第22話 地獄の特訓と、ストップウォッチの悪魔
「では、第一回スイッチング作戦模擬訓練を開始します」
橘朔也さんの、冷静で無慈悲な声が、事務所(俺の部屋)に響き渡った。
オフラインイベントまで、あと三週間。
俺、相田譲の、体力と精神力の限界に挑戦する、地獄の特訓が始まったのだ。
事務所のレイアウトは、完全に変えられていた。
部屋の中央に、段ボールとブルーシートで作られた、粗末な『壁』が設置されている。その両側に、俺の机と、予備の机が置かれ、それぞれが『キララブース』と『アカリブース』と名付けられた。
二つのブースを繋ぐのは、壁に設けられた、人が一人ギリギリ通れるほどの『秘密の通路(段ボールの切れ込み)』だ。
「社長。あなたの目標タイムは、ブース間の移動、着席、そしてボイチェンのプリセット切り替えまで含めて、5秒です」
「ご、5秒!?」
俺は思わず叫んだ。無茶苦茶だ。F1のピット作業じゃあるまいし。
「何を驚いているんですか。本番では、ファンとの会話が途切れる、ほんの僅かな隙を突いて移動するのです。5秒でも長いくらいですよ」
橘さんは、悪魔のようにストップウォッチを構えている。「さあ、どうぞ」
俺は、覚悟を決めた。
まずは、キララブースの椅子に座る。
「は、はぁい、こんキララ~!」
「はい、会話終了。移動開始!」
橘さんの号令と同時に、俺は椅子から飛び出し、段ボールの通路を駆け抜け、アカリブースの椅子に飛び込むように座る。そして、ボイチェンのダイヤルを『アカリモード』に切り替える!
「は、はーっ……待たせたな!」
俺が息を切らしながらセリフを言うと、橘さんが、冷たくタイムを告げた。
「……12.38秒。論外です。今のタイムでは、無人のブースで放送事故が起きます」
「そ、そんな……!」
「敗因は、移動時の無駄な動きと、着席時のタイムロス。そして、ボイチェン操作の遅延です。やり直し」
「うそだろ……」
その日から、俺の日常は、この狂気の反復横跳び訓練に占められた。
橘さんは、ミリ秒単位で俺の動きを分析し、改善点を的確に指摘してくる。
「社長、移動時の姿勢が高い。もっと腰を落としてください。空気抵抗を減らせます」
「着席と同時に、ボイチェンに手を伸ばす。一連の動作として体に覚えこませてください」
「声が上ずっています。息が切れた状態で、いかに安定した声を出すか。体幹トレーニングもメニューに加えましょう」
事務所での模擬訓練に加え、近所の公園での早朝ダッシュ、部屋でのプランクやスクワット……。
俺は、一体、何を目指しているんだ。Vtuberか? それとも、特殊部隊の隊員か?
◇
訓練開始から一週間。
俺のタイムは、ようやく7秒台まで縮まってきた。だが、橘さんはまだ満足していない。
その日の夜。訓練を終え、汗だくで床に倒れ込んでいる俺に、橘さんが一枚の資料を差し出した。
「社長。次のステップです」
「まだ、あるのか……」
「当然です。次は、会話のシミュレーションです」
資料には、様々なタイプのファンの『ペルソナ』が、詳細に書き出されていた。
【ファンタイプA:内気な少年】
特徴:声が小さく、緊張してうまく喋れない。会話が途切れがち。
攻略法:キララとして、優しく質問を投げかけ、会話を引き出す。
【ファンタイプB:高圧的なオタク】
特徴:「俺が育てた」感が強く、マウントを取ろうとしてくる。
攻略法:アカリとして、相手よりさらに高圧的な態度で一蹴し、主導権を握る。
【ファンタイプC:厄介なガチ恋勢】
特徴:個人情報を聞き出そうとしたり、プライベートな質問を繰り返す。
攻略法:ロボ社長モードを瞬時に発動し、『ソレハ、契約上オ答エデキナイ』と機械的に回答し、会話を強制終了させる。
「明日からは、私がこれらのファンを演じます。あなたは、5秒以内にブースを移動し、それぞれのペルソナに、的確に対応してください」
「……鬼か、あんたは」
「最高の芸術のためですよ」
翌日。地獄のロールプレイング訓練が始まった。
橘さんの演技力は、無駄に、そして非常に高かった。
橘さん(内気な少年役)「あ、あの……キ、キララちゃ……かわ、です……」
俺(キララ役)「ありがとう! 君の名前はなんて言うの?」
「はい、会話終了! 移動!」
俺は7秒でアカリブースへ移動する。
すると、橘さんは、瞬時にペルソナを切り替える。
橘さん(高圧的なオタク役)「おー、アカリじゃーん。俺がデビューの時から応援してやったおかげで、人気出てきたみてーだなあ?」
俺(アカリ役)「はぁ? どの口が言ってるのかしら。感謝なさい、アタシに会えることを」
「はい、対応は的確。だが、タイムは6.8秒。まだ遅い」
この男、本気だ。
俺の全てを、アストラルノヴァの未来に賭けている。
俺は、床に両手をつき、荒い息を繰り返しながら、それでも、笑っていた。
辛い。苦しい。だが、不思議と、充実していた。
ワンオペだった頃の、孤独な戦いとは違う。隣には、俺の狂気を理解し、共に戦ってくれる、最強の共犯者がいる。
「……もう一回、お願いします」
俺は、汗を拭い、立ち上がった。
橘さんの口元が、わずかに緩んだのが見えた。
「よろしい。では、次は複合パターンで行きます。厄介なガチ恋勢からの、ロボ社長モードへのスイッチング。目標、5.5秒」
俺たちの、狂気の挑戦は、まだ始まったばかりだ。