日々修行(1)
ラチェスタ・ミンファイは政界では鋼鉄の男と言われているらしい。
常に規則正しく動き、魑魅魍魎が蠢く政界で、時に無理難題を科されても、嫌味なくらいしれっと任務を完遂する。責任感が強く、敵となった者のことは執念深く追いまわす。彼は戦場に出ることこそないが、常に机上で闘っている。
ラチェスタには爺ちゃんにあった適当さやいい加減さが一切ない。几帳面で、真面目に満ちていて、完璧主義だ。
そのラチェスタは毎日王城に詰めていた。
日中は屋敷にはいない。
その間リュシュカが何をしているかというと、朝から夕方までみっちりとメニューが組まれていた。
六時の起床と洗面から始まり七時には柔軟体操と瞑想。八時に朝食。九時、経済学。十時、走り込み。正午、昼食。算術。剣術。言語学。日によって科目は入れ替わるが毎日こんなスケジュールが組まれている。
だからリュシュカはそのスケジュールをラチェスタに出されてからは毎日早く起きて体操、決まった時間に栄養バランスの取れた朝食を取っている。勉強もしこたまさせられているし、さほど役に立ちそうもない剣術の鍛錬もさせられている。
ラチェスタは何も嫌がらせをしようとしているわけではない。
これはすべて、最初にリュシュカが「魔術のコントロールができるようになりたいから協力してくれ」と頼んだことに対して返された彼からの返答だった。
やたらと丁寧に几帳面に考えて組まれたメニューを見ればわかることだが、すべて、よかれと思ってわざわざ考えてくれたことなのだ。
けれどそのメニューにはリュシュカが思う、生きていく上で何よりも一番大事なもの『自由時間』が圧倒的に足りていなかった。動けるのは夜しかないし、夜なんてご飯食べて湯を使ったら疲れて寝てることしかない。
ラチェスタは確かにできる男ではあるのだろうが、ある種杓子定規であり、理論でばかりものを考えるきらいがある。彼が何かを考え、計画を組み立てる時に人の心はあまり考慮されない。
彼の完璧主義は融通が効かないし同時に直感力に乏しい感じがしていて、不安になる。
広大なラチェスタ邸の庭をぐるぐると走らされながら、リュシュカは不満をむくむくと募らせていた。
それらをやること自体は譲歩して受け入れなくもない。だが、全体的にもっと、ゆとりや幅というか、余白を持って組むべきだ。ギチギチに組んだ通りに動けるかというと、人間なんだからそうもいかない時もある。
自由時間が欲しい。
何もせず空を見上げてぼんやりだらだら過ごす。昼寝をする。適当にその辺を散歩する。そんな時間が毎日なるべく毎分毎秒欲しいのだ。
嗚呼、自由……!
自由自由自由!!
リュシュカは自由に飢えていた。
仕方ない。自由時間が与えられないのならば自分で作るまでだ。
リュシュカは庭を走っている最中にそっと脇に逸れて植え込みの間に入った。
こんな不自由な自由時間で何ができるわけでもない。
それでも目を閉じて数秒ぼんやりとする。
開けると大きな青い空があり、上に小さな雲の塊がゆっくりと動いていた。
うん、やっぱりサボってよかった。
リュシュカはゆっくりとまた目を閉じた。
目を閉じてもさっき見た青空はまだ焼き付いている。小さく吹く風が頰を撫でていく。
だんだんうつらうつらしてくる。
「リュシュカ様〜」
遠くでメリナの声が聞こえて、リュシュカはぱちりと目を開ける。
「リュシュカ様〜」
その声がだんだん近づいてきていた。
「リュシュカ様、リュシュカ様どこですか〜」
メリナが必死に叫んでいる。声が近づいてきて、どこにいるのかもわかった。
リュシュカは植え込みの横をノソノソと四つ足で移動した。植え込み越しにメリナのすぐ横をそっと通って抜ける。
メリナの視線が他所にいっている隙に、一番近くの樹木へ移動して登った。
彼女はリュシュカの登っている樹のすぐ下まで来た。キョロキョロと辺りを見まわしている。
「リュシュカ様〜」
メリナは明後日の方向へ向かって呼び、ウロウロと歩きまわる。なんだか気の毒になってきて、声をかけた。
「メリナ」
「リュシュカ様? どこなんですか? いない! リュシュカ様〜!」
声をかけたのになおも発見できないメリナが半べそになってきた。さすがに可哀想になって彼女の頭上から目の前に滑り落ちた。
「わあ! リュシュカ様! そんなとこにいらしたんですね!」
数多くいる使用人の中でもメリナは十七才と、歳が近く話しやすかった。あまりにほんわかした性格なので、歳下に思えることもあるくらいだ。
「探しましたよう。まだ今日はお勉強も控えてますよ」
「……教えてほしいのは魔術のコントロールの方法だけなのに、なんでこんな走り込みとか大嫌いな算術とかやらされんの……?」
メリナはにこにこしながら答える。
「ラチェスタ様の組んだ特別メニューです」
「知ってる。そういうこと聞いたんじゃない」
「リュシュカ様、文句言いながらも成績は抜群にいいそうじゃないですか」
「それは爺ちゃんに教わってたことばっかだからで……全部いらないよ」
リュシュカはすでにラチェスタに安易に訓練を頼んだことを後悔していた。しかしながらメリナに愚痴っても仕方がない。
「そうだよね。文句はラチェスタに直接言わないと」
「え? リュシュカ様、勇気ありますね」
「ラチェスタはわたしの後見人だけど、わたしは仕事で雇われているわけじゃないし、逆らってもよくない?」
「…………」
「ねえ、よくない? ダメなの?」
「…………」
「メリナ! なんとか言って!」
リュシュカは、はぁとため息を吐いた。
「……とんだ暴君の屋敷に来てしまった」
「ふふ。お気持ちお察ししますよ」
呑気な声でメリナが答える。その近くに座り込んだ。
「だいたいラチェスタ、横暴だよ! みんなだって大変なんじゃないの?」
リュシュカは時間がずれていたので最近まで知らなかったが、使用人たちは全員朝から走り込みと柔軟体操をされられていた。あれはどう考えてもタチの悪いおかしな主人だ。皆我慢して働き続けるほど彼に心酔しているのだろうか。
メリナがリュシュカの隣に座って言う。
「あ……私は実はここには先月来たばかりなんです」
「そうなんだ」
「もともと、半年ほど前に初めて別のお屋敷の行儀見習いでメイドとして働き始めたばかりなんですけど……」
「うん」
「初めてのお仕事で……とにかく覚えられなくて……大変でした。それで……先月お仕事でそちらのお屋敷に来られたラチェスタ様が、私の仕事ぶりを見て引き抜いてくださったんです」
「優秀だったってこと?」
リュシュカは目を丸くする。
メリナは静かに首を横に振った。
「いえ、ラチェスタ様の目の前で、お茶のカップを盛大に落としました。それで首になりかかったところをラチェスタ様に引き抜かれたんです」
それは、どちらかというと引き抜かれたというよりは、可哀想だから引き取られたというほうが近いのではないだろうか……。
「さらに……私はここに来た初日に旦那様がたいへん気に入られていたという高価な花瓶を割りました」
「え、こわ! 怒られた?」
「はい。嵐のように叱られました。弛んでいる。仕事をなんだと思っている、怪我をしたらどうするのだと……夏の暑い日にふと思い出したくなるくらい怖かったです」
目に浮かぶ。ラチェスタは全く暴力的ではないが、陰湿だし、言われたくないことをズケズケと言ってくる。こんなにふんわりした性格のメリナがよく逃げ出さなかったと思う。
「落ち込んだ?」
「はい。一瞬帰ろうかと思いました」
「やっぱそうなんだ」
「でも、旦那様は高価な花瓶や、その金額ですとか、そんなことはひとこともおっしゃらなかったんです」
長いお説教の中で、ラチェスタは割れた花瓶のことには一度も言及しなかったのだという。
「私は……まだ旦那様のことをそこまでよく知りませんが……いくら厳しくても、あの方を嫌いにはなれないんです。ほかの使用人たちもきっと、旦那様を嫌いな人はいないんじゃないでしょうか」
メリナはそう言って、リュシュカを顔を見てあどけない笑顔を向けてくる。
「それに、まだここに来たばかりなのにリュシュカ様付きの侍女という大役に任命されて……燃えているんです!」
拳を握り熱弁するメリナを見てリュシュカはまた、ため息を吐く。
「そ、そんなに燃えなくていいよ……?」
リュシュカは遠い目で空を見上げた。




