新生活(2)
リュシュカが屋敷に来て少し経った午後。
ラチェスタは自宅の執務室でゾマドの遺書を読んでいた。
全文に渡り荒い筆、纏まりのない文章だが、そこには、リュシュカを全力で護ろうとする者の強い意志が感じられた。
賢人ゾマドは本名をゾディアック・マルタ・ブルスドスという。ただ、彼をその名前で呼ぶ人間はほぼいない。
ゾマドはラチェスタにとって恩人だ。
ラチェスタが若い頃に犯した判断ミスによって、多くの人間が死ぬところだった。それを未然に防げたのはゾマドのおかげで、彼だけがその誤りに気づいた。
あの頃ラチェスタは若く、自らの能力に奢り、万能感さえ持ち、過信していた。人の上に立ち、国の何かを変えていくことは駒を使い遊ぶ遊戯のように現実感のないものに感じられていた。
ゾマドはラチェスタの自信を粉々に打ち砕き、背負うものの大きさを見せつけたのだ。
何をしても、いくら払っても感謝しきれない恩があるというのに、彼は生きている間は決して返す隙を与えてくれなかった。
そのゾマドが本当に唯一、頼んできたのが彼の死後のリュシュカのことだった。
戦場で死神と恐れられたゾマドは生涯を通して奪う以上に多くを救ってきた。
けれど、全てが終わった時、彼自身の大事なものはなくしていた。
多くを救いただひとつを守れなかったゾマドは人生の最後にリュシュカただひとりを、その腕で護りぬくことを決めた。
ゾマドはきっと、亡くした我が子に罪滅ぼしをするかのようにリュシュカを溺愛していた。
リュシュカは教育によっては権力や地位を得られる素養があったが、ゾマドは彼女に特別ではない人並みの生活の幸福を教えた。
そうやって育てたリュシュカという娘は、なかなか独特な育ち方をしている。
軟弱で甘ったれなのに我儘で跳ねっ返り。そのわりに妙に鋭く見るべきところは見ていて油断ならない。知識は豊富に偏っている。
なんにせよ彼女は確実に、あの恐ろしく精力的で苛烈なエルヴァスカ王の血をひいているし、戦場の死神と言われたゾマドに育てられたことで得たものもしっかりとその身に宿している。
ラチェスタは、いろんな意味で扱いが難しいこの娘を持て余し気味であった。
彼女には王から受け継いだ髪と瞳がある。王位継承における優先性と序列が変わり、今の王家には遺伝しにくい金の瞳を持つ者はリュシュカの他におらず、構造色の黒髪を持つ者でさえ彼女を除き三人しかいない。
そして、多くには知られていないが、リュシュカは魔力持ちの希少種でもあった。おまけに魔力量は危険レベルで調整はできないという。いくらでも政治に利用できる要素だけは多分に持っている。
特に、政治に絡む立場にいるラチェスタだと、いかに気を配ろうとも、持っているだけで周囲が警戒するある種の危険物なのだ。
ラチェスタはゾマドのように全てを捨ててリュシュカを隔離するわけにはいかない。
彼女を政治に関わる場所へは出さないことを周囲に早急に宣言していかなければならない。そうしなければ評議会の公平な力関係が崩れるからだ。
すでに警戒している人間は多くいる。彼女の特性とラチェスタの立場は後見人として相性が悪かった。
それに政治的なものを除いたとしても、自分に二十も歳下の女子の世話などは向いていない。不適正だと感じていた。
しかしながら、他ならぬゾマドが数多くの知人の中から自分に白羽の矢を立てたのだから、そこにはやはり意味があると思っている。それに、そもそもが彼の受け渡してくる案件が容易だったためしはないのだ。
現状ラチェスタはできうる限りで彼女を護り支える腹づもりではいるが、このままでは周囲が放っておかないだろう。早い段階で今後の処遇を決めて落ち着かせるのが一番かもしれない。
たとえば穏便な形でどこか遠方に嫁に出してしまえば、少なくともエルヴァスカ王家のいざこざからは遠のくことができる。
とはいえ、手にした人間が権力を持ってしまうおそれがあるため、これも妥当な相手を探すのは簡単ではなかった。
それに、本人の意思がある。
彼女の安全のために意に沿わない縁談を無理に纏めてやっかい払いするのはゾマドの望む形とは反するだろう。それがどんなに穏便にことがすむ相手だとしても、本人からしたら大人の都合で人生を決められてしまうことには変わりがない。
ラチェスタはこの方向性を考える時に浮かぶ人間がいる。
セシフィールの第一王子だ。
リュシュカはしばらく行動を共にしていた彼について、多くは語らなかった。
彼女が彼と行動していた一番の理由は身を守るためだという。
リュシュカは自分を利用しようとするために寄ってきた男にやすやすと騙されるタイプには見えないし、実際彼は自分を自国の政治に利用するために連れに来たのだとリュシュカ本人が教えてくれた。
しかし、その上でああも気にかけているのは、その関係を越えたなんらかの絆があるからに違いないのだろう。
セシフィールの王子にしても、結果的に命を賭して彼女を守り、最後はすんなりとラチェスタへと引き渡している。警戒こそすれど全面的に敵と認定もしづらく、測りかねていた。
ただ、事実だけを見ればやはり信頼に足る人物ではない。
彼女の気持ちを無視するわけにはいかないが、その意思にすべて委ねるには彼女はまだあまりに若く、未熟なのだ。
思案していると、バタバタと走る音が聞こえてきて、ノックもなしに扉が開けられる。
「ラチェスタ! ごめんなさい! 厨房、水浸しになった!」
「リュシュカ、入るときはノックを」
「いやでもマジで水浸しなんだって! 足首あたりまできてる! わ、わたしだけが悪いんじゃないんだよ! ミュランもだいぶ……」
「ノックを」
「……はい」
リュシュカはここに来てからすでに、勝手に屋根に登り破損させ、木に登り怪我をした。それだけじゃなく厩番に隠れて馬を走らせようとして怒られ、つまみ食いをして料理人に叱られている。
……この問題児と短期間とはいえ平然と共に旅をしていただけでも、セシフィールの王子はおそらく只者ではない。
これまでまるで視野に入れていなかったセシフィールとその国の王子、クラングランはラチェスタの中で重要な位置へと収められている。
安全の確保のため、リュシュカの部屋はラチェスタの屋敷内に用意した。彼女は数日前からこの屋敷で暮らしている。
世話係として年若いメリナという侍女もつけた。
少し抜けたところもある子だったが、自分が少なからず知るリュシュカの性格と育ちを考慮すると、上から抑えつけるようなベテランの年長者よりもこれくらい頼りない子のほうが相性がいいと思ったのだ。
その目算は半分は正しかった。最初は侍女をつけられるのを嫌がっていたリュシュカはメリナとうまくやっている。
しかし誤算だったことは、メリナがあっという間にリュシュカに取り込まれて一緒にふざけるようになってしまったことだった。メリナが仕事をサボるようになったわけではないが、明らかに距離感は見失っている。リュシュカのペースに呑まれているのだ。
もちろん全員に通用するわけではないが、リュシュカは確実に一部に対して伝播力を持っている。
悪意がないのはわかるので計算づくではないのだろうが、彼女を前にすると飾らない素の部分が自然に出てきてしまう。
ラチェスタの支配下によりどことなくピリピリと張り詰めていた屋敷の雰囲気はリュシュカが来てからあっけなく崩されてしまった。
もっともラチェスタは自分が無意識に他者を萎縮させてしまう体質なのはわかっていたので、崩されたそれにそこまでの抵抗感はない。
ただ、リュシュカが問題を起こすたびに破天荒だったゾマドの高笑いが聞こえる気がして苦笑いをしている。




