再教育(3)
鍛錬。鍛錬。また鍛錬。
効果の怪しい修行の日々は三か月を越え、リュシュカはようやく魔術の実践練習することになった。
その日、リュシュカは中庭にラチェスタとスノウと三人でいた。
天気はよく、暑すぎない。実践日和だった。
「何が起こるかわからないので、念のため屋敷の人間はいろんな用事で外に出しました。今ここにいるのは私たちだけです」
「ラチェスタは避難しなくていいの?」
「危険があると言ったでしょう。責任者が逃げてどうしますか」
「……うん」
ラチェスタの傍にいたスノウが口を開ける。
「俺も、一応リュシュカの教師役だし……自分の希望でここにいるから気にしなくていいよ」
「うん……ありがとう」
「まぁ、屋敷から避難させたところで、ゾマドによると貴方の魔力が全開になると、小さな山ひとつくらい吹き飛ぶそうなので……意味があるのかはわかりませんが」
「……ラチェスタ、やっぱやめない?」
「大丈夫ですよ。今ここに、そこまで感情が上下する理由がありませんから。どうあっても全開にはなりません。では、スノウ、準備をお願いします」
「はい」と返事したスノウが両手で重そうな木箱を抱えて持ってきて芝生に置いた。木箱の位置はリュシュカがいる場所からはだいぶ離れている。
「貴方に今日やってもらうのは、あの木箱を、魔力を使って数秒浮かせるというものです」
「そんなのがあるんだ」
「はい。基本的に魔術はエネルギーを爆発させるものですから、攻撃以外の用途はあまりないんですが、古い文献にそういったものが見つかりました。スノウの意見を聞いた結果、これが一番よいのではないかと」
ラチェスタの横に戻ってきたスノウが頷く。
「リュシュカは目も運動神経も悪くない。たぶん魔術で人を傷つけることに極端に怯えているだけなんだよ。だから、そもそも攻撃とは内容を変えればいいと……俺は思った」
確かに、攻撃ではないと思うとだいぶ気楽にできる気がする。
スノウはよく見てくれているし、ラチェスタは忙しい仕事の合間にかなり調べてくれている。ありがたい。頑張らなくてはならない。
「ちなみに、やり方のコツとかってあるの?」
「そこまでは文献にも載ってません。でも……そうですね、ゾマドが使っているのをイメージしてやってみてはどうです?」
「え? 爺ちゃん?」
「貴方は以前それで一度、成功させているのですから」
「……わかった。やってみる」
二人は後方に下がり、リュシュカはまっすぐ木箱を見つめる。
一度目を閉じ、雑念を追い払うために深呼吸した。
それから、爺ちゃんが夢の中でやったみたいに、手のひらを目の前に向ける。
また、深く息を吸って、集中を深める。
「ん、重い……」
直接持ってるわけでもないのに、ものすごく重たく感じた。
爺ちゃんなら、軽々浮かせられる気がするのに。
ただ、これは腕力じゃない。魔力が足りてないわけでもない。たぶん集中が足りていないのだ。
時間だけが経過した。
リュシュカの顔にいくつも汗の筋が流れていく。
木箱は相変わらずぴくりとも動かず、まるで反応しない。
ここまで修行したのに。今だって二人を待たせているのに。焦るし、苛々が込み上げる。
木箱を睨みつけるが、やはり動かない。
「……っ、もう! なんで……動かない!」
強い苛立ちが過ぎる。
その瞬間、木箱がぱん、と勢いよく爆ぜた。
「…………あ」
そこには粉々になった木屑が散っている。
こんな危険な練習、しないほうがいいかもしれない。
だいぶ不安になってラチェスタを見るが、平然としている。
「練習ですから、失敗して当然です。何か掴めましたか?」
「……短気はよくない」
「ならそれを踏まえてもう一度行きましょう。スノウ、お願いします」
「はい」
スノウが返事して、すぐに新しい木箱を用意した。
もう一回やってみようとするが、完全にさっきの失敗が尾を引いている。集中できなかった。できる気はまったくしないのに、早く成功させなくてはという焦りだけは次々湧いてくる。
リュシュカは頭の中で唱える。
動け。動け。動け。
「……動けぇっ!」
今度は少し離れた場所にある樹木が煙を上げて爆発した。
「ひぃっ、こわい! 何あれ! 何あれ!」
「大丈夫ですよ。貴方がやったんですから」
ラチェスタが冷静に答え、スノウが首を捻りながら言う。
「うーん、さっき木箱壊したから恐怖心芽生えちゃってコントロールがだいぶ狂ったんじゃない?」
「うう……もうやめたほうが……」
「失敗した状態で終わるのはあまりよくありません。ただ、終わりが見えないのも焦りますので……そうですね、あと五回、やりましょう」
「わかった……」
そうは答えたものの、リュシュカはどんどん不安になっていく。
ラチェスタは怖くないんだろうか。そう思って顔を見るが、彼はまるで表情を変えずに頷いた。
結局、その次も別の樹が爆ぜただけで、木箱はまったく動かせなかった。そんなのが何度か続いた。
火はすぐに消えていたが、あたりには煙の匂いが漂っている。リュシュカは荒い息を吐いて口と胸を押さえてうずくまっていた。
「もう、怖い……」
さっきから脳裏にチラチラと暗闇の中にまわる炎が浮かんでいた。
それは、幼児期に恐怖の感覚と共に残っているわずかな記憶のかけらだ。強い不安を纏い、どんどん襲ってきて頭の中を侵食していく。リュシュカの歯がカチカチと鳴った。
スノウが心配そうな顔でラチェスタの横に駆け寄る。
「ラチェスタ様……もう……」
ラチェスタはスノウを手で制し、はっきりとした声で言う。
「リュシュカ、何を考えていますか?」
「お……お母さん……」
ラチェスタがゆっくり近づいてくる。
「わっ……わたしが……こ、殺したんじゃないかって……」
「リュシュカ、落ち着きなさい。そんな記録はありません」
「き、記録にはなくても……」
「それはないんです……今はこれだけ聞いてください。ゾマドがその場にいたんです。被害者は出てません」
リュシュカははっとした顔でラチェスタを見た。
「リュシュカ、貴方が私に魔術をきちんと使えるようになりたいと言った時、何を考えましたか?」
リュシュカの頬にはいくつもの涙の筋が通っている。
何を考えたかって、そんなのはひとつしかなかった。涙声で小さく答える。
「…………守りたいって」
リュシュカはしゃがみこんだまま、再び震える手を前に伸ばす。そうしてゆっくりと立ち上がった。
ずっと、魔術なんて使いたくないと思っていた。使う必要性も感じなかった。
でも自分のせいで、目の前で大切な人が殺されかけた。リュシュカは彼の足を引っ張るばかりで、救えもしない。どうしようもなく無力だった。あんなのはもう二度とごめんだ。
リュシュカは自分の広げた手の甲をじっと見つめる。
その手のひらに爺ちゃんのでかくて汚れた手を重ねるようにイメージする。
集中する。
違う。ここじゃない。もっとこっち。
クラングランが、逃げろと言った時の顔。
薄桃色の花びらが散っている家の庭。
──視界を埋めた、爺ちゃんの手のひら。
頭の中は雑多な思考が散らばっているのに、意識はすっと木箱に集まっていた。
「動いた!」
スノウの声で我に返る。その瞬間、木箱はどすんと下に着地した。
結局、木箱が数秒、ほんの少し浮いたときには、ラチェスタの屋敷の樹木は四本折れていた。
リュシュカは荒い息を吐きながらぐったりして芝に膝をついていた。
ラチェスタがすぐそばにしゃがみこむ。
「……まぁ、あれくらいの被害ですみましたし……今日は大きな進歩じゃないですか?」
「ご、ごめんなさい……樹が折れた……」
「リュシュカ、褒めているんです。素直に受け取りなさい」
ラチェスタの顔を見る。
また、涙がぽろりと溢れた。
「……うん、ありがとう」




