謁見(1)
国王から突然呼び出されたのはその日の朝のことで、リュシュカはラチェスタに連れられて王城の長い廊下を歩いている。
「やだよ〜。ねえ、断っちゃダメ?」
「愚問ですね」
さっきから数歩行くごとにリュシュカはラチェスタに訊いていた。
「一体何の用なの?」
「王の子は、皆一度限りは呼ばれて謁見を許されます。貴方にもその機会が設けられたのでしょう」
突然ではあったが、ラチェスタは落ち着いている。慣例となっていることらしい。
「許されるって……べつに会いたくないんだけど」
「安心なさい。二度呼ばれることはまずありません。これは貴重な権利なんですよ」
「いらんいらん」
ラチェスタは通路の一番奥の大きな扉の前で立ち止まる。玉座ではなく居室に呼ばれるのはそれが仕事に関わらない個人的な要件であることを意味している。
「王が人払いをさせているので、私が来れるのはここまでです」
「二人きり? 嫌だなあ。大丈夫なの?」
「王は大病を患ってからだいぶ丸くなられました。一応血はつながっているのですし、相当な無礼をしない限り斬られはしないでしょう」
「ひえぇ……おっかない」
「相当な無礼をかますつもりだったんですか?」
「いやそんなつもりはないけどほら、王様とかって何が気に入らないかわかんないし、うっかり、礼儀とかなんか」
ラチェスタはため息混じりに言う。
「一応あなたの父親ですよ」
「わたしの家族は爺ちゃんだけだし……」
ラチェスタがこちらを見た。
「い、いや、ラチェスタにも、もちろんお世話になってると思ってるよ? でも、お父さんっていう感じでもないし……」
「そんなところは気にしてませんよ。実の父親は気にはなりませんか?」
「だって……まるでそんな気しないんだもん。ラチェスタは会ったことあるの?」
「もちろんありますよ」
「優しい? 怖い? ヤバい?」
扉の前でしつこく聞いているとラチェスタが静かな声で言う。
「時間が来ました。これ以上はお答えしかねます。行ってきなさい」
「ちょっと!」
「なんにしても自分の目で確認しなさい」
そう言って、ラチェスタはそっと背を押した。
「うう、爺ちゃんみたいなこと言いやがって……」
三回扉を叩き、それにくぐもった声が返された。
中に足を踏み入れる。部屋はだだっぴろく、薄暗かった。巨大な窓にしつらえられた分厚いカーテンは閉まっていて、そこから午後の光がわずかに漏れていた。
王は奥にある長椅子に座っていた。
姿が目に入った瞬間、息を呑む。
構造色の黒髪はところどころ白くなっているし、顔には皺が刻まれている。それでも、瞳には恐ろしいまでの威厳と圧倒的な迫力があって、一瞬で気圧される。
リュシュカは呼吸を止め、動けなくなっている自分に気づいた。何か、人間ではないものと対峙させられている感じがする。
「リュシュカです」
リュシュカは扉付近に立ったまま、掠れた小さな声をなんとか絞り出す。それから、次の動きに逡巡した。
「こちらへ来い。もっと近くで顔を見せろ」
ゆっくりとした声で王がリュシュカに言う。
決して大声ではないのに、不思議と威厳があって通る声だった。
そうっと長椅子に近寄ると、こちらが眺める前に、じっと顔を眺められていた。
以前、ソロンに顔をじっと見られた時には観察されている気がして、何か自分でも見せてないはずの場所を勝手に見られているかのようで落ち着かなかった。
王の視線はそれともまた違う。見られているのは確かなのに、何を考えているのかはまったく覗かせない。ただ、見られていた。嫌な汗が湧きそうな眼力だ。
リュシュカは促されて向かいの椅子に腰掛けた。
「望みはあるか……?」
「え?」
「私は来た子には必ず聞くことにしているんだ。お前にも聞こう」
べつに叶えてやるとは言ってないし、たぶん叶える気はない。そんな慣例があるならラチェスタが先に伝えているだろう。だからこれはきっと、相手を知るための問答でしかない。
だからといって、気の利いた答えを考えようとも思わない。リュシュカは即答する。
「なんもない」
その物言いは側近がひとりでも近くにいたら怒られていたかもしれないが、リュシュカとしては「もう帰りたいな」という真の願望を呑み込んで言わなかっただけ褒めてほしい。
視線を彷徨わせていたリュシュカは王を見て目を見張る。笑っていたのだ。
王は目の前に置いてある装飾がされたコップを鷹揚に口に運ぶ。酒なのか、ただの水なのか、中身はわからない。
「その答えをした者は二人目だ」
「うん? 誰?」
「私の子ではないがな。ゾマドだ」
爺ちゃんはかつて王に戦果の褒美を聞かれた時に「なんもねぇな」と言い放った。王は思い出したようにくつくつと笑いながら教えてくれた。
「だからあれに育てられたお前も、そういう育ち方をしているはずだと思っていた」
「そりゃどうも……」
それはリュシュカより爺ちゃんをよく知る者の言葉だ。悪い気はしない。
それから、部屋は長い沈黙に浸された。
リュシュカは不用意に話しかけようとは思えない。だから王が口を開くのを待っていた。
王は自分が黙っていることでこの沈黙があるのを知りながらも、鷹揚な視線を天井にやり、まるでリュシュカがそこにないかのように気にしない。だから不思議に気まずさは存在しなかった。
この人はたぶん、本質的に自分の子に、いや、自分以外の他人にそこまで強い興味がないんじゃないだろうか。
「お前は王位の継承にも興味はないんだろう?」
「ない……けど。巻き込まれて…………うんざりしてる」
「……金の目と構造色の黒髪が揃っているからな。それに顔も私とよく似ているな」
王はまた口元だけで笑った。そこ、笑うところかよ……。
しかしながらリュシュカから見ても顔が似ているのは認めざるを得ない。
「どちらにせよあれはもう少しすれば勝手に決着する」
「え? どうなるの?」
「強い者が勝ち残るだけのことだ」
「……自分の子供たちが殺し合って跡目を奪い合ってるのに、すごい無関心だね……もう指名してしまえば早いのに」
「闘いたいのだから、闘わせてやるさ。この国の王家は長くそういうものだからな。私は私の血を継いだ一番強い者が王になるならば、それは誰でもいい」
リュシュカは黙った。色々思うところはあるが、結局は自分が何か言える話ではないからだ。
「この話はもう終わりだ。次は、お前の話を聞かせるんだ」
「え?」
王は感情の読めない金の瞳を静かに向けてくる。
「私は長く闘い続け、気づけば歳を取った。もう私に、くだらない話をする人間は誰もいない」
言われてリュシュカは気づいた。
王は多くからの敬愛と畏怖を同時に受ける、生きながらにして宗教的な存在となっている。この国で、この絶対的な王に本音でぶつかる人間はもはやいないだろう。
それで、くだらない世間話をして笑い合える相手なんてのも、どこにもいない。あるいは、そんな相手は爺ちゃんが最後だったのかもしれない。
リュシュカは王をじっと見る。
さっきまで、居心地が悪くて、怖くて、帰りたかった。目の前にいるのは化物だったから。
けれど急に、ここにいるのは孤独な化物にわずかに残された、人間の部分の残滓のように感じられた。さっきまで畏怖を抱かせる衣を纏っていた王が、一瞬だけ孤独に背を丸めた、ただの老いた人に見えたのだ。
「何か話せ。それがどんな内容でも、ここでの話がお前の人生に影響を及ぼすことはない。ただの話だ」
それは道化の役割と似ているようで、まったく似ていない。リュシュカは目の前の男の、血を分けた子であるからだ。
王がどんな話を求めているのかはなんとなくわかる。
たとえば、裏山の木の実を毎年楽しみにしていたこと。
爺ちゃんの下手な歌がうるさくて喧嘩した日のこと。
そのまま家出した日のこと。爺ちゃんと過ごした、子供時代の話。なんでもいい。他愛のない話だ。
王はきっと、それで何かを知ろうとしているわけではない。何かを解決しようともしない。反論も共感もしない。ただ、くだらない話を聞かせろと言っているだけだ。だからリュシュカもただ、話すことにした。
それは初めて会った相手にする話としてはかなり異色なものだったかもしれない。
けれど、たとえば久しぶりに顔を合わせた父親に「会わなかった間、どうしていたのか」と聞かれて、その時に娘が話す話題としては、そこまでおかしくはない。そんな気がした。




