大脱走(2)
テーブルでは先ほどからずっと、ヨルイドの熱い説得と、宥めすかすミュランの言葉が飛んでいた。
「なあ、リュシュカ〜。本当に帰らないの?」
「帰らない」
「みんなリュシュカを心配してるぞ!!」
「仕事でしょ?」
ヨルイドが力強くブンブンと首を横に振る。
「いやいや! リュシュカ! そんなこと言うなよ! 俺たちはもう、家族みたいなもんだろ!!」
「家族じゃない。お前らの家族はお前らだけ。わたしの家族は爺ちゃんしかいない」
酔いがまわってすっかりいじけている自覚はある。それでもそれは紛れもない事実なのだ。ラチェスタの屋敷の人間はリュシュカ以外はみんな家族がいる。
「あぁ、あの、でもさー、リュシュカ、ラチェスタ様もきっと心配してるよ〜?」
「それ本気で言ってる?」
リュシュカは眼差しのきつい上目で見上げる。
「ラチェスタはこんなことで少しだって動揺しないよ。あの人の心は鋼鉄製だから滅多なことじゃ動かないもん」
「お、おお……」
「うーん」
「あー」
残念なことに誰も、『そんなことないよ』とは言わなかった。
ラチェスタからしたら予測できた事態だろうし、もしできていなかったとしても動揺はしない。冷静に捕まえ方とこの先の処遇を考えるだけだ。
「もしラチェスタにそんな人間の心が少しでもあるなら戻ってもいいよ」
ヨルイドが言葉に詰まり、皿にあったナッツのつまみを頬張った。
「ん〜」と唸ったミュランが椅子から立ち上がる。
「ちょっと俺、リュシュカ無事って、ラチェスタ様に報告に行ってくるね。すぐ戻るからゆっくり飲んでていいよ」
リュシュカはミュランの袖をくい、と引いて引き留める。
「本当に報告するだけ? 連れてきたりしないよね? そんなことしたら……」
「し、したら……?」
「わたしはあんたらのこと全員、もう二度と信頼しない」
リュシュカの強い声にスノウが「ミュラン……」と短く声をかける。
「……わ、わかった。本当に報告だけにする」
ミュランがテーブルを抜けた。
リュシュカが追加でパカパカ酒を飲む中、説得の言葉をすっかりなくしたヨルイドと、もともと口数の多くない下戸のスノウが無言で座っている。
周りは陽気で賑やかなのに、なんとも辛気くさいテーブルだった。
「あのさ……」
店に入ってからずっと何か考え込んでいたスノウが唐突に口を開ける。
「もし……リュシュカが本気で家に帰る気なら……」
そこまで言ってスノウはコップの水をごくりと飲み込む。
「それなら、俺も行くよ」
「え?」
リュシュカとヨルイドが同時にスノウを見た。
「お、おい、スノウ……お前もラチェスタ様の屋敷を出るってことか? 本気か?」
「べつに構わないだろ」
「い、いや、構うだろ! 馬鹿なこと言うなよ!」
「スノウ……そういうふうに言えば、わたしがラチェスタのとこに戻ると思ってるんだね」
自分が辺境の家に帰ったら三人まで離れ離れになる。
さすがのリュシュカも、そんなことになるならラチェスタのところに戻るよりない。自分の我儘で他人の人生まで狂わせたくない。
「遠まわしな脅迫だ。ラチェスタみたい」
「いや、リュシュカ、ラチェスタ様に毒されすぎだろ! こいつがそんな計算で動くような奴か!」
「ほらね、家族だから、一生懸命庇ってる」
「い、いくらなんでも拗ねすぎだろ! リュシュカだって家族だって! そう言ってるだろ!」
「どうだか……もう誰も信用できない……」
スノウは黙って頬杖をつきながらため息を吐いた。
リュシュカは相変わらずウーゾの水割りを飲んでいたが、もともと度数が高い上に量は増えていた。だいぶ据わりきった目でまたテーブルに突っ伏する。
出た時は本当に辺境に帰るつもりだったが、すでにそんな気は失せてきていた。いつもそうだ。感情に動かされて飛び出して、しばらくすると勢いが削げて冷静になってしまう。
本当は家に帰ったからって、何もかも元通りにならないことはわかっている。スノウが言うように、帰っても爺ちゃんはいないのだ。きっと余計に寂しくなるだけだ。リュシュカに帰る場所なんてもうないのだ。じわじわ涙が湧いてくる。
「うう……爺ちゃん……爺ちゃん……」
「グランドファザコン……?」
スノウがぼそっとこぼした言葉にリュシュカはガバッと顔を上げる。
「うるさいわ! 爺ちゃんはお前らの誰より強くて賢くて格好いいんだからな!」
「否定するどころか強い肯定……」
「戦場の死神と比べるのはよせ!!」
「わたしを連れ戻したいなら爺ちゃんに勝てるようになってから来い。わたしは……爺ちゃんより強い男にしかついていかないんだからな!」
「無茶言うなよ……! そんなのこの世で誰も迎えに来れないだろ!」
「じゃあ帰れよぉ! ほかにも仕事あるでしょ! ここにいるのも仕事でしかないんだから!」
「リュシュカ……いろいろ冷静になれって!」
「甘ったれすぎ……」
スノウの辛辣な言葉がぼそりと飛ぶ。正論ではあったが、またじわりと涙が浮かぶ。
「そうだよ! 甘ったれで悪いか……!」
いつもならなんともなく流せる言葉でも、限界を超えたメンタルには刺さってしまう。
「わたしにだって、あ、甘えたい時がっ、ある……でも……爺ちゃんが……どこにもいない……から」
リュシュカはしゃくりあげながら言葉をこぼすと、また酒を飲んだ。
ヨルイドとスノウの二人がすっかり言葉をなくしたテーブルには、リュシュカがすんすん泣きながらこぼす「爺ちゃん」の声だけが小さく響いていた。
「……そういやリュシュカ、まだ十六だったか……」
ヨルイドが思い出したようにしみじみ言う。
「だからなんだよ」
「いや、お前はともかく、俺とは十歳違うからな……俺がそのくらいの頃で考えたらなかなかハードだなぁと……」
「そんなの最初からわかってる」
「スノウ、お前まで拗ねてんのか? 収拾つかなくなるからやめてくれ」
「…………ングランも……けっきょく……連れていってくれなかった……爺ちゃん……爺ちゃん……」
「……リュシュカ、何言ってんの?」
「あ、ミュランが戻ってきたぞ! ミュラン! 助けてくれ!」
見るとミュランらしき人影が片手を挙げてこちらに向かっていた。それすら涙でぼやけて見える。
ミュランは慌てたようにテーブルに戻ってきた。その顔には驚愕が浮かんでいた。
「ミュラン、なんだその顔は。途中で馬の糞でも食ったのか?」
ヨルイドがミュランの顔を見て不思議そうに言う。
「お前じゃあるまいしそんなことするか! って、そうじゃなくて……いや、あの、俺今さっき屋敷に戻って報告してきたんだけど……」
「何かあった?」
「い、いや……ラチェスタ様……俺が報告した時は相変わらずというか、いつも通りだと思ったんだけど」
頭上の話し声を黙って聞いていたリュシュカも、自分の腕に半分顔を埋めながら、ミュランを見上げた。
「……でも、出る時にメリナが教えてくれたんだけど……ラチェスタ様……今朝から二回お茶を溢してるらしい」
「え……」
「嘘だろ……」
「いやいや、これはマジのマジの話。厨房行ったら割れたカップあったし……ラチェスタ様がいつも使ってるやつだったし……」
リュシュカはむくりと顔を上げる。
あのラチェスタが、お茶をこぼした。
しかも、二回も。
「はぁ……」
リュシュカは酔いを飛ばすようにぶんぶんと頭を振った。
それから深いため息を吐いて観念した。
立ち上がると三人が一斉にリュシュカを見た。
「約束だから仕方ない……帰るよ」
それから三人に向かって短く「護衛を頼む」と言う。
「リュシュカ!」
「一緒に帰ろう!」
「……うん、帰ろう」
リュシュカは三人の頼れる護衛を連れて、ラチェスタの屋敷への道を戻る。
こうしてリュシュカの短い家出は陽が昇り、落ちるまでの短い時間で幕を下ろした。




