ラチェスタ(1)
リュシュカは目を開ける。
白い壁の大きな部屋にいた。あたりは明るくて、どこか天上じみた陽が射している。
広い寝台で半身を起こす。少し体が痛んだ。
まだ寝ぼけていて、状況がよくわからない。
すぐそばに誰かがいる気配があり、そちらを見た。
金色の長い髪に、空色の瞳を持つ美しい天使がいた。
ああそうか。きっと自分は死んだのだ。それで、天に昇った。
それなら、爺ちゃんもどこかにいるかなあ。会いたいなあ。
そんなことを考えていて、ふと気づく。
あれ? でも、この天使の顔はどこかで見たことがあるな。知り合いに天使なんていたっけかな。
天使の整った薄い唇が開き、声を紡ぎ出す。
「ご無沙汰しております。ラチェスタ・ミンファイです」
「ラチェ……スタ……? ああ……ラチェスタだあ」
肩よりも長くまっすぐに伸びた金色の髪に、宝石のような色合いの空色の瞳。両方の耳に揺れている菱形のエメラルドのイヤリング。
穏やかそうだけれど、同時にどこか気難しそうな、女性的なその顔は、言われてみればラチェスタのそれだった。
初めて会った時、彼は二十五、六歳くらいだったろうか。あれから十年ほど経っているが、その姿は驚くほど変わっていない。
「……ここどこ?」
「ルノイにあるエルヴァスカ王室の隠れ家です。貴方は三日ほど眠っていました」
「……そんなに?」
どう考えても寝過ぎだ。そりゃ体も痛くなる。
「ゾマドの死後、助けるように言われていたので、貴方を探していましたが」
「うん……ちょっと逃げてた。ごめん」
「いえ、もともとゾマドから、やすやすと捕まらないかもしれないとは言われていましたから。予想より少し時間がかかりましたが、想定の範囲内です」
「なんだ。爺ちゃん、わたしが言うこと聞かないのもお見通しだったかあ……ラチェスタが助けてくれたの?」
「いえ。私が来た時にはすでに、札付きの暗殺者が貴方と共に倒れておりました」
それを聞いて、ようやくここに至るまでの状況を思い出した。リュシュカはパッと顔を上げる。
「……クラングランは?」
「貴方と行動を共にしていたセシフィールの第一王子ですね。彼も貴方の傍にいましたよ。私の名を確認してから自分も名乗り、貴方を私に引き渡して国に戻りました」
「無事だったんだ……よかった」
「ええ。正直彼がいなければもう一週間は早く貴方を回収できていたんですがね……ただまあ思っていたよりも乱暴な輩が多かったので結果として目を瞑るよりありません」
穏やかな口調で言うラチェスタを見てリュシュカは言う。
「わたしは……これからどうなるの?」
「それを今、決められるのは貴方だけです」
「うん……」
「ゾマドの使っていた後見人制度は正式には“特例後見人“と呼ばれるものです。元はかなり昔に軍の一部で使われていたもので、対象への支配力が強い代わりに対象の行動の全責任を後見人のみが負う……つまり、家柄も血筋も無視して、後見人の“所有物“として扱われる、ある種非人道的な、特殊なものです」
「…………」
「ゾマドは特別に王からの許可を得て貴方にそれを持ち、長く貴方を守っていました」
「それ、後見人が死んだらどうなるの?」
「……それが成人後であれば、もともとの出自とは完全に切り離され、貴方自身が自由な権利を持ちます。たとえ王家の血筋の者であっても、勝手に嫁に行こうが、他国の国籍を持とうが、自由です。だからそれは貴方を王家のしがらみから切り離し育てたゾマドの死後に、貴方が成人していれば名実ともに王家の一切から解放される仕組みだったのでしょう」
爺ちゃんはそんなことを考えていたのか。
エルヴァスカの成人は十八で、リュシュカは今十六なのであと一年半だった。あと、もう少しだったのに。
「未成年の場合は?」
「立場はもともとの出生に準ずるものとなります。貴方の場合は、王家ですね」
「ラチェスタ、わたしは王になる気なんて、微塵もないんだけど……」
ラチェスタは頷き、よどみなく言う。
「もちろんです。貴方は、貴方です。国や誰かの都合に動かされて生きる必要はありません」
「それでいいの?」
「ええ、私が……というよりは亡きゾマドの意志がそれを許しません」
「爺ちゃん……」
「それでは、確認いたします」
「え?」
「私を貴方の特例後見人にしていただけますか?」
リュシュカは数秒動きを止めてラチェスタを見た。
そもそもこの国では未成年はひとりでは生きにくい。それにたとえばなんとか自活したとして、リュシュカを利用しようとする輩はどこにでも押しかけてくるだろう。それを邪魔するために手っ取り早く消そうとする輩も来るかもしれない。現状、その全てにひとりで対応する力が自分にあるとは思えない。
クラングランの喉元に光っていた刃が脳裏を過ぎる。
旅の終わりに自分の無力さは嫌というほど思い知った。結局自分はまだひとりでは何もできない子供なのだ。
リュシュカがこの世界で心の底から信じ、頼れるのは結局今も昔も爺ちゃんだけだ。
その爺ちゃんがラチェスタを頼り、後見人になってもらえと、最初からそうしろと言っていた。
リュシュカはこくりと頷く。
「よろしく」
そう言って、震える手を差し出した。ラチェスタは微笑んでその手を取る。
「何か望みはありますか? もし、貴方に望みがあれば私はできうる限りで叶えるために尽力します」
クラングランの顔がふっと浮かぶ。
リュシュカは下唇を噛んだ。
「ラチェスタ……わたしは、もう二度とあんな思いをしたくない。魔術を、きちんとコントロールして使えるようになりたい」
「はい。それが貴方の望みならば」
「ずっと……できなかったから、やっぱりできないかもしれないんだけど」
ずっと、気になってたことがある。
爺ちゃんの遺書にも結局出てこなかったけれど、もしかしたら幼い自分が魔力を暴走させて、母親を死なせてしまったのではないかということ。
その話をした時に、クラングランは急に話を逸らした。気を遣われたことで逆にその可能性に思い至ってしまった。だから余計に怖くなってしまっている。
「そう難しくはないはずです。貴方はすでにあの時、魔術を使っています」
「あの、とき?」
「私が貴方を迎えにいった時です。しばらく眠っていたのも、幼児期以降ずっと抑え込んできていた魔力の放出で体に負担があったんでしょう」
リュシュカの瞳が揺れた。
「貴方が魔術を使ったのだということは、セシフィールの王子からの説明でわかったことですが、周りの樹々も傷ひとつありませんでしたよ」
「そうなの……?」
「はい。貴方はあの時暗殺者だけを正確に、殺すことなく昏倒させています。あの暗殺者は何百人もの人間を手にかけていましたが、おかげさまで当局に引き渡すことができました。今後陽の光を見ることはないでしょう」
「でも……あれは爺ちゃんがやったんだよ」
「…………ゾマドが?」
ラチェスタは驚いた顔をしたが、リュシュカが短い瞬間に爺ちゃんの死んだ日の白昼夢を見たことを説明すると、少し考えたあとに首を横に振る。
「いえ……そんなことは……貴方の見たゾマドの夢は……それはやはり夢でしかありません」
「そう……なのかな……」
リュシュカはあの時、過去に爺ちゃんに言われていたことを反芻し、彼が使ったらこうなるはずというイメージの元で魔力を放出したのだと、ラチェスタはそう解釈したようだ。
リュシュカは傷ついた顔をしていたのかもしれない。ラチェスタの表情が少し和らいだ。
「悲しむことではありません。あなたの会ったゾマドが夢でしかなかったとしても、貴方があの時魔術を使えたのは、やはり彼が教えてきたことの成果なのですから」
「うん……」
それでも、あの時見た夢は。
春に短い期間だけ咲く花が散る中で、爺ちゃんがいつものように笑っていた、その風景は。
まるでついさっき見たことのように焼きついている。




