指令
──クラングランは「よく来たな」と言った。
突然の訪問はクラングランに嫌がられたわけでもない。怒られもしなかった。
城の二階の、彼の執務室にほど近い場所に部屋も用意してもらえた。
「俺はしばらく多忙だからあまり構えないが、ゆっくりしていくといい」
「……うん」
「後見人には黙って来たんだろう」
「うん」
「だろうと思ったよ」
部屋で荷物を開けているリュシュカの傍でクラングランが言う。
「……そうだ。言ってなかったが、クシャドが来ているぞ」
「ああ、うん、もう会ったよ」
「そうか。会えたか」
「城に忍び込むなら研究棟から行くといいって、入れてくれた。あれ、老人ばっかだから見つかっても撒きやすいってことだったんだね」
「……なるほど、それでか」
「なっ、なんですと!」
扉の前に控えていた従者のマルセルが目を三角にしてキィと憤慨したが、クラングランはくくっと笑った。
会話もしてもらえている。笑ってもくれる。
それなのに、さっきからどんどん寂しくなる。
きっとクラングランが、リュシュカに対してどこか心を閉ざしている気がするからだ。
しかもそれは、リュシュカからの追及をさせない程度の、ともすれば気のせいかと思ってしまう程度の違和感でしかない。狡い距離の取り方だ。
夜会の時にほんのわずか空気に紛れてあった距離感は、もう少し大きな溝へと広がっている気がした。
リュシュカは気を取り直す。
いや、こちらが勝手に暗くなって必要以上に距離を感じているだけの可能性もある。
クラングランは王子だ。今だって当たり前だけど旅をしていた時のような格好はしていない。エルヴァスカの王子たちに比べるとラフではあるが、ちょっとだけひらひらした白いシャツは、彼の顔にはよく似合っていた。
こうしていると旅の時の距離感をそのまま思い出すのは難しい。久しぶりに会うんだし、お互い距離感が一致しなくてもおかしくない。気のせいかもしれない。気のせいであってほしい。
「うーん」
唸りながら寝台にぼふんと仰向けに倒れた時に、クラングランがふっと懐かしいような目をして笑った。
それで、一気に思い出す。目の前にいるのは知らない国の王子ではなくて、やっぱりクラングランだ。これは友達。
「……クラングラン、明日遊べる?」
「あ、あそ……?」
マルセルが扉のところで素っ頓狂な声を上げる。
クラングランは間髪入れずに答える。
「忙しいと言ったろ。明日は無理だ」
「…………そうだよね」
リュシュカはしゅんとする。やっぱ王子だった。
友達といっても市井の幼馴染みとは訳が違う。
クラングランはしばらく黙っていたが、平然とした顔で言う。
「…………明後日の午後からなら時間を作る」
「王子……明後日は……!」
マルセルが口を挟んでくる。やはり、仕事があったらしい。
「明後日の公務は頼れる家臣がたくさんいるから大丈夫だ。な、マルセル」
そう言われたマルセルが目に見えてしょぼくれたが、リュシュカの顔はぱっと明るくなった。
「わかった! じゃあ明日は勝手に市街見てる!」
「あまり大騒ぎするなよ」
「明後日、夜はクシャドもご飯一緒に食べれる?」
「ああ、誘いにいこう」
「楽しみだなあ」
「じゃあ、俺は仕事に戻るからな」
クラングランが出ていこうとするその背中に声をかけた。
「クラングラン、どれくらい……ここにいていい?」
クラングランは口元に手をやり思案する。
「そうだな……わざわざ遠くから来ているし、十三日くらいはいたらどうだ?」
「うん。わかった。そうする」
ラチェスタも帰る日がわかっていればそこまで躍起になって戻れとは言わないかもしれないから、伝えておいたほうがいいだろう。
***
【リュシュカです。
まだセシフィールにいます。十二日後に帰り始めます。元気です】
翌朝リュシュカは市街に出て、そんな手紙をラチェスタに送る。そのまま城下街をあてどもなく歩いていた。
天気が良くて、花が綺麗で、空には鳥が飛んでいる。街はのんびりとした空気に満ちている。
「いい国だなあ……」
石畳の道を過ぎて土の空き地に出ると、端で小さな少年が棒を持って樹をめった打ちしていた。
少年は血走った目で「うおぅおう」と叫びながらこれでもかと樹を打っている。それから小さくジャンプしてどこかから着地するような格好で決めた。
「何やってるの?」
汗だくの少年がリュシュカを振り返る。
「えー、クラングラン王子!」
あいつはいったい何をやったんだ……。
「クラングラン王子、好きなの?」
「うん! 格好いいから! お姉ちゃんは?」
「わたしも大好きだよ」
少年は「同じだね!」と言って笑う。
リュシュカも「そうだね」と言って笑った。
「あ、でもねぇ……この樹は鳥の巣があるから、これ以上棒で叩くのはやめたほうがいいかも」
「え、どこどこ?」
「あれあれ」
少年もせいいっぱい首を伸ばし、葉の陰にリュシュカのいう鳥の巣を見つけて小さな歓声を上げた。
「可愛いね! これ、妹にも教えたい!」
「うん、教えてあげるといい」
少年は走って家に帰っていった。
リュシュカは手を振って笑顔で見送る。
「可愛いなあ」
「そうですね」
「…………ん?」
笑顔のまま振り返ると信じられない顔がそこにあった。
「ラ……ラチェスタ……大先生……? このようなおところで一体何を?」
リュシュカの顔面から笑顔がさあっと抜け、青ざめていく。一方のラチェスタはいい笑顔だった。
「実は私も所用あって、貴方が私の屋敷を出た三日ほど後には辺境に向かっていたんですよ。ですから、いなくなった知らせを受けてから、私もすぐに馬でここに向かいました」
「すぐって、まだどこにいるか連絡してなかったのに?」
「貴方が辺境を出て向かう先はほかにないでしょう」
「所用っていうのは?」
「私がここに来たのは貴方の件がひとつと……別件とも言い難いですがもう一件あります。ですが、ひとつは貴方に一任して、私はもう一件のほうに注力しようかと思っています」
「えっ、ちょっと待って。わたしがやるって……そんなことできるの?」
「ええ、こちらは貴方がやるべき案件です」
ラチェスタは強い瞳でこちらを見て重々しく言う。
「リュシュカ、これから貴方にひとつ指令を下します」
「な、なに。こわい」
リュシュカは耳を塞いだ。
ラチェスタが無言でその手をべりっと外してくる。
ラチェスタの指令はこうだった。
セシフィールの第一王子、クラングラン・ファデル・アントワープに、リュシュカとの結婚を承諾させること。
リュシュカは数秒目をぱちぱちさせた。
「…………えええっ、いいの?」
「……貴方のこの先の処遇についてはずっと考えていました。けれど、いくら考えても納得のいくものがありませんでした。私はあくまで後見人であり、親代わりではありませんので、貴方の成人まで、できる限り面倒を見ればそれで終わりとの見方もできましたが……」
「う、うん……」
「それは、私に貴方を任せたゾマドが望んでいたことだろうか、と」
ラチェスタは結構悩んでくれたみたいだ。
「結局、ゾマドならばこの道を選んだだろうというものを、選ぶことにしました」
「ラチェスタ……ありがとう」
「いえ、礼にはおよびません。これは貴方が切り開くべき道ですから。私にできることはそうありません」
「え?」
「私にできるのは許可を与えるところまでです。貴方は王の血はひいておりますが、現在は私の管理下にあり、王家の権威とはほぼ無関係です。つまり、エルヴァスカ王家からセシフィール王家への正式な政略結婚の申し込みはできないものと思ってください」
ラチェスタはきっぱりと言い放つ。
「う、うん……」
そもそもが小国のセシフィールと婚姻を結んだところで、エルヴァスカにはさほどの得もない。公式な政略結婚の申し込みであれば、セシフィールのような小国には断れる余地がないが、今回そこを強制することはできない。だから自力で決めてこいと、そう言われている。
「結婚相手を決めているのは昼行燈な王ではなく、第一王子本人でしょうから、貴方が、王子本人から婚姻の承諾を得てきてください」
「あ、あぁー、でも、クラングラン、もう婚約者いるよ?」
「はい。私は婚姻の略奪を命じています」
しれっと返された。確かにそうするよりない。
リュシュカは、クラングランに会いたくて、その想いにだけ突き動かされてここまで来た。
しかし、先のことは何も考えていなかった。ラチェスタに自分に関する全てを委任した以上、未来を期待できる立場ではなかった。不自由ではあるが、同時に未来に対しての責任も放棄していたのだ。
だから急にそれが許可を超えて努力義務に押し上げられて、困惑していた。
「……何か助言とかある?」
「ありませんね。ああいった頑固な人外には貴方のほうが詳しいでしょう」
「えぇっ、ラチェスタの賢い頭何のためにあるの?」
「利害や損得がそこまで絡まない条件下での人間の心は私の苦手分野です。きっちり落とすまで国に帰ってきてはなりませんよ」
ラチェスタは言いたいことだけ言って、さっと身を翻す。
「それでは、私は別件の仕事のほうに行ってきます」
ラチェスタは居場所さえ告げずに去っていった。
どこに泊まっているのだろう。
しかし、あのクラングランを口説くのって……どうやるといいんだろう。
リュシュカはクラングランどころか、男性を口説いたこと自体ないのだ。
けれど、どのみちクラングランは世にいる一般的男性の価値観にならって攻めて落ちる男ではない。
あれは国にとっての利を追い求める政略大好き男だ。普通に考えるとたぶん、政略的価値を強く売り込むのが一番効果的な気がする。
「うーん……」
リュシュカは考えて眉根を寄せる。
正直、もう少し早ければ勝ち目はまだあった。
しかし、すでに彼の婚姻相手は決まっている。そして、いくらリュシュカと結婚したとしても、クラングランには、最初にリュシュカを連れにきた時以上の得は何もない。一方のシュトルブルクの姫はおまけの条件盛り盛りで進めていると聞いている。
途端に自信がなくなってきた。




