旅の終わり(3)
リュシュカは短い夢を見ていた。
もう春がそこまで来ている。
そんな、暖かでやわらかな陽射しが射し込む部屋でリュシュカは眠っている。
日々は小さな不満や退屈はあったけれど、生活の心配をすることもなく、心は庇護者から向けられる愛で満たされている。
部屋の外からはゴソゴソと誰かが動いている生活音が聞こえていた。
爺ちゃんはもう起きている。鍛錬から帰ってきて、朝餉を食べ終わったところだろう。これから畑に行くんだ。それは全部、当たり前に繰り返されている、いつものことだ。
爺ちゃんは毎日畑に行って……それから……。
寝ているリュシュカの脳裏に畑が浮かぶ。
それから眠るように死んでいる彼の姿が一瞬だけ想起された。
はっとして声を上げる。
「爺ちゃん!」
呼びかけると、爺ちゃんはまだ屋内にいるようだった。ひたひたと足音が近づいてくる。
「爺ちゃん、どこ行くの」
部屋の近くで気配が止まり、声が返される。
「畑だ」
ああ、駄目だ。止めないと。
このままじゃ、爺ちゃんが死んじゃう。
けれど、夢の中で思考していて体だけは深く眠っているようで、まったく体が動かせず、起き上がれない。
そもそもが爺ちゃんは老衰だ。べつに畑に行ったから死んだわけじゃない。本当は、止めたって無意味だ。そんなことはわかっている。
でも、今、生きてるうちに行かないと、最後に話もできないままだ。
玄関の扉が閉まる音がした。
リュシュカは寝ている自分の体から無理やり抜け出すような感覚で、彼のあとを追う。
玄関の外に出ると、畑の近くに咲いている扁桃の桃色の花びらが静かな風で舞っている。
頬を撫ぜる風は暖かく、かすかに甘い香りがした。
爺ちゃんは畑にいた。あの日と同じ格好で、爺ちゃんにしか扱えない、どでかいクワを持っている。
リュシュカの姿に気づくと動きを止め、笑った。
「爺ちゃん」
「おう、リュシュカ、起きたのか?」
「うん」
爺ちゃんは黙って俯いているリュシュカに怪訝そうに首を傾げる。
「なんかあったのか?」
「なんかじゃないよ! 勝手にいかないでよ……」
リュシュカの声に爺ちゃんは少し考えてから、苦笑いする。
「ああ、そりゃあ……いくらお前でも、無理な相談だな」
爺ちゃんは手を伸ばしてリュシュカの頭をくしゃりと撫でる。
「てかな、おめぇはまだ部屋で寝てるはずだろ。どっから来た?」
息苦しさがぎゅうっと込み上げてくる。
これはきっと、甘えの感情だ。自分が遠慮なく頼っていい相手に、我慢していた感情を全部ぶつけて泣き叫びたいような気持ちになる。
「爺ちゃんが死んでから……色々あったんだよ」
「そうか。まぁ、あんだろな……悪かったなぁ」
「ううん、今まで……ありがとう。爺ちゃんがいろんな面倒から全部守ってくれてたんだね」
「ガキが気にすることじゃねえ。もともとおめぇは生まれてきただけで、なんの責も咎もねえんだからな」
「…………ふっ、うっ」
ずっと涙を堪えていたけれど、ぼたりと一粒が溢れた。
一度泣いたら、きっと戻れなくなるから、ずっと我慢していた。それが決壊する。
けれど、夢の中だからか声を上げようとしても、全部乾いた空気に吸い込まれていくみたいだった。
泣いても泣いても、何かがつっかえているみたいに、苦しいのがなくならない。
それがなぜなのか、何が心に引っかかっているのかを、リュシュカは急に思い出した。
「爺ちゃん……」
「ん? なんだ?」
「わ、わたし、今、どうしても助けたい人がいる。魔術を使いたいんだ」
「やり方ぁ、全部教えてあんだろが。使えやぁいい」
「でも、やっぱり無理な気がする……」
「前から言ってんだろ。怒るな。怯えるのもナシだ。そうすると全部がおじゃんになる。我慢しろ。心を整えろ。冷静に。そうすりゃあ、適度に発現する」
そんなの何度も聞いたから、知っている。
だけど、クラングランが今目の前で殺されそうになっているのに、冷静になんてなれるはずがない。
「でも……そんなの無理だよ! もし、このままクラングランが殺されたらわたし……今いる山ひとつくらい吹っ飛ばしちゃう!」
「おめぇはほんっとに……懲りねえわ、言うこと聞かねぇわ……」
「この状況で落ち着くなんて、難しいんだってば!」
爺ちゃんは「仕方ねぇなぁ」と言って頭をガリガリ掻く。
「俺が助けてやれるのは今回だけだからな?」
爺ちゃんがニッと笑って片手を振り上げる。
その、大きくて荒れた手のひらで視界が埋められた。
目を開けると一秒前と変わらない風景がそこにあった。
クラングランの喉元に、今にも食い込みそうな刃が光っている。
しかし、その風景が目に映ったのはほんの一瞬だった。
体の奥からこみあげてくる強い力の塊に揺さぶられるように、ぐわんと視界が歪み、平衡感覚が失われていく。
体から重たい何かがぶわっと弾けるように飛び出した。
ふつん、と視界が暗転して、そこからは落ちるような感覚に切り替かわる。
なんだかよくわからない闇の中にどんどん落ちていくような気がした。
「エルヴァスカ王の落とし子」第一章・了




