと椅子。照明が暖かい橙色。窓から夕暮れの光みたいなものが差し込んでいる——でも外は夜のはずで、なぜ夕暮れなのかはわからない。
カウンターには一人のクルーが立っていた。少し大人っぽい雰囲気の子で、好代を見てふわっと微笑んだ。
「郷愁ちゃんのとこ」と渾沌ちゃんが言った。「ここにいると落ち着くんだよね〜」
確かに、落ち着く。
においがした。コーヒーと、焼き菓子と、懐かしい何かが混じったにおい。
好代はここにずっといてもいいな、とぼんやり思った。
◆ 上の階
「上の階は色々あるけど、今は案内できないとこも多くて」と渾沌ちゃんが少し困った顔をした。
「……どんなところがあるんですか」
「んーと、お料理を作るとこ、色んな倉庫、あと……」渾沌ちゃんが少し考えた。「まあ、色々あるんだよね。上に行くほど、ちょっと特殊なエリアになっていくから、慣れてきたら少しずつ案内するね」
「わかりました」
好代は上を見上げた。フロアの天井はずっと高くて、どこまでも続いている。
この建物の一番上には——何があるんだろう。
聞いてみようかと思ったが、渾沌ちゃんと秩序ちゃんの顔を見て、今は聞かないでおこうと思った。
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◇ クルー視点モノローグ —— 秩序 — 補足記録
案内の間、彼女は何度も足を止めて、においを嗅いでいた。
喫茶の前で。廊下で。浴場の扉の前で。
その都度、すごく嬉しそうな顔をしていた。
ぱんでむに来る者は多い。でも、においを嗅いで嬉しそうにする者は——珍しい。多くは別のものに気を取られるから。
彼女はまず、においを嗅ぐ。
十七年間、それしかできなかったから。
だからこそ、ここのにおいが全部、当たり前じゃない。
……ぱんでむのにおいを、あれだけ喜んでくれる者が来たのは——久しぶりだ。
姉さん、良い子を連れてきてくれた。
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夕方、好代は着替えてぱんでむを後にした。
制服から紺色のパーカーとジーンズに戻ると、また「地味な自分」が鏡に映った。でも今日は少し違う気がした。なんか——背中が軽い。
「すきよちゃん、また明日ね!」と渾沌ちゃんが言った。
「また明日来ます」と好代は言った。
「何か食べたいバーガーある?明日用意しとくよ!」
「……全部食べたいです」
「え!?全部!?」
「全部食べたいです。時間はかかると思いますが、全部食べてみたいです」
渾沌ちゃんがまた大声で喜んだ。秩序ちゃんが「業務上有意義です。承認します」と事務的に言った。
帰り道、渋谷の路地を抜けてマクドナルドの前まで来た。
いつもみたいに立ち止まった。いつもみたいに目を閉じた。においを吸った。
でも今日は泣かなかった。
代わりに、少し笑った。
今日、初めてバーガーを食べた。十七年分の諦めが、今日ようやく終わった。
食べられる場所が、あった。
あの不思議なお店は何なんだろう。建物は上が終わらないし、星の並び方が変だし、お風呂のお湯がピンクだし、植物と話せるバーガーがあるし、全部変だ。
でも、においがして、バーガーが食べられる。
それだけで、今は十分だ。
好代はポケットに手を突っ込んで、歩き出した。
明日もぱんでむに行く。
全部のバーガーを食べる。
それが今の好代の、たった一つの目標だった。




