第19話 嵐の後のモーニングコール
しらたま先生が、一枚の退職届を残して事務所を去ってから、一夜が明けた。
俺、相田譲は、燃え尽きた灰のように、事務所(自室)の床に大の字になっていた。AスタジオとBスタジオに分断された部屋の惨状が、昨夜の激闘の激しさを物語っている。
勝った。
俺は、キララとアカリの『魂』を、事務所を、守り抜いた。
だが、その代償は大きかった。
ネット上は、アストラルノヴァの話題で未だに燃え盛っている。
『#アストラルノヴァ放送事故』『#キララ様ありがとう』『#しらたまママどうした』
様々なハッシュタグが飛び交い、憶測と考察と、そして俺への称賛の声で溢れていた。
「……これから、どうすんだよ」
俺は、天井に向かって呟いた。
事務所の乗っ取りは防いだが、マネージャーはいなくなった。しらたま先生がこれまで担ってくれていた業務(という名の俺の健康管理)も、全て俺の肩にのしかかってくる。
そして何より、この大騒動を、ファンにどう説明すればいい?
『しらたまママは、事務所の方向性の違いから、円満に退社しました』
――円満なわけがない。全世界が、あの内紛劇を目撃しているのだ。
頭が、痛い。胃も、痛い。
俺が、終わらない悩みの海に沈んでいると、スマホがけたたましく鳴り響いた。着信だ。
画面に表示された名前を見て、俺は思わず飛び起きた。
『キララ様の執事(要注意)』
(なんで、この人が俺の電話番号を!?)
いや、違う。これは、事務所の公式連絡先として公開している番号だ。以前、あまりに熱烈なポエム調の問い合わせメールが何度も来たため、万が一のトラブルに備えて、社長としてその番号を登録しておいたのだ。ファンからの電話など、今まで一度もなかったのに。
恐る恐る、通話ボタンを押す。
「……はい、アストラルノヴァです」
『――ああ、社長さん、ですか?』
電話の向こうから聞こえてきたのは、落ち着いた、知的な響きを持つ青年のような声だった。いつものポエム調のメッセージからは、想像もつかないほど、普通……いや、理知的な声だ。
『私、『キララ様の執事』と名乗っている者です。昨夜の配信、拝見いたしました。……大変でしたね』
「あ、ええ……どうも……」
なんで、ファンに同情されてるんだ俺は。
しかし、彼の本題は、そこからだった。
『単刀直入に申し上げます。昨夜の騒動、そして、しらたま女史の離反。貴事務所は今、極めて脆弱な状態にあるとお見受けしました』
「……」
『そこで、ご提案があります。私を、アストラルノヴァの顧問として、雇っていただけませんか?』
「……は?」
顧問? この人が?
俺が困惑していると、彼は淡々と続けた。
『私の本業は、ITセキュリティとリスクマネジメントのコンサルタントです。小規模ながら、法人も経営しております』
「え……えええ!?」
キララのガチ恋勢筆頭、ポエム野郎の執事さん。その正体は、まさかのガチの経営者だった。
『昨夜の一件で、貴事務所には深刻なセキュリティリスクと、マネジメント上の脆弱性があることが露呈しました。私は、キララ様……いえ、アストラルノヴァという才能の輝きを、そのようなリスクからお守りしたい。ただ、それだけです』
あまりにも、話がうますぎる。
だが、今の俺に、この提案を断る理由があっただろうか?
「……よろしくお願いします」
俺は、藁にもすがる思いで、そう答えていた。
◇
その日の午後。
事務所にやってきた『キララ様の執事』――本名を橘朔也さんと名乗る彼は、高級そうなスーツに身を包んだ、切れ長の目が印象的な好青年だった。メッセージの文面から、もっとこう、フリフリの服を着た変人を想像していた俺は、自分の先入観を恥じた。
橘さんは、事務所の惨状を一瞥すると、顔色一つ変えずに言った。
「なるほど。状況は理解しました。まずは、今回の件に関する公式声明の草案を作成しましょう。社長、ご決断を」
「け、決断……?」
「しらたま女史の処遇です。表向き、どう説明しますか?」
俺は、悩んだ末に、自分の考えを正直に話した。
「……彼女のしたことは、許されることじゃない。でも、彼女がキララとアカリの生みの親であることも、事実なんです。彼女を、ただの悪者にはしたくない……」
俺の言葉を聞いた橘さんは、少しだけ目を細め、そして、初めてかすかに微笑んだ。
「……ええ。そうでなくては。それが、キララ様がお仕えするに値する、社長というものです」
その日の夕方。
橘さんが作成した完璧な文章で、公式声明が発表された。
『元マネージャーとの方向性の違いはあったものの、彼女が事務所に貢献した事実は変わらない。今後の彼女の活躍を祈っている』という、全方位に配慮した、大人の対応だ。
騒動は、これを機に、少しずつ沈静化に向かい始めた。
俺は、橘さんという、あまりにも有能すぎる味方を手に入れた。
これで、事務所は立て直せるかもしれない。ワンオペの闇からも、抜け出せるかもしれない。
俺が、そんな希望を抱き始めた、その時だった。
橘さんが、事務所に鎮座する、俺の生命線――ボイスチェンジャー『プロジェクトアフロディーテ』に、ふと、目を留めた。
「……社長。一つ、よろしいですか」
「はい、なんでしょう?」
橘さんは、その切れ長の目で、俺の目を、射抜くように見つめて言った。
「この機材……どこのメーカーのものでしょうか? 私の知る限り、市場に出回っているボイスチェンジャーで、これほどの性能を持つものは、存在しないはずですが」
俺の心臓が、ドクンと、嫌な音を立てて跳ねた。
そうだ。この男は、ただのファンじゃない。ITとセキュリティの、プロ中のプロだ。
そんな男の目を、ごまかせるのか?
しらたま先生という嵐は去った。
だが、その代わりに現れたのは、全てを見通すかのような、静かで、鋭い、新たな嵐の目だった。