ゆらりとした炎(5)
「リュシュカ!」
クラングランが走り、勢いよく跳び寄ってリュシュカの手を取った。けれど、彼の足下も崩れ、結局一緒になって落ちていく。
クラングランがリュシュカを抱えるように抱き寄せる。
こんなこと、前もあった。
というか、つい最近もあった。
こんなこと、クラングランとだと、よくある。
リュシュカはうまく働かない頭でそんなことを最初に思う。
砕けた地面と共に浮遊して、あっという間に夜の空に囲まれる。
──あの山で夜に寝転んでいると、周りが星しかなくて、海のようだった。
クラングランの言った通りだ。海の底みたいだ。
綺麗とか、もうそんなんじゃなくて、すごく大きなものに呑まれて、自分が小さくて、壮大な夜の中に溶けている。
……でも、この高さは、さすがに死ぬんじゃないの?
下を確認すると、建物が豆粒くらいの大きさだった。うん、これは、いくらクラングランが人外でもちゃんと死ぬ高さ。
危機感を感じてクラングランにぎゅっと抱きつく。一瞬だけ魔力が発現した。空中でぴたりと止まったが、すぐに途切れてまた落ちる。
待った! 待った待った! もう一回!
夜空に向かって片手を突き出す。
止まれ! 止まれ!
今度は止まらなかった。
代わりに近くの木が爆発した。
「な、何やってんだ!」
「だから、上手く使えないって言ったじゃん!」
そもそも、もう魔力がカスカスな気がする……。
リュシュカはクラングランに固く抱かれたまま、海みたいな夜を落下していく。
「わぁ、一緒に死ねるね……」
「ば、馬鹿! 諦めるな!」
クラングランは一緒に落下していた地面の破片を蹴り、山肌のほうへ方向を変える。
長く伸びた枝に片手を伸ばしぶらさがったが、それはあえなくボキリと折れて、また落ちる。
いくつかの細い木の枝にぶら下がって折りながら、少しずつ速度を削り落ちていく。
クラングランが諦めてない。
リュシュカももう一度、魔術を発動しようとした。
近くにある木が爆ぜた。バチバチバチ、とものすごい音がして折れて落ちていく。
クラングランは真下に来たその木の枝に足を乗せた。枝を何本もバキバキ折りながら落下する。
もう一回だ。
リュシュカは魔術を使う。今度はなんとか数秒止まった。
けれど、魔力はもう底をつきかけている。
ところどころ、ぐわん、と勢いよく落ちて、ふらつきながらまた止まる。それを繰り返して落ちていく。
クラングランはずっと、リュシュカの体を痛いくらいにしっかりと抱えていた。
今が一番失敗が許されない。
それなのに、魔力はもうほとんど体の中にない感覚だった。
やばい。頭がぼんやりしてきた。血管切れそう……。
でも、自分が今気を失ったら、クラングランも死ぬかもしれない。リュシュカはその想いだけで、片手を前に出し続けた。
あ、もう無理。
リュシュカの意識が一瞬途切れ、ぎゅん、と落下速度が上がった。
また、クラングランが近くの枝に掴まり、一瞬だけ落下が止まる。その衝撃で意識が戻った。その瞬間、枝が折れてまた落下が始まる。
下を見る。まだ死ぬ。まだぜんぜん死ぬ高さ。
もうちょっと。もうちょっとだけ。頼む。
何に祈ってるのかもわからないままリュシュカは再び片手を伸ばす。もう落下を止められるほどの力は出なかった。けれど、魔力は落下速度を緩めていて、低速で落ちていく。
やがて、クラングランが下になり、なだらかな傾斜のある土にどすんと着地する。そこからしばらく、雨で湿った土をごろごろと転げた。
ようやく落下が終わった。リュシュカは今頃になって襲ってきた恐怖に荒い息を吐いていた。
重なった二人の体はじっとりと汗ばんでいる。
さすがに絶対死んだと思った。
もう落ちてない。リュシュカは当たり前のことを噛み締めて上体を起こした。
リュシュカの下にいるクラングランは、呆れたことにちょっと笑っていた。
「何をしてるんだ。お前は高いところから落ちるのが好きなのか?」
リュシュカは気の抜けた口調で言うクラングランの胸ぐらを掴む。
「……な、何してんだはこっちの台詞だよ! クラングラン! 下手したら死んでたよ!」
「お前が死ぬとこだったからだろ」
「わたしには背負うものが何もないけど、クラングランが死ぬと国が大変なことになるんだよ! なんで無理に助けようとすんの!」
クラングランは驚いた顔をした。
リュシュカの体を支えたまま、目を見開き言い放つ。
「俺が……お前を助けないはずないだろ!」
駄目だった。
もともと限界だったのだ。
リュシュカの金色の瞳から涙がこぼれ、クラングランの頬にぱたりと落ちた。慌てて両手で覆い隠そうとしたけれど、隙間からどんどん溢れてくる。
周りを埋める雨と同じくらいの粒がまた、ぱたぱたとリュシュカの瞳から落ちていく。
「なんで泣くんだ……」
「……っ、苦しい」
「……何が苦しいのか、聞かせてほしい」
何がこんなに苦しいんだろう。胸の奥を絞ってくる感情の正体は、ついさっき感じた恐怖だとか、魔術を使った興奮や疲れ、いろんなものが混ざり合って混沌としている。
「うう……ぐちゃぐちゃで、よくわからない……」
けれど、心の奥のほうには確実に、震えるほど冷たい悲しみの塊があった。苦しくて悲しくて、不甲斐ないのだと、体の中で泣き叫んで暴れている。
「全部言えばいい」
リュシュカは涙を腕で拭う。けれど、すぐに湧いてくるから、あまり意味はなかった。
「み、みんなは、わたし以外に大切な人がいるから……わたしだけいつもひとりで……苦しい」
「ああ……」
「爺ちゃんが、い、いないのが……苦しい」
「うん」
「誰かに利用されそうになるのに、誰にも必要とされないのが苦しい」
「ああ」
「……助けたいのに、いつも自分にきちんと助ける力もないのも……苦しい」
涙は止まらない。リュシュカはそれを隠すのを諦めた。
「……クラングランのために、生きられないのが苦しい」
ぱた、ぱた、ととめどなく涙が落ちる。
リュシュカはずっと、静かに啜り泣く。
雨音の合間に、泣き声が入り込む。
クラングランがゆっくりと手を伸ばして、リュシュカの涙を拭った。それでも、いつまで経っても止まらない。クラングランの指先はどんどんびちゃびちゃになっていく。
「……そろそろ泣き止まないか?」
「ま、まだ……むり……だって、苦しくて……」
どこから湧いてくるのか、涙はとめどない。
「…………わかった」
クラングランがむくりと上体を起こす。
「わかったって……何が?」
彼はべちゃべちゃの指先で性懲りもなくリュシュカの涙を拭おうとしたが、意味がないことに気づき、胸に抱き寄せた。
「俺はお前と結婚する」
「え?」
リュシュカはぱっと顔を上げる。
視線がまっすぐにぶつかった。
クラングランは今度はもう少し大きな声で、はっきりと言う。
「リュシュカ、俺のために生きろ」




