ゆらりとした炎(6)
リュシュカの涙がぴたりと止まった。
風が吹いて濡れた頬をひんやりと撫ぜていく。
しばらく、呆然としていた。
今、あり得ない言葉を聞いた気がした。もしかしたら幻聴だったかもしれない。だってついさっき聞いたはずなのに、もう夢で見た記憶みたいになっている。
クラングランは「よし、泣き止んだな」と言って満足そうに頷いている。もしかして泣き止ませるために騙したんだろうか?
「クラングラン……」
「なんだ?」
不安になってクラングランの顔を覗き込むと、美しい笑顔を向けられ、思わず見惚れて口をつぐむ。
クラングランの表情は、強さと、優しさと、不器用さと、信念と、小さな脆さと、そんな複数の色合いがいつもきらきら混じり合っている。彼の格好よさは、その全部を内包した、彼だけが持つ特異な美しさだ。
クラングランは服も一部破れていたし、濡れた土を転げて泥だらけだったし、腕はたくさんの枝が引っかかってついた小さな傷だらけだった。
それなのに、彼には滲む力強さがあって、だからこそ、格好良く感じられる。
さっき、結婚してくれるって言ってた気がする……。
やはり見惚れてないでもう一度確認しておいたほうがいい。
「クラングラン、あの……さっき……」
いや、でも……確認して本当に夢だったらと思うと、もう少しこの夢を長く見ていたい気もする。
口を小さくパクパクしていると、クラングランがリュシュカの顔にそっと手を伸ばしてきた。
思わずビクッと揺れる。クラングランはリュシュカの頭に付いていた小さな葉っぱを取って捨てた。
くっ、この程度のことで激しい動揺をしてしまった。
早急に確認しなくては。
いや、さっき聞いたもん。大丈夫だ。確認するだけだから。リュシュカは気を取り直し、再び口を半開きにした。
ううん、もしまた振られたら、嫌だなぁ。
リュシュカはそんな恐怖心から、開けた口をまた閉じて俯く。
いや、ちゃんと聞こう。わざわざ嘘は言わないだろうし、リュシュカが幻聴を聞いた可能性も低い。
「クラングラン……」
「ん?」
じっとその顔を見て、さっき言ったのが本当か、今度こそ聞こうとする。
「う……大好き」
うっかり予定と違う言葉が溢れた。
胸がズキュンズキュン痛くて、痛みを散らすために発してしまった。
クラングランはまた、リュシュカに手を伸ばす。
また、髪についた葉でも退けるのかと委ねていると、その手はそっと頬を捕まえた。耳と頬をなぞる指にぴくっと震える。
「……っ、クラングラン……聞きたいことが……」
「それ、あとでもいいか?」
「え? なんで?!」
クラングランがリュシュカにそっと顔を寄せようとした。
「いました! お二人とも無事です!」
そんな声がしてそちらを見る。少し離れた場所から複数の足音が近づいてくる気配があった。
リュシュカのよく知る人がその中央にいた。
「麓でエルヴァスカの不審な人間を数名、少し上でイオラス殿下を確保したとの報告がありました。あの方の始末に関しましては、こちらに一任させていただければ幸いです」
リュシュカは勢いよく立ち上がってそちらに向かって叫ぶ。
「ラチェスタ! 本当に生きてた!」
「…………生きてます」
「イオラスが……殺したって」
「私があんなのに殺られていたなんて……初耳です」
ハッとして急いで耳を見た。耳がふたつ、きちんとあった。けれど、そこにイヤリングはついていない。
「ラチェスタ……イヤリングは?」
「ああ、国を出る前に誰かに盗まれたんです。高価ですし、記念のものではありますが、物は物でしかないので、諦めました」
「そ……そうなの? ラチェスタのイヤリングのついた千切れた耳投げられて……わたし、ぷつんていったんだけど」
市街で会った時にはもう着けてなかったわけか。
ちゃんと気づいてれば騙されることもなかったのに。
ラチェスタは軽く目を見開き、一瞬ぽかんとしたが、すぐに呆れた息を吐く。
「……誰の耳かわかりませんが、適当な死体を千切ってつけたんでしょうね。私が死んだことにして貴方の気力を削いで懐柔しようとしたんでしょう……あの方のやりそうなことです」
「よかったあぁ! ラチェスタァア!」
リュシュカはラチェスタに飛びついておいおい泣いた。
「うう、ほんとに……い、生きててよかった。今まで我儘言ってごめんなさいぃ……ありがとう……脱走してごめん、棚壊してごめん……ありがとう」
ラチェスタはリュシュカの背をぽん、と優しく叩いた。
「リュシュカ、私はこれから今回の後始末をしますが、貴方はゴタゴタが静まるまで、まだしばらくどこかに隠れていてください」
「どこかにって言われても……」
「どこでもいいですよ。そこにいる通りすがりの人の家にでもおいてもらってはどうです?」
リュシュカはそこにいる通りすがりの人、クラングランの顔を見た。
「もちろん通りすがりの、この件に無関係な人に無理は言えませんので、難しければ別の安全な場所を確保しますが」
「……構わない」
クラングランはそう言って、ラチェスタにしがみついていたリュシュカを引き離して自分のほうに引き寄せた。
「エルヴァスカの王国騎士団が追加で向かってますので、エルヴァスカの揉め事としてご一任いただけますか」
「そうしてくれると助かる。実際、勝手に関与したのはこちらだしな。血の気の多い大国相手に揉めてもこちらにいいことはない」
「では、後のことはお任せください」
「……あんたも大変だな」
「ええ、私としてはもう早いところ、こういった王家のやっかいごとからは解放してやりたいんですがね」
クラングランは少し黙った。
それからラチェスタのほうをまっすぐに見て言う。
「確認しておく……別の国のごたごたになら巻き込んでもいいんだな?」
「何に巻き込まれようが、そこに彼女の意思さえあれば……それは自由です。そうは思いませんか?」
リュシュカは猛烈な眠気に襲われていた。
近くで二人が何かしゃべっているのはわかっていたが、音が聞こえていてもところどころ言葉に変換できない。
「眠い……」
黒いカーテンが強制的に引かれていくように、意識が遠くなっていく。
これは、耐えられない眠さ。
リュシュカが静かにとさりと倒れたのに気づいた二人が顔をこちらに向ける。
「大量の魔力放出をしたから体に負担が出たんですね。ひとまず休ませてやってください」
「言われなくてもそうする」
「おやすみなさい。リュシュカ」
ラチェスタのその声を合図にしたように、リュシュカは深い眠りに落ちた。




