幸せの置かれる場所
翌日の夜。
ラチェスタに呼び出されたリュシュカは、クラングランと共に彼の執務室にいた。
「リュシュカ、ずっと貴方にお伝えするのを迷っていたことがあります」
「うん、何?」
そう返事をしながらも、うっすら予感していた。
それは、リュシュカ自身がずっと気にしながらも、爺ちゃんも、ラチェスタも容易に教えようとはしなかったことだ。
「貴方の、母親のことです」
「……うん」
「貴方が幼児期に起こした大事故での死者はいませんでした。ゾマドのものなのか、貴方のものかはわかりませんが、あの晩、周辺の住人は皆魔術で離れた場所へと飛ばされています」
母は、襲ってきた暴漢に殺されたわけでもなく、リュシュカが殺したわけでもない。
「生きているのかもしれないって……思っていた」
ラチェスタは静かに首を横に振る。
「残念ながら、貴方の母親であるアマリア・デュカは三年前に病死しています」
「そう……なんだ」
「亡くなった時はゾマドも存命中でしたので、彼も貴方に伝えるか、かなり迷ったところだと思います」
「……でも、言わなかったんだね」
爺ちゃんの遺書。母の記録に費やされた五枚ほど、その中で王の悪口は書きやすかったのか、筆が走って荒れていたのに、母に関する部分は比較的読みやすかった。あれは、丁寧に書いたというより、書くか躊躇う部分が多く、少しずつしか書けなかったんだろう。
「ええ。けれど、私はお伝えするのは今しかないと思いました」
「うん」
「彼女は貴方をゾマドに預けてから王の許可を得て出身のエルヴァスカ北方のカズラ地方に戻り、そこで新しく家族を持ち暮らしていました。数年はゾマドとも定期的に手紙を交わしていたようです」
「…………」
爺ちゃんやラチェスタが母に触れなかった理由。
死んでいたからではなくて、生きて、新しい生活をしていたから。
「当時の彼女と王の間には少なからず愛情関係はありましたが、それは彼女の感覚では普通とかけ離れていましたし、彼女は王家との関わりを疎んじておりました」
加えて、リュシュカは爺ちゃん以外の手に負えないような子だった。あんな事故まで起こしている。手放すよりなかったのかもしれない。挙げられる理由はどれも理解できなくはない。
けれど、リュシュカが彼女に捨てられたことには変わりない。
リュシュカはおかげで爺ちゃんと会えた。
でも、だからといって母に捨てられてよかったとは思えない。結果がどうであれ、感情的なものはまた別だ。
ラチェスタは黙って聞いていたクラングランのほうを向いて言う。
「この話をするのは、貴方がこちらに着いてからにしようと思ってました」
「ああ。そうしてくれてよかった」
言われて気づく。
リュシュカはさっきからクラングランの腕をかなり強く、ぎゅっと掴んでいた。
「そういうわけで……彼女と会うことはできませんが、墓参りは可能です」
リュシュカははっきりと答えた。
「まだ、無理だからいい」
もともと簡単に縫ってあっただけの傷口が赤く開いたような感覚だった。何年かして、それがきちんとした瘡蓋になる頃になら、墓参りにも行けるかもしれない。けれど、リュシュカがそれをできるようになったとしても、彼女の家族はそれを望まない気もした。
そうだ。
母は、いつの間にかリュシュカの家族ではなかったのだ。
ラチェスタの部屋を出ると、クラングランが心配そうな顔で覗き込んでくる。
「大丈夫。話を聞いただけで、今までと何も変わってないから」
リュシュカが知らなかっただけで、世界はずっと、何も変わっていない。ただ、知っただけなのだ。
「……本当に大丈夫なのか?」
「え?」
「隠したりしてないか?」
「……うん。旅していた時から……クラングランといると、不思議と大丈夫って思えること……多かった」
クラングランは会った時からずっと、リュシュカに安心感をくれる。
クラングランは、小さく目を見開いた。
「それに、わたしは、苦しくても、今までの何ひとつ変えたいとは思わない」
「……そうか」
リュシュカは小さく笑ってみせた。
***
そうして、互いの部屋に戻ってから十分ほど経ち、リュシュカはクラングランの部屋の扉を叩いていた。
広く、それなりの客人をもてなせる部屋。そういう部屋は数に限りがあるため、そこはリュシュカの部屋とはかなり離れている。もともと屋敷にはラチェスタとリュシュカ、ごく一部の使用人たちしか住んでいなかったが、クラングランの部屋はそのどれとも離れている。
「クラングラン、入ってもいい?」
「ああ」
「一緒に寝たい」
「……今日そんなことを言われたら、俺は断れないだろ」
「断られたら、泣くかなあ」
「なら、ここにいればいい」
「そうする」
リュシュカはへらりと笑って寝台に乗った。
ラチェスタは庇護者であり、責任者でもあったが、リュシュカが甘えていい対象ではなかった。この屋敷のほかの人間にしてもそうだ。親愛は持っているが、甘えることはできない。だから爆発してしまうこともあった。
リュシュカが甘えられるのは爺ちゃんを亡くしてからは、クラングランだけだった。それがなぜなのかはわからない。けれど、気持ちが通じ合うずっと前から、リュシュカは自分がそうすることを彼に許されていることに気づいていた。
「クラングラン、もうひとつお願い……ある」
「ああ」
リュシュカはクラングランの枕を掴んで顔を埋め、身を丸めた。
「……………………」
あまりに長い沈黙に、クラングランは寝台に片膝を乗せ、寝ていないか確かめるように、リュシュカが抱いた枕に手をかけて覗き込む。
「……俺の気のせいじゃなければ、何か言おうとしてなかったか?」
「ん……」
リュシュカは枕の端からクラングランを盗み見る。
銀糸の髪から覗く、強い光を宿す翡翠色の瞳。
簡素な寝衣の白いシャツからはみ出た腕にはいくつか小さな傷痕がある。彼の喉仏、鎖骨、唇と視線をふらふらと彷徨わせてからまた枕に隠れた。
「やっぱいい……無理……」
「無理かどうかは俺が聞いて決めることだ」
「えっと……その……言うのが無理」
「言ってくれ。俺が、叶えてやる」
「うん……わたし……」
その先がなかなか出てこない。
クラングランは急かすこともなく、じっと待つ。
泣きそうな掠れ声が出た。
「クラングランに……」
「ああ」
「…………抱かれたい」
口に出したあと、すぐに枕に顔を埋めてしまったので、彼がどんな顔をしていたのかはわからない。
「……べつに、それくらい構わない」
「……わ、わかってるの? あの、ぎゅってするやつじゃないんだよ……?」
「わかってるよ」
クラングランはリュシュカを隠している枕を取り除け、そっと体を倒した。
「わかってる」
クラングランはもう一度言うと、リュシュカの頰に伝った涙を舌で掬い取る。それは傷を負った獣の慰め方のように感じられた。
一瞬だけぴくりと震えて、ぎゅっと閉じた瞳を開けた。
どこかから落下する時はだいたいクラングランが下になっていることが多いので、覆い被さってるのは意外と見ない景色だった。
彼の顔をじっと見つめる。その瞳はすでに獰猛な光を帯びている。
この人に抱かれたい。もうずっと、そう思っていた。
それはリュシュカにとって、気持ちの面ではもはやいつでもよかったのだけれど。日々は忙しく、結婚が決まっているからこそ先に伸ばされていた。
けれど、丸裸になって彼に全部暴かれるなら、今夜がいい。リュシュカは強くそう思った。
リュシュカが初めて世界にひとりぼっちになった夜に呼んだ声。
おかあさん、どこ。
心のどこかで、何年経ってもずっと、その返事を待ち続けていた。
それに返事が返されることは永遠にない。そのことをはっきり知ってしまった。
けれど、悲しみはきっと、この先繰り返す日々の中でいつか、くすんだ色合いになっていくだろう。
お母さんのことも。爺ちゃんのことも。忘れたくなくても忘れていく。
リュシュカの選択によって、ラチェスタとも別れが決まっている。仲良くなって親愛を交わした相手だって、時がくればいなくなるし、リュシュカだってここからいなくなる。
人と人が人生で交わる瞬間は、越えてしまえばとても儚い。
だから今、クラングランともっと近づきたい。
全部重ねたいし、奪いたいし、奪われたい。
それは凶暴な愛で、強い悲しみだった。
まだ何もされていないのに、強い幸福感と興奮と緊張で息が荒かった。手足は満足に動かせそうにない。
「クラングラン……またお願いが……」
震えた小さな声で言うと、彼がリュシュカの口元に顔を寄せる。
「全部脱がして……」
「言われなくてもそうする」
クラングランは笑った。




