中編 テスト用紙の中の私
学年末テストが二週間後に迫り、部活は休みに入った。夕の教室もどこか空気が張り詰めている。
「テストだる。部活もないし、ストレス溜まるだけだよ」
昼休み、陸上部の咲音がため息と愚痴を吐き出した。この言葉には、一緒にいた夕も未来も完全に同意。未来はランチクロスで空になった弁当箱を丁寧に包んでいた。
「学年末って範囲広いからやだよね。全教科テストあるし」
そうは言っても、学年でも成績の良い未来はどこか余裕がある。本当に危機感を覚えている咲音とは違う。
「英語も国語も社会も数学もわけわかんない。あんなの社会出てなんに使うのっていうね」
「そのセリフ、日本でテストが始まってから何万回も言われてるよ」
夕が意地悪な笑みを浮かべた。咲音はもう一度大きなため息を吐きだしながら、空気が抜けていく風船のように机に突っ伏していった。
二月にしては、少し暖かいのどかな昼時だった。
「そういえばさ。春ちゃん、結婚したみたいだよ」
未来がつぶやくように言うと、エサに群れる鯉のように咲音と夕が吸い寄せられた。
「昨日、職員室に行ったとき、春ちゃんの左手の薬指に指輪があったの見たの」
「まじで。ねえ、ちょっと美術室行って春ちゃんに聞いてみようよ」
「いや、そういうの聞くのは、まずいんじゃない。プライバシー的に」
夕がなんとなく止めはしたが、咲音も未来もちょっとしたハイになっている。未来が投下したガソリンで、咲音のゴシップエンジンがかかった。
「大丈夫でしょ。だって、指輪してるんだもん」
エンジンがかかった咲音は、すぐさま美術室にむかった。未来も早歩きで続く。夕も二人に遅れまいとついていったが、早歩きをした以上に、なぜか呼吸が乱れてきた。
美術室では春川先生が独りで次の授業の準備をしていた。咲音と未来が美術室に軽やかに入ったのとは裏腹に、夕は二人に隠れるように中に入った。
秘密のお茶会のときには感じなかった緊張が夕を襲う。たしかに春川先生の左手薬指に銀色のリングが鈍い光を放っていた。リングの光が夕の目を通じて体の中に入ってくると、夕の鼓動がさらに速まってきた。お腹の下の方から冷たい冷気が立ち上がる。
春川先生に結婚のことを聞く咲音の声の調子は明るい。春川先生は、「ああ、これ?」と言って、左手の薬指を見た。ほんの一瞬だったが、春川先生の表情が柔らかく崩れた。夕が会ったことのない春川玲の横顔がゆっくりうなずいた。
夕は、体の中から自分がすっと抜け出して、天井から今の光景を見下ろしているような気分になった。現実から離れた浮遊感。体だけで勝手に動いている夕も、誰かと結婚した春川先生もいつものように談笑していた。
一週間が四日間しかなくなったかのように、足早に日が過ぎていく。気がつくと学年末テストの当日だった。朝のホームルームが終わると、夕はカバンをもって、一人、会議室にむかった。
夕は読むことと書くことに学習障害があった。学校からテスト中の特別な配慮が認められて、クラスメイトとは少しだけ違う環境でテストを受けることになっていた。
会議室には副校長先生が待っていた。全てフリガナの入った数学のテストを受け取る。クラスメイトよりも十分長いテスト時間。一日三科目のテストで、クラスと下校時間が三十分ずれる。
テスト期間中、帰りはいつも一人だった。読むことと書くことが苦手。でも少しサポートがあればなんとでもなる。そんな自分をじっくり見つめることになるテスト期間。
夕の感情は、テスト期間中、いつもおとなしくなる。自分を見つめすぎないように、周りに見られすぎないように。
テストの最終日、最後の科目は音楽だった。夕のもっとも得意な科目。小さい時からピアノを習っていて、楽譜を見ると音が浮かび上がる。五線譜に描かれた模様は、どれもカラフルで、立体的に動いて見える。副校長先生が出ていった会議室で、夕がテストを待っていると、春川先生が入ってきた。
「春ちゃん」
「春川先生ね。テスト中でしょ。この時間は私が試験監督だから」
春川先生が裏返しにした問題用紙と回答用紙を配った。二人の間には沈黙だけ。軽く、温かく、それでもすぐにでも溶けてなくなって欲しいと思えるような沈黙だった。
「始めてください」の声で、夕が問題用紙をひっくり返す。問題用紙はいつものようにフリガナがふってあった。夕は前髪をいじるふりをしてそっと春川先生を見た。先生はちょうど時計を見ていて、目は合わなかった。少しほっとした。
音楽のテストには、譜面や音楽記号がたくさん書いてある。問題文を読まなくても、だいたい問題の予想はできた。夕が、そそくさと答えを書いていく。スムーズにシャーペンが動くたび、こんな問題なんでもないと、春川先生に伝わる気がした。
テストの最後、問題とは別に授業の感想を求める質問があった。夕は音楽の授業が好きだったから、書きたいことはいくらでもあった。それでも、6㎝×12㎝の長方形の書くスペースは、夕にとって使いかけの消しゴムよりも小さく感じた。夕の感じた楽しい気持ちは、いびつで、大きな文字になって外の世界に出ていった。
「先生、終わりました」
開始から四十五分経てば、早く提出していいことになっていた。夕はテスト用紙を春川先生に渡した。夕の目の前で、春川先生が夕の書いた名前と出席番号を読んでいる。夕は、春川先生を見ないようにして、シャーペンと消しゴムを筆箱にしまった。
「はい、いいよ。お疲れ様。じゃあ、帰ろう」
二人で会議室から出て、並んで廊下を歩いた。他の生徒は、ほんの少し前にすでに下校していた。夕と春川先生だけの静かな廊下だった。
「ねえ、春ちゃん」
夕が、階段の手前で振りむいた。春川先生と目が合った。夕の書いた答案用紙をしっかり胸に抱えている。
「結婚、おめでとう」
夕の言葉に一瞬、目を見開き、そしてすぐに幼い笑顔を作り、「ありがとう」と春川先生が返した。「またね」と片手を挙げて、夕が足早に階段を駆け下りた。