表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

小説

私が東京に負けた日

作者: ちりあくた
掲載日:2026/01/18

 私が育ったのは、北陸地方のそこそこ大きな都市だった。


 名の知れた県庁所在地で、駅前には百貨店があり、郊外へ踏み出せば田んぼが広がる。街中に家があった私は、「地方都市の中心」に住んでいるというだけで、ずいぶんと恵まれている気になっていた。


 通っていたのは、いわゆる進学校だ。「毎朝一時間かけて登校してます」と言う同級生や、熊の出没ニュースに対して身構えるような生徒もいた。そういう話を聞くたびに、「自分の街は田舎ではない」と心のどこかで確認していた。大都会ではないけれど、必要なものはだいたい揃っている。文化的にも、情報的にも、そこそこ都会——私はそう信じて疑わなかった。


 趣味は読書だった。図書室に並ぶ「名著」は、だいたい読んだつもりでいた。今思えば、半ば権威主義的な読み方だったけれど、権威にはそれなりの中身が伴うだろう。実際、あの時間は私を裏切らなかった。


 欲しい本があればネットで取り寄せたし、図書室の隅や、個人経営の書店を探し回ることもあった。新しい世界を発掘するというよりは、「地図のバツ印から財宝を見つける」、半ば探検のような読書だった。本の内容を楽しむだけでなく、マイナーな本に目を通すという行為自体にも、私は浸っていたのだと思う。


 そんな私が、修学旅行で東京へ行くことになった。


 新幹線でがやがやする同級生たちを横目に、私は少し憂鬱だった。「東京かぁ……」というため息と共に。隣に座ったおっとりした友人の真紀が、「酔ってない?」と心配してくれたが、新幹線は拍子抜けするほど快適だった。


 東京には行ったことがなかったけれど、都会というものに大きな差があるとは思っていなかった。どこまで行っても、行き着く先は同じだろう、と。だったら沖縄や北海道で、まだ見ぬ自然に触れたかった。はしゃぎながら観光計画を話す彼らと、同じ車両に座っているのが恥ずかしかった。


 けれど、現実の東京は、私の想像をあっさりと追い越した。


 私の中の「都会」には、繁栄に境目があった。駅前に高層ビルが集まり、郊外に行くにつれてそれが薄れていく。しかし東京には、その境目が見当たらなかった。渋谷、新宿、池袋——確かに中心地はあるのに、その間にも名の知れた街が連なり、建物が途切れることがない。遠くには山など一つも見えず、空は驚くほど狭かった。


 自由行動の時間、私は街に酔ったようになり、気づけば班の列から外れていた。もちろん、そこは知らない街だった。商店街のようでありながら、真新しい複数車線の道路が真ん中を貫いている。


 今なら分かる。そこは神田神保町だった。


 私は逃げるように、吸い寄せられるように、一軒の古本屋へと入っていた。地元にも似たような店はあったが、並んでいるのは専門書か、使い古された参考書ばかりだった。「そりゃ売られるなあ」と思うような本たちだ。


 けれど、この店は違った。図書館特有の、少しすえた匂いがした。


 静寂の中、ぼうっと棚を眺めていると、ある「ガイド本」の前で足が止まった。難解な文学を読み解くための、評論家とやらが書いた解説書だ。私はかつて、カフカの『城』を前に立ち尽くし、どうしても理解できず、インターネットで本を注文したことがある。紙にこだわったせいで、到着まで一週間と二日。首を長くして待ったものだ。


 その本が、今、平然と棚に並んでいた。


 ——もし、私が学校帰りにここへ来られてたら。


「発送しました」のメールを、首を長くして待つ必要もなかったのだろうか。届くまでの数日間、机の上に積んだ本たちに手を伸ばしながら、ため息をつくこともなく。私は何食わぬ顔で、この本を棚から抜き取れたのかもしれない。


 そんな野暮な想像は、すぐに色あせた。


 ……ここは東京だもの。


「お嬢ちゃん、こんな店に興味あんのかい」


 そのとき、背後から声がした。祖父とそっくりの酒焼けした声だった。それなのに、不思議と下品ではなく、言葉の端々に癖のない区切りがあった。聞き慣れたはずの声質なのに、どこか背筋を伸ばさせる響きだった。


 ばっと振り返ると、白い髭をたくわえた老人が立っていた。よれたシャツに、年季の入ったエプロン。胸元には店の名前が刺繍されていて、おそらくは店長だったのだと思う。


 私は、消え入りそうな声で「はい」と答えた。


 すると、彼はくくっと笑い、「欲しい本があればあげよう」と言った。そして、店の成り立ちを語ってくれた。この店は、文学作品の解説本を中心に扱っていること。そういう本は敬遠されたり、すぐに不要になったりするから、自然とここに集まるのだということ。


 胸が、きゅっと縮んだ。


 私の街では、真新しい書店にすら並ばない本が、ここでは当たり前に循環している。買われ、読まれ、売られ、また棚に戻る。その輪っかの外で……私はもしかしたら、おこぼれを待っているだけだったのかもしれない。そう思うと、どこか疎外感が芽生え始めた。


 居づらさに耐えきれず、私は視線を速め、好きな作家の知らない短編集を一冊選んだ。「お願いします」と差し出すと、店主は丁寧にカバーをかけ、袋に入れてくれた。


 帰り際、彼はにこやかに言った。


「いい東京土産にしなよ」


 その瞬間、全てが腑に落ちた。背後から真紀の焦った声が聞こえた気がしたが、振り返れなかった。


 ああ、私の街は。


 私の時間は。


 ――私は、東京に負けたんだ。


 そして大人になった今、私は東京で暮らしている。

 まるで、当然の帰結であるかのように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ