第9話 二人きりのオフィスは、時限爆弾の真横
「いただきます……」
俺、相田譲は、自分の城であるはずの四畳半の部屋で、正座をしながら恐る恐る弁当箱を開いた。色とりどりの、見るからに栄養バランスの取れた手作り弁当。だし巻き卵、鶏の照り焼き、ほうれん草のおひたし……。ここ数ヶ月、コンビニ飯とカップ麺で構成されていた俺の食生活とは、あまりにも次元が違う。
そして、その向かい側。俺がいつも座っているゲーミングチェアに、しらたま先生が女神のような微笑みを浮かべて座っている。
「どうかな、お口に合うといいんだけど」
「は、はい……めちゃくちゃ美味しいです……」
美味しい。美味しいのだが、味がしない。
なぜなら、これはただの昼食ではない。専属マネージャー(自称)による、社長(俺)の健康管理という名の監視、その第一歩だからだ。
しらたま先生が専属マネージャーとして『アストラルノヴァ』に常駐すると宣言してから、一日。俺はまだ、この悪夢のような現実を受け入れられていない。
「それでね、譲くん。早速だけど、タレントのスケジュールを共有してもらってもいいかしら? 私の方でもダブルチェックして、無理のないように調整したいの」
俺は箸を置いた。来た。いきなり核心だ。
タレントのスケジュール。それはつまり、俺のスケジュールだ。キララの配信時間は、アカリの配信はできない。アカリの収録中は、キララのSNSは動かせない。全ては、俺の身体が一つしかないことに起因する。
(どうする……? ここで「実は全部俺のスケジュールです」なんて言えるわけがない)
俺はPCに向き直り、先日作成した架空の『タレントスケジュール管理表』を開いた。
「こ、こちらです。キララとアカリ、二人分のスケジュールをGoogleカレンダーで共有していまして……」
「わぁ、すごい! しっかり管理してるのね!」
しらたま先生は俺の背後から画面を覗き込み、感心したように声を上げた。カレンダーには『キララ:歌枠配信』『アカリ:ゲーム実況』『キララ:案件動画収録』といった予定が、絶対に重ならないように、しかし絶妙な間隔でびっしりと埋め込まれている。
「でも……なんだか、二人ともお休みが少ないように見えるわね。特に、配信と収録が連続している日もあるし……。タレントのメンタルケアも大事よ。私が二人と面談して、少しお休みを取るように提案してみようかしら?」
「ひっ……!」
思わず変な声が出た。
面談? 誰と? キララ(俺)とアカリ(俺)と、それぞれ?
「い、いえ! 大丈夫です! 二人とも、今はやる気に満ち溢れている時期でして! むしろ、もっと仕事をしたいと言っているくらいで……ははは」
「まあ、そうなの? 偉いわね、二人とも……。でも、譲くんがちゃんとセーブしてあげないと。社長さんのお仕事でしょ?」
善意の正論が、グサグサと突き刺さる。
この人がここにいる限り、俺はキララとアカリを同時に稼働させることができない。配信はもちろん、SNSの更新すら、常にしらたま先生の目を盗んで行わなければならないのだ。
その時だった。
俺のスマホに、ピコン、と通知が入った。キララのファンから「今日の配信は何時からですか?」というリプライだ。
(まずい……! 返信しないと!)
俺は、しらたま先生に気づかれないよう、机の下でスマホを操作しようとした。だが、その動きを、女神は見逃さなかった。
「あら、どうしたの? 譲くんのスマホ?」
「い、いえ! これは、あの、迷惑メールで……」
「そう? 事務所の公式アカウントは、ちゃんと通知をオンにしておかないとダメよ。ファンからの大切なメッセージを見逃しちゃうかもしれないわ」
先生はにこやかに言うと、立ち上がって給湯室(という名の部屋の隅のミニキッチン)に向かった。
「お茶、淹れるわね。譲くんも飲むでしょ?」
(今だ!)
俺は、先生が背を向けた、そのわずか数秒の隙を突く。神業的な速さでスマホを取り出し、キララのアカウントで返信を打つ。
『みんな、こんにちは♡ 今日の配信は21時からだよ! 楽しみにしててねっ!』
送信ボタンを押した瞬間、背後から声がかかった。
「はい、どうぞ」
振り返ると、湯気の立つマグカップを持ったしらたま先生が、すぐそこに立っていた。心臓が、喉から飛び出しそうになる。
(見られてない……よな!?)
「あ、ありがとうございます……!」
冷や汗をかきながらお茶を受け取る。もはや、スパイ映画の主人公にでもなった気分だ。
そんな攻防を繰り広げていると、しらたま先生はふと、部屋に鎮座する俺の生命線――最新型ボイスチェンジャー『プロジェクトアフロディーテ』に目を留めた。
「これ、すごい機械よね。この前の事務所視察の時から気になってたの。もしかして、これでキララちゃんやアカリちゃんの声質を調整したり、ノイズを除去したりしてるの?」
「は、はい! その通りです! 最新の音声処理装置でして……タレントの最高の声を、ファンの皆さんにお届けするために……」
俺の言葉に、しらたま先生は「そうなんだ……」と深く頷き、そして、とんでもないことを言い出した。
「ねえ、譲くん。試しに、この機械、使ってみてくれない?」
「………………は?」
俺の口から、今日何度目か分からない、素っ頓狂な声が漏れた。
「だって、譲くんは裏方さんだから、自分の声で配信に乗ることはないでしょう? でも、マネージャーの私が使い方を覚えておけば、万が一、配信中に機材トラブルが起きてもサポートできるかもしれないじゃない?」
違う。
そうじゃない。
この機械は、俺の冴えない成人男性ボイスを、天使の如き美少女ボイスに変換するための、禁断の魔法装置だ。俺が、この人の前で、これを使う?
それはつまり、俺がキララであり、アカリであることを、自らの手で証明するのと同じことだ。
「さあ、遠慮しないで! どんな風に変わるのか、興味あるわ!」
キラキラした瞳。純度100%の好奇心と善意。
それは、俺の首筋に突きつけられた、ギロチンの刃だった。
どうする?
「これは専門のエンジニアしか使えないんです」と嘘をつくか?
「実は壊れてて……」と、この事務所の生命線を自ら破壊するか?
俺は、震える手でマイクを握りしめた。
背後には、全てを信じきった顔で微笑む、専属マネージャー。
ワンオペVtuber事務所『アストラルノヴァ』、リアルバレまで、あと10秒。
絶体絶命のカウントダウンが、静かなオフィス(四畳半)に、無慈悲に響き渡っていた。




