いってきます。ただいま。(2)
長旅を終えてエルヴァスカにあるラチェスタ邸に戻ってきた時、リュシュカはなんともいえない懐かしい安心感に包まれていた。
多くの使用人たちが馬車の到着を待ち構えてくれていた。メリナとテレサが嬉しそうに駆け寄ってくる。
「リュシュカ様〜おかえりなさいませ」
「おかえりなさいませ。お嬢様」
「うん、ただいま」
「聞いておりますよ! 家出したと思ったら結婚を決めて戻ってこられたとか!」
「おめでとうございます〜」
「えへへ、ありがとう……ラチェスタは?」
「まだ、外せないお仕事があるようで。夕方にはお戻りになられるそうです」
部屋で荷物を解いたリュシュカは湯を使った。
そうして、さっぱりした後に部屋で夕食の時間を待っていた。メリナがお茶を持ってきてくれる。
「ねー、メリナ」
「なんでしょう」
「あいつら、怒ってるかなあ……」
リュシュカは今回も護衛騎士たちを騙して脱走した。そのあとセシフィールに来た騎士たちも、皆王国騎士団の騎士たちだったので、ヨルイド、ミュラン、スノウの三人とは顔を合わせていない。
「あいつら……? ああ! 三騎士様たちなら、少なくともヨルイドさんとミュランさんはお元気そうにしてましたよ。特に旦那様からお小言をもらっていた気配もありませんでしたし……」
「うーん」
お小言をくらわなかったのはよいとして。
元気なのとリュシュカに怒ってないかはまた別だ。
説明にひとり足りてないのも気になる。
「気になるなら宿舎のほうに行ってみてはどうでしょう」
「う……ん」
気まずいし顔を合わせづらい。
しかし、きちんと謝りにいったほうがいいだろう。リュシュカはしばらくしたらまたセシフィールに行き、今度は帰らない。このままだとまた会えなくなり、喧嘩別れになってしまう。
だいぶ逡巡していたリュシュカだったが、結局宿舎に行くことにした。
「……行ってくる」
「大丈夫ですよ! 頑張ってください!」
「う、うん!」
メリナが笑顔で鼓舞してくれる。
その体を一度無意味に抱きしめてから部屋を出た。
使用人宿舎の近くまで行ったが、今日は建物の前に三人は溜まっていなかった。たまに外に仕事に行ってることもあるのでいないのかもしれない。
キョロキョロしていると、背後から何かがものすごい勢いでドドドと近寄ってくる気配に悲鳴を上げる。
「う、わああ! なんか来た!」
あまりにびっくりして、しゃがみ込んで頭を抱えて目をぎゅっとつぶる。
顔を上げると、ヨルイドとミュランがゲラゲラ笑っていた。
「び、びっくりした……」
「俺たちを撒いた仕返しだ!」
二人は驚いて目を丸くしているリュシュカを前にしばらく笑っていた。その顔を見ていたら、だんだん心が軽くなっていく。
「リュシュカ、おかえり!」
「おかえり〜」
「うん、ただいま」
リュシュカは座ったまま、二人を見上げて言う。
「あの……黙って勝手に出ていってごめんね……」
「あれでしょ? 夜会で会ったセシフィールの王子のとこ行ってたんだよね?」
「ラチェスタ様も追いかけていったし、帰るなり忙しそうにしていたしな。行った先で何か色々あったんだろう?」
「あった……いろいろ」
少しほっとしていると、宿舎からスノウが出てくるのが見えた。
「あ……」
小さく手を挙げたが、スノウはふいっとどこかに行ってしまった。
「あー……」
あれは相当怒っている。ヨルイドとミュランの顔を見る。
「あいつはずっとむくれてるんだよねえ」
「いや、友達同士なら、喧嘩なんてよくあることだ。ちゃんと謝れば大丈夫だ!」
不安そうな顔を見せたリュシュカに、ヨルイドがガシッと肩を掴んで揺さぶる。
「大丈夫! 大丈夫だ! 誠意を見せるんだ! 胸の中の熱い想いが伝わるまで! そうやって、絆というものは強くなったりもするんだ!」
「ひ、ひゃい」
ヨルイド、前と同じこと言ってる……。
ガタガタ揺らされ、こくこく頷く。
ミュランもヨルイドの後ろでどこか呑気な口調で言う。
「俺も……スノウは、ずっとぶっすたれてるけどさ、リュシュカが直接謝ればすぐに許すと思うよ」
「そ、そう?」
「そもそも護衛対象に逃げられるのなんて自分の腕の甘さなわけだし……そこはあいつもわかってるんだよ。ただ……ちょーっと気持ちが立て直せてないだけだからさ! 行ってやって!」
リュシュカは今度は二人に背中を押され、スノウの行った先を追いかけた。
彼は宿舎の裏で木人相手に鍛錬をしていた。
その動きはすばやく、華麗だ。リュシュカは一連の動きが終わるのを待って声をかけた。
「スノウ」
「…………」
スノウは振り返ってはくれない。
「スノウ……ごめんね」
あの時、ほかの二人は報告に行って留守だったが、スノウはリュシュカ自身が薬を盛って眠らせた。その隙に逃げ出したのだから、だいぶ悪いことをした自覚はある。
「ごめんなさい」
スノウはようやく振り返る。
ムスッとした顔をしていたけれど、リュシュカのしょげた様子を見て、俯きながら鼻の下を擦る。
「………………べつに俺は……」
「どうしても、行きたかったんだ。そのために、騙してしまって、ごめんなさい」
スノウは、はぁ、とため息を吐いた。
「結局……リュシュカに負けたんだよね」
「え?」
「俺の気持ちより、リュシュカの持ってる気持ちのほうが大きかったってことなんだよ」
「う、うん?」
よくわかんないんだけど……。
「仲直り……してくれるってこと?」
「ん」
スノウはまだ仏頂面だったけれど、それでも手を差し出してくれた。
「友情だあ!!」
どでかい声が聞こえて振り向くと建物の陰からヨルイドが大きな体を半分覗かせてうんうんと頷いていた。
***
エルヴァスカに戻ったリュシュカが毎日何をしていたかというと、以前と変わらない生活を送っていた。
走り、勉強して、鍛え、たまにメリナや三馬鹿とふざける日々だ。
その合間にも、結婚準備はつつがなく進んでいた。
リュシュカはまだ未成年であったので、ラチェスタの後見の元婚約を結び、結婚と同時に後見を外すことになった。
「大国から婚姻が申し込まれたという体はとれませんが、私個人から強引に捩じ込んだ形にすることで、婚約破棄におけるセシフィールの被害を少しでも抑えられるかもしれません」
というのがラチェスタの弁だ。
エルヴァスカの七人評議会のラチェスタからの申し込みが他国の王家と比べて、どれくらいのものなのかはよくわからない。
それでも、ラチェスタのような公平性を重んじる人間が、自らの国の大きさや立場を利用して圧力をかけるような真似をしてくれるというのは、とても稀なことなのではないかと感じる。
ただ、ラチェスタの権威がなくともリュシュカがエルヴァスカの王の子であることは揺るぎない。おまけに金目と黒髪が揃った落とし子は王のお気に入りであるとの噂まで一部に流れるようになっていた。
加えて、セシフィールの王城近くの山が欠けて形を変えたのは新しい妃候補が魔力でしでかしたことだというのもすっかり広まっていた。
リュシュカに関しては、ほかにもどこからか情報が漏れたのか、エルヴァスカの賢人ゾマドの最後の弟子であるだとか、片手で岩を粉砕できるムキムキの屈強な女性であるだとか、あることないこと囁かれていたため、周辺諸国からするとかなり不気味な存在となっている。シュトルブルクからも婚約破棄に対して表立って強く文句を言われることはないようだった。
そんな日々がひと月ほど続いたある日、廊下ですれ違ったラチェスタがなにげない調子で言う。
「ああ、そういえば第一王子の体がようやく空いたので、近日中にはこちらへと向かうとのことです」
「そうなんだ!」
部屋に戻ると中でメリナが寝台を整えていた。
「メリナ! メリナ!」
「あら、リュシュカ様、何かいいことでもあったんですか?」
リュシュカは満面の笑みで答える。
「うん、もうすぐ来てくれるって!」
「婚約者の方ですか? それは楽しみですね」
「うん」
「私もお会いできるの楽しみです」
「うん!」
メリナは取り替えたシーツを抱きしめながらはぁ、とうっとりとした息を吐く。
「リュシュカ様は……華麗に飛び出していったかと思ったら、好きな人との結婚もぎとって帰ってこられて……さすがです! 格好いいです! 羨ましいです!」
「い、いや、向こう婚約者いたし、何回か振られたんだけど……最終的には泣き落とした。わたしはだいぶみっともなかったよ」
よく考えたらクラングランの父親みたいなことをしているなと思う。
「え、婚約者が……いらっしゃったんですか」
「うん。しかも本人が決めたやつ」
「……それは……すごいことです」
メリナは、寝台にぽすんと座った。
「まだ、ここに来る前のことなんですが……私、一瞬だけ恋人がいたんです」
「え、えぇっ」
しかし、よく考えたらメリナは可愛いし、本人曰く惚れっぽいらしい。その条件でいないほうがおかしい気もする。
「家格は同等で、私はすっかりその気になって、親になんとか婚約の打診をしてもらおうとしたら……彼には既に別の婚約者がいたんです」
「二股されてたってこと?」
「いえ、今思えば……その婚約は本人の意思かはわからなかったんです。でも、私はそれを聞いた瞬間に……急に冷めてしまって……確認することも、相手の真意を聞こうともしなかったんです」
リュシュカは、彼女の隣に腰掛ける。
「私はきっと、彼が好きだったんじゃなくて、自分のことを好きな人がほしかっただけなんだって、その時気づきました」
「うん……」
「それから、素敵だなぁと思う人はたくさんいても……ちゃんとした恋をするのには慎重になってます。それに好きな人がいても、たぶん、結婚相手は結局親が決めてしまうだろうって、諦めているところもあって……」
メリナは小さく息を吐いてから、リュシュカを見た。
「だから、本当の好きな人を見つけて、結婚までもぎとってきたリュシュカ様は、本当に本当に格好いいです!」
「……ありがと」
「私は、リュシュカ様と会って……自分にはできないことを体当たりでやってしまうあなたが……眩しくて、そういうのを見ていると、自分が当たり前に諦めていることにもまだ可能性があるんじゃないかって、思えて……」
メリナはたどたどしくも懸命に言う。
「うまく言えないんですけど……私、リュシュカ様に会えたことが……すごく嬉しいんです。それで、婚約を結ばれてきたことも、本当にすごく嬉しくて……」
メリナが真剣に言葉を探しながら心から言ってくれている。それが伝わってくるから、胸が温かくなる。
「ありがとう……」
メリナは薄く涙の張った目を擦ると、おもむろにリュシュカの腕を掴んで聞く。
「…………で、リュシュカ様、したんですか?」
「え?」
「キ、キッスは……されたんですか!!」
メリナは真顔だった。
それ、聞く必要ある!? しかし、メリナの目は既に力強い光を帯びている。
「メリナ、なんなの、その情熱はどこから……」
「リュシュカ様、答えてください!」
「えっ、ええっ?」
「したんですか! しなかったんですか!」
「……し、しました! 何度かしましたごめんなさい!」
「どうだったんですか?」
「……き、きもちかったです」
リュシュカは顔を両手で覆って答える。
メリナはふんすと息を吐いた。
満足したように頷き「そう、それです」と決め顔で言う。それから自分も両手に顔を埋めて照れ出した。この子は一体何者なんだ……。
もうすぐ、会える。
それから数日。リュシュカはそわそわしながら過ごした。




