第6話 絶体絶命!言い訳の神、降臨せよ
「――譲くん?」
その声は、春の陽だまりのように穏やかで、俺にとっては死刑宣告のように冷たかった。
振り返った先には、にこやかに微笑むしらたま先生。その視線は、俺の顔と、手に持った高級プリンの紙袋にロックオンされている。
終わった。
人生詰んだ。
リアルバレだ。
俺の脳細胞が、活動限界を示すアラートをけたたましく鳴らす。スーパーの袋から、長ネギの先端がだらしなくはみ出している。この生活感溢れる姿と、キララ宛の高級プリン。あまりにもミスマッチな組み合わせ。
言い訳は? 何か言い訳はできないか?
『これはキララから頼まれて受け取ったものです!』
→「あら、じゃあキララちゃんは今、お部屋にいるのね? ご挨拶したいわ!」→ゲームオーバー。
『これは俺が自分用に買ったプリンです!』
→この格好で? 一個数千円のプリンを? 不審すぎる。それに、もしこれがキララ宛だとバレていたら、俺がファンからのプレゼントを横領した極悪社長だと思われる。→社会的にゲームオーバー。
思考が袋小路に入り込み、俺の口から「あ……あ……」と意味のない音が漏れる。
その時だった。
しらたま先生は、俺が手にしているプリンの袋のロゴを見て、ふわりと微笑んだ。
「あ、それ! パティスリー『ル・シエル』のプリンでしょ? 美味しいのよね、そこの!」
「え……あ、は、はい……」
「私もさっき、そこのカフェでケーキ食べたのよ。譲くんも好きなのね、甘いもの。なんだか意外!」
……あれ?
俺は瞬きをした。しらたま先生の様子が、おかしい。
もっとこう「なんであなたがキララちゃん宛のプレゼントを?」みたいに、詰問されると思っていた。だが、彼女はまるで、俺が自分のためにプリンを買ったと信じて疑っていないようだ。
(まさか……見てなかった? 俺がポストからこれを取り出すところを……!)
一筋の光明が、絶望の闇に差し込んだ。
そうだ、そうだ。きっとそうだ。しらたま先生は、俺がアパートから出てきて、偶然プリンの袋を持っていたところに出くわしただけなんだ。
いける……! この流れなら、乗り切れる!
俺の脳が、生存本能によってブーストされ、超高速で回転を始める。言い訳の神が、今、俺に降臨する!
「は、はは……! お恥ずかしい……! 実は俺、無類の甘党でして……。特に、ここのプリンには目がなくて! 今日は頑張った自分へのご褒美に、つい……」
俺は、照れたように頬を掻きながら、完璧な言い訳を口にした。よれよれのTシャツにスウェットという格好も「休日のだらしない姿を見られてしまった」というシチュエーションを補強してくれる。
「まあ、そうなの! ふふっ、可愛いところあるのね、譲くん!」
しらたま先生は、楽しそうに笑っている。
勝った! この戦争、俺の勝ちだ!
俺が内心で勝利の雄叫びを上げた、その瞬間だった。
「――あっ、そうだ! キララちゃんにも、お土産にケーキを買ったのよ! 事務所のポストに入れておいたんだけど、見てくれたかしら?」
先生は、悪意ゼロの笑顔で、とんでもない追撃を放ってきた。
「……え?」
俺の思考が、再びフリーズする。
ポスト? ポストに入れた?
俺はさっき、ポストの中身をすべて取り出した。そこにあったのは、執事さんからのプリンと、しらたま先生からの手紙だけだ。ケーキなんて、影も形もなかった。
冷や汗が、滝のように背中を流れる。
まさか……入れ違いで誰かが盗んだ? いや、このアパートのセキュリティはガバガバだが、そんなピンポイントで?
それとも、しらたま先生の勘違いか?
俺がどう答えるべきか逡巡していると、しらたま先生は「あれー?」と首を傾げながら、自分のトートバッグをがさごそと漁り始めた。
「おかしいわね……確かに入れたはず……あっ」
先生は何かを見つけ、小さな箱を取り出した。それは、明らかにパティスリーのケーキ箱だった。
「ごめんなさい! バッグに入れたまますっかり忘れてた! 危ない危ない、ポストに入れたつもりになってたわ」
てへっ、と舌を出すしらたま先生。
その天然ぶりに、俺は心底安堵した。助かった……本当に助かった……。
「いえいえ! 大丈夫ですよ! じゃあ、俺が責任をもってキララに渡しておきますね!」
俺は安堵のあまり、満面の笑みでそう言ってしまった。
そして、すぐに後悔した。
「え?」
今度は、しらたま先生が不思議そうな顔で俺を見た。
その表情が、俺の失言を物語っていた。
まずい。
今、俺は、ごく自然に「キララに渡しておく」と言った。
しらたま先生の脳内では、今、どんな思考が巡っている?
『譲くんが、キララちゃんにケーキを渡す?』
↓
『二人は同じ事務所だけど、別々に住んでいるはず』
↓
『じゃあ、これから譲くんが、キララちゃんの家まで届けに行くの?』
↓
『あれ? でも、さっき譲くんは「自分へのご褒美」ってプリンを買って、自分の部屋に帰るところだったんじゃ……?』
↓
『じゃあ……キララちゃんも、このアパートに住んでる……?』
詰んだ。
さっきとは違うルートで、完璧に詰んだ。
一つの嘘を隠すために、別の嘘をつき、その結果、巨大な矛盾が生じてしまった。
俺の顔から、急速に血の気が引いていく。
しらたま先生は、俺と、俺のアパートと、俺が手に持つプリンと、彼女が持つケーキを、困惑した表情で見比べた。
そして、何かを閃いたかのように、ぽん、と手を叩いた。
その瞳には、さっきまでの親愛の情とは違う、憐れみと、同情と、そして確信の色が宿っていた。
「……そっか。そうだったのね、譲くん」
先生は、どこか悲しそうな、それでいて全てを理解したような声で言った。
「大変だったのね……。一人で、全部……」
……え?
一人で?
その言葉の意味を理解するより先に、しらたま先生は、俺の手に自分のケーキの箱をそっと重ねた。
「これ、キララちゃんに、じゃないわ。いつも頑張ってる、譲くんにあげる。プリンと一緒に食べなさい」
「……へ?」
「社長さんのお仕事、大変でしょうけど、無理しちゃダメよ。キララちゃんもアカリちゃんも、きっと心配してるわ」
そう言うと、しらたま先生は、慈愛に満ちた笑みを浮かべ、俺の肩をぽんぽんと叩いて去っていった。
一人、その場に取り残された俺。
両手には、自分用(という嘘)のプリンと、しらたま先生からもらったケーキ。
そして、頭の中には、巨大なクエスチョンマークが浮かんでいた。
(……え? 今の、どういう状況だ?)
バレたのか?
バレてないのか?
「一人で大変」って、何が?
なんで俺がケーキをもらってるんだ?
俺は混乱の極みに達し、ただ呆然と、しらたま先生の去っていった背中を見つめることしかできなかった。
ワンオペ事務所の社長、相田譲。
彼の知らないところで、物語は、新たな「勘違い」という名のレールの上を、猛スピードで走り始めていた。




