第八話:鈴川さん! 私の会社の取引先の方だった!
夏の暑さが少しずつ和らぎ始めた初秋の晴れた日だった。
今この状況は一体何なのだろう、とヒマワリは茹だった頭をフル回転させ、必死で考える。
重力で引っ張られる身体全体が、尾てい骨に添えられた腕によって支えられている。自身も体勢がずれないように、肩から首に両腕をぐるりと回す。
有り体に言えばおんぶされている。
ヒマワリももう高校生だ。おんぶをされているという状況が彼女にとっての通常でないことは、誰が考えてもわかることだろう。
そして勿論、ヒマワリにとっては自分がおぶさっている人物も非常に重要なファクターであった。
男性であるのだ。長身の。
同世代の男子と比較するのもおこがましいほどに、彼はスマートだった。見た目も、仕草も。
「あ……、あの。その家です」
「ここ?」
「はい」
自分の家が見えてきたことに気づいたため、ヒマワリは控えめな声を男にかけた。
その間も彼女の脳内では様々なことが渦巻いている。
汗臭くないだろうか。重くないだろうか。そういった自分が彼に与える印象について。
近所の人たちに見られないだろうか。笑われないだろうか。そういった、二人が周囲に与える印象について。
その他諸々。ヒマワリ自身にも整理しきれないほどに。
なぜ今このような状況になっているのか。
それは十数分前に遡る。
最寄り駅で電車を降り、自宅まで向かう途中のことであった。
その日は所属していた陸上部の練習が無かった。そのため、いつもよりも早い時間に、いつもの道を歩くこととなっていた。
ぼんやりと、帰ってからの予定を想像しながら足を動かしていると、ふと公園で遊ぶ小学生らの笑い声が聞こえた。
普段であれば、全く気にしない子どもたちの声。それに何と無く懐かしさを覚えたのだ。
男の子と女の子二人が、ブランコを漕いでいた。ヒマワリが見たのは、男の子が大きく孤を描くブランコからジャンプして飛び降りる瞬間だった。
――アタシも、昔こうやって遊んでたっけか。
とんと話すことのなくなった、隣に住む幼馴染を思い出す。
だからだろうか。ヒマワリは無意識のうちに、公園で遊ぶ二人に声をかけていた。
「何して遊んでるの?」
まだブランコに乗っていた女の子がブランコから降り、二人が顔を見合わせる。
突然話しかけられて驚いている様子だ。
もしくは、大人から「知らない人に声をかけられても答えちゃいけません」などと、言い含められていたのかも知れない。
「どうしたの?」
一向に返事を返さない子どもたちに、ヒマワリが歩み寄る。
子どもたちから見れば、ヒマワリは立派な不審者に他ならないのだが、そのようなこと露ほども思わずヒマワリが首をかしげる。
「……お姉ちゃんだれ?」
男の子が女の子をかばうようにして一歩前に出る。
立派な騎士っぷりに、ぷっ、とヒマワリが吹き出した。
膝を曲げ、腰をかがめて、ヒマワリが子どもたちに目線を合わせる。
「ごめんごめん、お姉ちゃんもね、君たちくらいの頃そうやって遊んでたんだ。ね、コツ、教えてあげよっか? もっともっと遠くへ飛べるよ?」
再度、子どもたちが顔を見合わせる。どうしようか、と相談するように。
元来せっかちなヒマワリには、その数秒の逡巡がどうにもまだるっこしく感じた。
「ま、教えるだけ教えるから。君たちは、ただ聞いて、それからお姉ちゃんの言う通りにするかどうか、考えればいいよ」
もう待ってられない、と言わんばかりに、ヒマワリはブランコに腰掛けた。「危ないから下がっててね~」と子どもたちに言い伝えるのを忘れずに。
(ん……。低いな)
まだ高校生で未成年とは言え、小学生と比べれば、ヒマワリだって立派な大人である。少なくとも身体つきに関しては。
ヒマワリの身長は、だいたい平均程度。小学生向けに作られた遊具が身体に合わないのは自明のことだった。
(ま、いっか!)
しかし、小さなことは気にせず、ヒマワリは強く強くブランコを漕ぎ始めた。
「見ててね~!」
五往復ほど漕ぐと、もう身体が真横になるほどまでブランコが大きく孤を描くようになった。
「ここ!」
そして、ヒマワリがジャンプしようとする。ブランコにしがみついていた腕を離し、慣性と遠心力に任せた。
ただ、彼女にとって誤算だったのは、いくらヒマワリが運動部だったと言え、小学生の頃の身の軽さにはどうあがいても敵わないということである。
つまるところ。
「う、う、うわわわわっ!」
盛大にバランスを崩し、落っこちた。
そして、当然小学生よりも体重の重い高校生の身体だ。
視線が上空から地面へ、映画の演出のようにスローモーションで移動していく。
持ち前の運動神経で、とっさに頭をかばったが、そのままヒマワリは地面へ強かに身体を打ち付けた。
ぐきっ、という音がヒマワリの身体の中を走る。
「お、お姉ちゃん! 大丈夫!?」
数秒ほどの沈黙の後、俯いて動かないヒマワリを心配した男の子が悲鳴のような声を出した。
ヒマワリは「大丈夫」と言って起き上がろうとする。
「っ……!?」
脚と腕に鈍痛が走った。
(……これ、まずいかも)
骨が折れたような気配はない。多分。
しかし、しばらく起き上がれる状態ではない。
「お、お姉ちゃんっ! 血がっ! た、たくさんっ!」
しかも、どうやら出血までしているらしい。身体を起こせず見ることができないが、恐らく右の膝からすねにかけて。
どろりとした感触が、脚の表面を伝っていく。大量出血ではないが、ちょっとしたかすり傷というほどでもない。
なんとか子どもたちを安心させようと、声を出そうとするが、痛みにうめき声しか出ない。
ヒマワリの様子に恐ろしくなった子どもたちは、わんわんと泣き出す始末だ。
(あー……調子乗った……)
痛みで真っ赤に染まった思考の中、どこか人ごとのようにヒマワリはそう思った。
子どもらの泣き声が、もはや狂ったようにさえ聞こえ始めた時、不意に男性の声がした。
「大丈夫か!?」
ごつごつとしてはいないが、それでも男らしさを感じさせる手と腕が、にゅっと伸びてきて、ヒマワリの身体を抱き起こした。
これがヒマワリと鈴川トウジの邂逅であった。
それから鈴川は、水道水で濡らしたハンカチで応急処置をし、子どもたちをなだめすかし、どうにも動けないヒマワリをおぶって送っていくことにした。
そして、現在に至る。
ヒマワリの家の門をくぐった鈴川は、インターホンを鳴らす。
しかし、誰も出る様子はない。
「あ……すみません。お母さんまだ仕事かも……」
「そうか。鍵、あるかい?」
「えー……と」
ヒマワリはごそごそと手探りで、スクールバッグのポケットを漁る。幸いにも鍵はすぐに出てきた。
「これです」
「ありがとう。ごめん、上がっても?」
「あ、大丈夫です」
鈴川はヒマワリをおぶったまま、器用に鍵を差し込み、玄関ドアを開けた。
「……骨には異常はなさそうだし、血も止まったみたいだね」
「あの……本当にありがとうございました。お手数をおかけして、すみませんでした」
リビングのソファーに座ったヒマワリの手当てを一通り済ませた鈴川はにこりと笑う。
「いや、君が公園で倒れていたときは、何事かと思ったけどね。軽症で良かった」
「本当にすみません……」
倒れていた理由は、ヒマワリ自身の名誉のために隠し通した。幸い鈴川も深くは突っ込まず、手当てを優先してくれた。
「良かった、じゃあ俺はこれで」
そう言って鈴川が秋野宅を出んと立ち上がったときだった。
「ただいまー」という声が聞こえた。ヒマワリの母親だった。
玄関のドアが自動的にがちゃりと閉まる音から数秒。バタバタバタと慌てたような足音を響かせてヒマワリの母がリビングに躍り込んだ。
「み、見慣れない靴あっ……たけ……ど……」
母のセリフが尻切れトンボになる。ヒマワリは母の慌てように、どう説明したものか、とっさに言葉がでなかった。
しかし、鈴川が素早く立ち上がり向き合って、深くお辞儀をした。
「お邪魔しております。私、鈴川トウジと申します。お母様ですよね? 先ほどそちらの彼女が公園で怪我をしていたところに出くわしまして……」
「……うえっ、あっ……」
数秒ほどフリーズしていた母親の思考回路が一気に動き始める。飲み込めていなかった情報が、頭の中になだれ込むように、すべてを理解した。
「う、ウチの娘が大変失礼いたしました!」
「いえ、手当てはすみましたので、私はこれでお邪魔させていただき――」
「いえっ! せ、せめて、お茶でも飲んでいってください!」
「いえ、そんな――」
「娘がお世話になった方をただで返すなんて、私の気が収まらないんです! どうか、どうか!」
この娘にしてこの母あり、といった感じであった。
そういった問答を繰り返し、最終的に鈴川が折れる形となった。
§
「コーヒーが入りました」
「すみません。なんだかごちそうになってしまって」
「いいんです。娘がお世話になりましたから。……ほら! アンタもちゃんとお礼言いなさいっ!」
鈴川相手にニコニコしていたヒマワリの母が、一転してヒマワリには般若のような形相を向ける。
「お、お母さん! うるさいっ! ちゃんと言った!」
「お礼なんて何回してもし足りないものなのっ!」
そんな、ヒマワリと母親のやりとりとキョトンと見ていた鈴川がやおら吹き出した。
二人が突然笑い出した鈴川に視線を向ける。
「い、いや、失礼。仲の良い親子だなぁ……と」
数秒ほどの沈黙。そして、ヒマワリは自身の母親と顔を見合わせる。
「もーっ! お母さんのせいで、鈴川さんに笑われちゃったじゃんっ!」
「ひ、ヒマワリのせいでしょっ!」
初対面の男をよそに、口論を繰り広げるヒマワリとその母。
絶え間ないやり取りを聞いて、更にくつくつと笑う鈴川。
そこに、また新たな闖入者がやってきた。
「ただいま……。え……と。どういう状況かしら?」
カジュアルなオフィススタイルのユリカが帰宅したのだった。
ユリカの姿を確認した鈴川が、笑い声をこらえて立ち上がる。
「ヒマワリちゃんのお姉様ですね? 私、鈴川トウジと申します」
「あ、あぁ。あの、ご丁寧にどうも……」
目を白黒させているユリカに、母がこれまでの経緯を説明する。
説明を聞いたユリカは、鈴川に向かって深々とお辞儀をした。
「妹が大変お世話になりました」
「いえ、大したことがなくて本当に良かったです」
「本当にご迷惑をおかけして、なんとお詫びすればよいか――」
「いえいえ」
このままだと謝りっぱなしになりそうなユリカを、鈴川が手で制す。
「では、秋野様、ヒマワリちゃん、お姉様。少し長居しすぎました。私はそろそろお暇させていただきます」
鈴川が既に出されたコーヒーを飲み干していることに、ヒマワリが気づく。
「この後も仕事がありますので。名残惜しくもありますが、楽しかったです。コーヒー、ご馳走様でした」
そして、鈴川は笑顔で会釈をして、そのままリビングを出ていこうとする。
(どうしよう。このまま終わりにしたくない)
そう思う。これがどのような感情なのかはわからない。
ただ、鈴川をこのまま帰したくない。それだけをヒマワリは思った。
「あ、あのっ! 鈴川さん!」
急に立ち上がったものだから、膝を刺すような痛みが襲い、ヒマワリがよろける。
「お……っと」
「あっ……ご、ごめんなさ――」
「大丈夫?」
結果、とっさに手を伸ばした鈴川に抱きかかえられる形となった。
ヒマワリは顔を真っ赤にする。
「しばらくは痛むだろうから、気を付けて。危ないから痛みが引くまでは座ってることだよ」
そう言って、鈴川がヒマワリをダイニングの椅子に座らせた。
「では、皆様。失礼いたします」
鈴川がそう言って、リビングを出ていく。
ユリカと、母がパタパタと見送りについていった。
(素敵な人だったなあ)
ほかでもない鈴川に釘を刺されたため、ヒマワリは椅子にすわりながらぼうっとする。
こんな感情は初めてかもしれない。
やがて、母と姉がリビングに戻り、ヒマワリに小言を言い始める。
しかし、それらの小言がヒマワリに本当の意味で届くことはなかった。
本来であれば、それで終いだった。ヒマワリもそう思っていた。
ちょっとした縁。再び交わることはないだろう。
何しろ自分は鈴川の住む場所も、勤める場所も知らないのだ。
数日後、帰宅したユリカがわずかに興奮した様子で母に報告するまでは。
「鈴川さん! 私の会社の取引先の方だった!」
ヒマワリは運命という言葉を思い浮かべた。その瞬間は。
しかし、その運命が自分のものではないことに気づくのは、そのおよそ三ヶ月後だった。
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