後編 手紙を書くよ
春川先生に「おめでとう」を伝えると、夕の心に大きなくぼみができた。そのくぼみを埋めるように、「春川先生に何かを贈りたい」、そんな気持ちが急に膨れ上がってきた。
夕は、机から紙をとりだし、シャーペンを走らせた。紙の上をペンが踊るように駆け回る。早送りで見る都市開発のように、紙の上で新しい線と線がつながっていく。
夕は、春川先生への思いを切り絵に込めることにした。指先のトレーニングで、小学生の頃から切り絵をやっていた。切り絵が、夕の思いを一番そのまま形にできるように思えた。
下書きを描いた白い紙を黒い紙の上に乗せ、輪郭線をデザインナイフで切り取っていくと、下にある黒い紙の中に世界が生まれる。鉛筆でも、絵の具でも、マジックでも描けない太く、細かで、力強い線。
たった一色の線が思い通りになるだけで、自分の世界が周りと力強くつながっていくような感覚になった。
夕の作った切り絵には、誰の思い出にも残らないような何でもない授業の一瞬が切り取られていた。黒い紙に浮き上がった春川先生は、夕がこの二年間で一番よく見た美術室の姿だった。まるでその時の春川先生の影をさらってきて紙に縫い付けたようなデザイン。
毎夜、少しずつ切り抜いたその思いをしっかりラッピングして、机の中に忍ばせた。夕は、これを渡すのは今年度最後の日と決めていた。なんとなく。
修了式の木曜日。夕はリュックの中に切り絵を丁寧に詰め込んだ。三年生のいない全校生徒が体育館に集まった。校長先生の話が早く終わると、数人の先生たちが舞台に上がってきた。その中には、グレーのスーツを着た春川先生も混ざっていた。
「では、知っている人もいるかもしれませんが、来年度、本校を異動、または退職される先生を紹介します。まずは退職される春川先生」
周りがざわめいた。列の前にいる咲音と未来が小さな口を開けて、夕の方を振り返ったが、夕は二人の視線には気が付かなかった。
舞台の方から、まだ冬の寒さが潜んでいる風が吹いてきたように感じる。春川先生の挨拶は、夕の頭の中に何も残らなかった。
教室に戻ると、担任が春休みの注意事項、いよいよ進路を決める時期がくることなどを淡々と話した。これで夕の二年B組は解散だったが、寂しさはあまり訪れなかった。
「春ちゃん、退職って」
「驚いたね。何にも知らなかったし」
未来と咲音との帰り道、話題は春川先生の退職についてしか出てこなかった。夕も「そうだね」とか「どうだろうね」とか、AIが考えたような相槌をうった。
夕はリュックに切り絵を入れたまま家に帰った。午後はピアノ教室に行き、いつものように夕飯を食べ、お風呂に入り、自分の部屋のベッドの上に寝転がった。切り絵が入ったままのリュックを見ながら、明日、春休みになった学校へ行く理由を無理やり探した。
別に春川先生に最後の挨拶をしに行くという理由で充分だったのに、夕にはそれがまっすぐ過ぎて思わず避けてしまった。ぐだぐだと考えているうちに、時計は二十四時をまわって、明日は今日になっていた。
夕自身、いつ眠りに落ちたのか分からなかった。
金曜日の夕方、誰をごまかすわけでもないのに、夕は街に出かけるふりをして登校用のリュックを背負った。ぎこちなく、動きが硬くなっていた。
学校に着くと、校庭でサッカー部が練習をしていた。校舎からは吹奏楽部の演奏が聞こえる。たぶん、他にもたくさんの生徒が部活に来ているのだろう。夕は誰にも会わないように、静かに美術室にむかった。
美術室のドアは閉まっていたが、明かりがついていた。中に誰かいるのはまちがいない。夕はドアの前で立ち止まった。中で何か音がする。片づけをしているのだろうか。夕がノックもできずにいると、春川先生の方が夕に気が付いた。
ドアが開き、「三好さん、どうしたの?」と質問された。夕は、唇をきゅっと結びながら視線を外し、ただ「うん」とだけ答えた。
「入りなよ。てきとうに座って。最後に秘密のお茶会しようか」
今度は視線だけ上げて、夕がまた「うん」と答えた。
机の上に秘密の飲み物がまた二つ並んだ。
「ごめんね。先生辞めること伝えられなくて。一応、そういう決まりがあってさ」
「……ううん」
夕が一口ミルクティーを飲んだ。温かいミルクティーが、夕の中の冷たく大きな塊を溶かしていった。のどが軽くなると、声が溢れてきた。
「……春ちゃん、なんで先生辞めちゃうの?」
春川先生も一口ミルクティーを口に運んだ。先生も何かを溶かしたのかもしれない。
「私、結婚したでしょう。実は、旦那さんがフランスに行くことになったの。デザインの勉強で。それでついていくことにしたんだ」
「フランス?」
「うん。私にはできなかったことだけど、旦那さんは結局、夢、かなえちゃった。だから応援してみようかなって思ってね。でも、戻ってきたら先生に戻ろうと思ってるよ。秘密のお茶会、またしたいしね」
春川先生がいたずらっぽく笑った。夕はその笑顔を見て、自分の顔が暗くなっていることに気がついた。
「……春ちゃん。これ、結婚のお祝い」
夕はリュックから切り絵を取り出した。大事にラッピングされた切り絵を春川先生に手渡す。ほんのわずか、手が震えた。春川先生が「開けていい?」と聞いてから、ラッピングを外した。
「わあ」
春川先生の両目が忙しく動き回り、夕の切り絵の隅々まで見ている。どんな細かい部分も見落とさないように。その間、何も言葉はなかった。
「これ、三好さんが考えたデザインなの? 素敵。私、一生大事にするよ。本当に素敵なデザイン」
夕は無表情のまま、小さいお辞儀を返した。春川先生の顔を見ることができなかったが、普段よりも高くなった声で喜んでもらえたことが分かった。
「私もね、三好さんに贈ろうと思ってたものがあるんだ。もう会えないかと思って、他の先生に預けて、四月に渡すつもりだったんだけど。ちょっと待ってて」
春川先生が、準備室から小さなテレビくらいのキャンバスを持ってきた。
「はい。今度は私から」
春川先生がキャンバスに描かれた絵を夕に見せた。
「わあ」
オレンジと黄色と赤が混ざり合った綺麗な夕焼け。夕陽から大地にむかって金色の道がまっすぐ伸びている。春川先生と一緒に見た美術室からの校庭がそこにあった。
それは間違いなく夕のための絵だった。
「久しぶりに、自分の絵を描いてみたんだけど。一緒にここで時間を過ごしてくれてありがとう。三好さん、私、あなたのデザイン好きよ。これからも続けてほしい」
夕が絵からゆっくりと顔を上げ、春川先生とまっすぐに向き合った。
「……春ちゃん、フランスの住所教えてよ。私、手紙書くよ」
「手紙? それならメールアドレス教えようか。本当はダメなんだけど、私、もう先生辞めるしね」
「ううん。手紙がいい。私、自分で手紙書いて送りたい」
夕の強い目が春川先生をとらえた。夕の横顔は窓から入る夕日に照らされて、瞳の奥まで金色に燃え上がっている。
「……わかった。いいよ」
その日の夕焼けは、いつもより長く燃えていた。