婚約者(2)
アンリエッタは現在十五歳の、クラングランの妹らしい。
以前に聞いていた通りクラングランとはさほど似てない。けれど、おっとりとした愛らしい顔立ちには彼と同じ翡翠色の瞳がついていた。
アンリエッタは愛らしい顔を歪めて、不機嫌な顔で言う。
「そもそも政略結婚なんてわたくしは断固として反対なんです!」
「え、でも、王族ってそういうもんなんじゃないの?」
「まぁ! 誰がそんなことをおっしゃいましたの?!」
いや、あなたのお兄様だけど……とりあえず口には出さなかった。
「それがほとんどの王家の常識であったとしても、わが王家に限ってはそんなことはございません! お父様だって、先に婚姻を結んで逃げようとなさったお母様の縁談を権力で何ヶ所もことごとく潰してまわって、そのあとも何年も追いかけて、最後は泣き落として妃になさったんですのよ!」
「へえぇ……なんかキャラ濃そうだね」
リュシュカの知ってる王族の婚姻とだいぶ雰囲気が違う。
興奮している姫君とは対照的に、マルセルはやれやれと言った感じに返す。
「そんなことをおっしゃって、アンリエッタ様……大好きなお兄様を取られるのが嫌なだけでしょう」
「違いますわ! そのような幼稚な執着心ではなくて……わたくしはお兄様にちゃんと幸せになっていただきたいのです!」
「それじゃあまるで、このままだと王子が幸せになれないみたいじゃないですか」
「ええ、そうですわ!」
「……それは、わたしも思った」
「え?」
「なんだか……クラングラン、すごく空虚だ」
「そうなんですの! わかってくださいますのね!」
アンリエッタがリュシュカの手をガシッと握ってきた。
婚約者の姫といる時、クラングランは見たことのない顔をしていた。
もしかしたらあのお姫様はいい子なのかもしれない。けれどそれでも、クラングランは素ではなかった。
見ていて悲しくなるくらいに貼り付けた表情だった。
もっと幸せそうにして、ズタズタに打ちのめしてくれれば、リュシュカだって納得できたのに。
あんな嘘くさい笑顔、ぜんぜんクラングランじゃない。
「いやいや、あんなもんですって。恋する男は好きな女性の前では気取るものじゃございやせんかねえ〜」
「マルセル、あなたは少し黙っててくださる?」
余計なことを言ったマルセルは、リュシュカとアンリエッタの両方に恐ろしい目で睨まれた。
「……あなたは……」
アンリエッタはそこで初めてリュシュカの姿を正面から見た。そうして、その瞳の色、髪の色を見て数秒固まる。
「……お、お名前をお伺いしてもよろしいかしら」
「リュシュカ」
「あの、あなたは…………」
アンリエッタは何か質問をしかけたようだが、結局途中で呑み込んだ。
「いえ、それは今はよしましょう。リュシュカ、兄はこのままでは幸せにはなれないと……あなたもそう思いますのね……」
「うん……思った」
アンリエッタは俯き、自分の両手の指を絡め弄ぶ。長い髪がふわりと頬に影を落とした。
「わたくしの婚約者は……昔から大好きな方です……」
アンリエッタはぽつりとこぼす。
「こんな小さな国で、わざわざ政略結婚など企てることはないと、兄が父に進言して一昨年に決められたものですわ」
「へぇ、よかったね」
「……でも、わたくしを使った政略結婚の話は、兄ならばいくらでも用意できたはずなんです」
そうだろうと、思う。
──あんな小さな国で、政略結婚なんて俺だけすれば十分だからな。
いつだったか、クラングランが言っていた言葉が頭を過った。
アンリエッタは唇を震わせて言う。
「わたくしの言い分が子供じみているのは理解しております。でも、兄は……義務や責任だけを勝手にひとりで全部抱え込んで、それですまそうとしているんです。わたくしはそんなの…………許せません」
「いやいや、あれだけ美しい姫ですよ? 義務や責任だけではありませんって! むしろ役得じゃあございやせんかねぇ!」
マルセルはなおも食い下がる。アンリエッタは白い目でため息を吐いた。
「マルセル……あなたは国に降って湧いた好条件の良縁に浮かれて、頭の上が完全にお花畑になっておりますわよ!」
「ヒャウッ!?」
アンリエッタの辛辣な言葉にマルセルが焦った顔でぱっと自らの頭を押さえた。
「あの婚約者の方のことならわたくし、調べましたわ。大人しそうなお顔で……ずいぶんと浮き名が多く、恋多き方のようですわね」
「そそそうなんですか?」
マルセルは頭に咲いているお花を押さえるような格好で驚いている。
「今は結婚前なのをいいことに国では遊び歩いてらっしゃるようですし……浪費癖も激しくて、国では持て余されている姫だそうですわよ!」
アンリエッタは悔しそうな顔で、それから、ぽつりとこぼす。
「……まぁ、お兄様はそんなこと、とうにご存知でしょうし……まったく気になさらないでしょうけど……」
そうかもしれない。国同士の政略的なものさえきちんと果たされれば、クラングランはきっと何も気にしない。
「あの婚約者様はそんな方ですし、お兄様は相変わらず、ずっと政略のことしか考えておられません。訪問時と初回と今日、たった三回、ほんの数時間会っただけのあんな薄っぺらい関係の二人の何が真実の愛ですか! わたくしは……絶対に納得いきません!」
しんとしていると、城内からアンリエッタを探す声が聞こえてきた。
「アンリエッタ様、そろそろお戻りになられては」
マルセルに連れられて、アンリエッタは中へ戻っていく。
ひとり、露台に残されたリュシュカは寝転び、空を見つめた。
アンリエッタ同様、リュシュカもショックを受けていた。
出会った頃のクラングランはもっと“生きて“いた。
いつも“国のため“、自らの“責任“を連呼しながらも結局は自分の中の小さな正義とぶつかることでそこにおもねきれない弱さと青さ。
優しさをわざわざ隠そうとする面倒さ。口を開ければ無神経なことばかり言う。けれど、肝心なところでは決して馬鹿にしてこない。人との行動が嫌いだというのに結局放っておけなくてすぐに世話を焼く。
リュシュカはそんな矛盾ばかりの不完全な彼が好きだった。
けれど今日見た彼は、体の奥深くに心を沈めてしまっていた。それでいて、以前はなかった妙な落ち着きと安定感は新たに得ている。
クラングランは国のために、この先もずっと、あんなふうに生きるのだと、すっかりそれを決めてしまっているように感じられた。
けれど、それはクラングランの戦果を聞いていた時から予感していたことだった。まだ間に合うと思って来たけれど、今日のあれを見て確信した。彼はきっと、リュシュカが来る少し前にはもう、変わることを決めてしまっていたのだ。
それでも、今いるクラングランはリュシュカの知る面影をまだ宿している。
しまい込んだあの頃の彼を引っ張り出してきて、接しようとしてくれている。
それは、こうやって会えるのはこれが最後だと知っているからだ。
旅の終わりの別れは挨拶もできなかった。
短い夜会の時間の再会でも割り切れなかった。
十三日間。
彼はここにいるといいと言った。
それは あの時の旅と同じ時間だ。
クラングランはきっと、リュシュカに決別の時間を与えようとしてくれているのだ。




