帰郷
ここのところ上の空で、元気をなくしていたリュシュカは、ついに朝の鍛錬を休んだ。メリナが呼びに来たのを「具合が悪い」と言って食事もとらなかった。
日中はずっと、部屋の中でラチェスタの元から戻ってきた爺ちゃんの遺書を読み返していた。
夕食時に呼びにきて「夕食は食べられそうですか?」と聞いてきたメリナに「食べる」と返事をした。ラチェスタは仕事が遅くならなければ一緒に食事をしてくれる。おそらく今日はいるだろう。
部屋を出ると、使用人たちが会うごとに声をかけてくる。
「リュシュカ様、体の具合はいかがですか」
「ありがとう。大丈夫」
「リュシュカ様! 昼飯食べなかったって本当ですか?」
「夕飯は食べるよ」
そのひとつひとつに、笑って答える。
ラチェスタは一見冷徹で厳しい人間だが、使用人たちは三馬鹿騎士やメリナを見ていても、どこか抜けたような人も多い。ラチェスタは他所で持て余されるような人材も適所を見極めて使いこなせるため、癖が強いのを選んで雇っている節がある。
そんなところからも、ラチェスタの本質がそこまで単純な合理性を求める冷徹ではないことが窺われる。
ここでの暮らしは温かい。それに、ラチェスタもリュシュカが来たばかりの頃とは少し変わった気がする。良くも悪くもリュシュカが影響を与えてしまっている。
もしかしてそれも爺ちゃんの狙いだったりしたんだろうか。そんな気がしている。
感情的なリュシュカの短所はラチェスタに影響を与えて彼の短所を埋め、ラチェスタの起伏の薄い冷淡さはリュシュカに影響を与え短所を埋める。きっと、一度衝突があることすら見越していたのだろう。
なにより、あの爺ちゃんが愛する自分を預けるに足る人物としたのだ。爺ちゃんはなんだかんだラチェスタのことを信頼している以上に好きで、気に掛けていたのだろうと感じる。
食事室に入るとラチェスタが先にテーブルについていた。
「リュシュカ、今日は休んだそうですね」
「うん。おかげで結構よくなったよ」
ラチェスタは厳しいが、体調不良の人間にまで無理を強いることはしない。
常日頃から厳しくそっけない口調のラチェスタだが、今の言葉が決して責めているわけではないことをもう知っている。リュシュカは食卓についた。
「ラチェスタ、お願いがあるんだけど……」
「なんでしょう」
「ここに来てもう一年だよね。わたし、そろそろ自分の家を見にいきたい。爺ちゃんの墓の手入れもしたいし」
「…………」
「急に出てから全然帰れてなかったから、一度帰って物も心も、色々整理したい」
ラチェスタは黙って聞き、食事を続けた。
そして、両方の皿がきちんと空いた時に口を開けた。
「そうですね……あの家でずっと暮らすのは認められませんが、供をつけた状態で七日までなら許可しましょう」
「十分だよ。ありがとう」
メリナがついてくるというのをなんとか止め、準備を整える。リュシュカは部屋に爺ちゃんの遺書を置いていくことにした。大切なものだし、なくしたくないからここに置いていく。
王都から辺境の家までは最短距離での移動だけで十二日ほどかかる。
家で七日過ごして帰りにまた十二日。だいたい一か月かそこらの里帰りだ。
だというのに、使用人たちは揃って見送りに出てきてくれた。
「リュシュカ様、いってらっしゃいませ!」
「お嬢様! ちゃんと食べて寝てくださいね!」
使用人たちがそれぞれ声をかけてくれて、リュシュカは大きく手を振って出発した。
数日、馬車で移動した。三食きちんと食べられて、夜にはきちんと宿に泊まれる優雅な旅だ。
そうしてようやく山道入口まで来ると、リュシュカを下ろして馬車は戻っていく。
ここから山を越えなければ愛するわが家には帰れない。
「みんな、ここから山を抜けるよ」
「おー!」
ここから先も、同行していたヨルイド、ミュラン、スノウの三人組の護衛騎士たちが一緒だ。
彼等は文字通りの護衛であり、お目付け役でもある。リュシュカの里帰り中何ごともないように目を光らせる目ピカ係である。
彼らは一見不真面目で不適正に見えるが、実際は真面目な騎士のほうがよほどリュシュカに騙されやすい。
彼ら三人は根が不真面目ゆえリュシュカの動きを読んでくるし、遠慮なく同じ目線でズケズケ物を言うので負けない。何よりリュシュカが心を開いている。ラチェスタの采配はだいたい正しかった。
山に入ってすぐ、集団を先導していたヨルイドが野太い悲鳴を上げる。
「うわあ! なんだこの罠は!」
「あ、気をつけて。そっちにも罠があるよ」
「もうかかったよ〜!」
少し後ろにいたミュランが足首を捉えられたまま、いい笑顔で言う。
「さほど痛くはないんだけどさ、外し方が……」
「ちょっとコツがいるんだよね」
リュシュカはミュランの足元に行って、外し方を教える。スノウが怪訝な顔で辺りを見まわしている。
「あ、スノウ、そっち行っちゃ駄目だよ。そこにも落とし穴が……」
あぎゃあ! という活きのいい悲鳴が聞こえた。
「全員揃って……情けない限りだ……」
ヨルイドがこの世の終わりの如く落ち込み始めた。
「俺はともかく……ミュランまで……まったく情けない!」
「人探しは得意なんだけどなぁ」
「い、いや自分差し置いてミュランを情けなさがるのやめたげなよ……だいたい、アレ仕掛けたの爺ちゃんだから、ラチェスタが聞いても怒りゃしないよ……」
「うおおお! それは仕方ないっ!」
そもそもこの辺りに仕掛けてあるのは獣用でもないし、たいした怪我はしない。軽い気持ちでこの山に来た者を追い返すためだけの優しい脅しの罠でしかない。
しかし、そのあともすんなりとは進まなかった。
「ヨルイド、そっちは見えにくいけど急に崖になってるから」
「うおぉお! 自然の罠まで!」
「スノウ、そっちは熊の巣穴があるから近寄らないほうがいい」
「うわあ! 先に言って!」
「ミュラン、そっち行くと凶悪な蜂が出るよ」
「えっ、わあぁ! 俺蜂嫌い!」
気づけばリュシュカが護衛たちを先導して山を抜けることになっていた。
三人は基本阿呆だが、普段そこまで能力のない人たちではない。
それでもここの山は初めて来る者たちにはややハードだったらしい。そもそもが普段市街地で仕事している人間なので山との闘いとなると話は別なのだろう。
そうだよなあ。人間て、こういうものだよなあ。
比較対象が爺ちゃんとクラングランしかいなかったから、感覚がおかしくなっていたな。
リュシュカは改めてしみじみと人間というものを思い出していた。
「ここ下りればもうすぐなんだけど……確かこの辺にもう一個……あ」
「……どうかしましたか?」
そこにあった爺ちゃんの獣用の凶悪な罠は壊れて転がっていた。見る限り、間違いなく経年劣化だ。
「ううん。行こうか」
古い罠だ。雨ざらしで置いておけば壊れることもある。もうこの罠を直す必要はないし、直せる人もいないのだ。
けれど、罠がなくなると爺ちゃんの足跡がまたひとつなくなる気がしてほんの少し寂しくなる。
やがて、家が見えてきて、三人がそれぞれ歓喜の声を上げる。
「あっ、あのボロい小屋だなっ!!」
「な、なんつー見えにくい位置にあんだよ……」
「リュシュカがいなかったら絶対辿り着けてない」
「ボロい小屋じゃない! 家!」
「い、いやあ……想像以上のボロさで……」
「ラチェスタの家と比べたら大抵の家はボロなの!」
リュシュカは喚きながら懐かしい我が家へと降り立った。
改めてまじまじと見ると、確かにボロかった。
もともと綺麗で立派だったとは言い難いのに、住まなくなってしばらくの間にボロさを増している。
護衛たちは家の庭先に野営場所を作り、その晩は途中の街で買った肉を焼き、庭先で四人で夕食をとった。
ヨルイドが焼けた肉の串をリュシュカに渡してくれる。
「リュシュカは……本当にこんなとこで育ったのか?」
「こんなとこ言うな」
「いや、もうちょっとのどかなとこを想像してたんだが……」
ミュランもだいぶ引き気味の顔をしている。
「うんこれ、普通の人が住めるとこじゃなくね? 山と山と山の谷間じゃん」
「まぁ、今にして思えば……人が容易に来ない場所を選んでたんだろね」
ここまでの僻地に家を建て、畑を耕し、水を引き、生活を整える。それ自体が爺ちゃんでないと容易くはできないことだったかもしれない。
「飯とかどうしてたの?」
「爺ちゃんが山でなんでも獲ってくる。あと、あそこは畑だったんだよ」
リュシュカが指差す暗闇は草が生い茂って荒れていた。
なんだか、爺ちゃんとの生活が終わったことを改めて知らされたようで、胸がざわりと苦しくなる。
「……ひとりで帰らなくてよかったかもしれない」
「え?」
「いや、あんたたちがいてくれて、よかったなって……」
リュシュカの言葉にミュランとスノウが顔を見合わせる。
「リュシュカ! 肉食え!」
ヨルイドが力強く肉を追加で渡してくれる。
「ぜんぜん普通じゃなかったかもしれないけれど……それでもわたしは、ここで爺ちゃんに幸せな子供時代を送らせてもらえたと思ってるんだ」
ミュランが手に持った酒をごくんと飲んで「うん、なんかそんな感じするよ」と言って笑う。
賑やかな食事を終えるとリュシュカはひとり、家に戻った。
家の中は静かだけれど、外からはまだ三人の話す楽しそうな声が聞こえている。
爺ちゃんの使っていたクソデカロッキンチェアが変わらずそこにあった。
リュシュカはそこに座る。ぎ、と懐かしく軋む音は変わらない。
ゆっくりと目を閉じる。
***
リュシュカはそれから二日ほど、墓の手入れをしたり家の手入れをしたりしながら静かに過ごした。
三日目の朝、ヨルイドとミュランが到着の無事と途中報告の文を出すために出ていき、スノウがひとり残っていた。一番近い村に行くだけでもだいぶかかるから、二人は当分戻ってこないだろう。
リュシュカは窓の外を伺う。
暇さえあれば鍛錬しているスノウは珍しく疲れたのか、テントの前でぼんやりと寝転んでいた。
お茶を持ってスノウのところに行くと、ぱっと起きて座る。
「リュシュカ……どうしたの?」
「わたしのせいで慣れない山暮らしさせて申し訳ない」
「べつに……」
「って言いながらめちゃくちゃ擦り傷だらけだけど……これ薬。二人にもあとで渡しといて」
「……ありがとう」
「お茶飲む?」
そう言ってコップを差し出すと、スノウはこくりと頷き、無言で受け取った。
「じゃあわたしは家に戻るね」
「あ、待って。リュシュカ」
「え、なに」
「ちょっと、訊きたいことっていうか……言いたいこと……かな? あるんだけど」
スノウはもともと表情豊かとは言い難いが、それでも強張っているように見えた。リュシュカも少し緊張を煽られる。
「珍しいね、なに?」
「その……」
「うん」
「……………………ああ、いや……」
しかし、スノウは言葉をうまく続けられなかったようで、仕切り直しで一度口を閉じてから言い直す。
「俺……前から……」
しばらく待っていたけれど、やはり続きは出てこなかった。
「や、今度にするよ……」
そう言って、スノウはお茶を一気にぐいっと飲み干し、また、ごろんと横になる。
リュシュカは家に戻り、急いで着替えた。
それから、纏めておいた荷物を手に取り、再び玄関へと向かう。
庭に出て、スノウが薬できちんと眠っているのを確認すると、小さい声で「ごめん」と謝り、山に向かって走っていく。
「うう……ラチェスタも……嘘ついてごめん」
リュシュカはクラングランに会いにいくことにした。




