旅の終わり(2)
「……リュシュカ、気をつけろ」
「え?」
「誰か、見ている」
クラングランはリュシュカを連れて岩場の陰に入った。
「また、猪の……目玉の?」
「いや……今までまったく気がつかなかったんだ。あいつらよりよほど動きが洗練されている。あんな奴は今までいなかった。おそらく、かなり訓練された暗殺者だ」
山賊が出た時にも笑っていたクラングランが、珍しく焦りを滲ませた顔をしている。その表情だけで、緊張感が伝播する。
「このままだとまずい。俺が注意を引くから、その間にお前はあの上まで移動しろ。そこでしばらく待機して、もし俺が戻らなければそこから急いでセシフィールのほうに向かってくれ。何度か連絡しているから、抜けた先には迎えが来てるはずだ」
「え? え」
「いいか! 俺が戻らなくても……絶対にさっさと逃げろ!」
クラングランはあっという間に目の前からいなくなった。
そうしてリュシュカは彼の言う、“あの上“を確認して絶望した。
クラングラン、あんなところ、普通の人間には簡単には行けないよ! うっかりしすぎだよ!
それでも、言われた通りに傾斜のきつい岩場を登ろうとした。
どこかで、小さな呻き声が聞こえた。
それは、紛れもなくクラングランのもので、全身に鳥肌が立つ。
結局、そこを降りて、探しにいった。
何ができるわけでもない。けれど、ここで置いていって二度と会えないような憂き目だけは避けたかった。自分だけ生き残っても、よかったなんて全然思えない。
そっと覗く。クラングランが鉤爪を付けた男と向かい合っていた。
男は黒いフードとマスクで顔を隠していた。小柄だが恰幅がよく、それなのに素早い。服装は黒づくめだ。あえて国籍を感じさせない格好をしているのだろう。
顔に向かって幾度か攻撃がされて、クラングランは軽々とかわしていく。
「な、なんだお前! 強いのかよぉ!」
想像よりずっと甲高い声で、男が叫ぶ。
「そんなの許さない! 許さないぞ!」
感情的な声を上げて飛びかかった男は、クラングランの剣であっけなく鉤爪を弾き飛ばされた。
しかし、ひるむことなく、今度は腰に刺していた剣を取り出した。その動きは素早く、明らかに腕が立つ。それでも、打ち込まれる剣撃をクラングランはすべて受け止めていく。
リュシュカは息を止めて必死にそれを見ていた。
一見対等に見えるが、わずかにクラングランが押されている。
危うい均衡の中、相手の剣がクラングランの喉元をかすりそうになった時、リュシュカは思わず声を上げてしまった。
「クラングラン!」
クラングランがリュシュカに気づき、一瞬の隙が生まれる。男はそれを見逃さなかった。
剣撃を避けたクラングランが男の蹴りに弾き飛ばされる。ぐっ、と低いうめきが漏れ、背後の岩場に叩きつけられてぐったりとしてしまった。
男はゆっくりとクラングランに近づき、胸ぐらを掴み上げて顔面を殴りつけた。
男が「はは……」と小さく嬉しげな声を上げる。
それからもう一発、また顔を殴る。
血が岩に飛んで、そこに染みができていく。
また殴る。そのたびに小さく苦しげなうめきが聞こえてくる。
それを見て初めて思った。
ああ、これは現実なんだ。
昔から、リュシュカは爺ちゃんといて怖いことなんてなかった。どんな悪い奴が来ても爺ちゃんが負けるはずがないし、リュシュカは一度だって爺ちゃんが殴られたところを見たことがない。
ほんの数分前まではこんなことになるなんて思っていなかった。誰だかよくわからない奴らに追われているのも、爺ちゃんが死んだのも、どこかで、嘘みたいだと思っていた。
きっと、爺ちゃんが、クラングランが、怖くない嘘みたいにしていてくれたんだ。
男はクラングランを殴るのをやめない。
クラングランが何度も殴られている。
たまりかねてまた声を上げる。
「やめろ!」
男はリュシュカの声に動きを止めた。
血まみれの手で頭を掻き、思い出したように言う。
「あぁ、あっちが殺す相手だった……もっと殴りたかったけどなぁ。でも死ぬと人質にならないし」
男はこちらに見せつけるように、クラングランの喉元にナイフを突きつける。
「こっちに来なよー! でないとこいつが先に死ぬよー!」
何か、どうにかして助けたいのに、どうすることもできない。何もできない。途方もない無力感に襲われる。
行ったからといってクラングランが生かしてもらえるかはわからないけれど、男はリュシュカを狙っているのだから、クラングランは完全に巻き添えだ。
死ぬなら、自分だけにしたい。最早自分はそれを乞うくらいしかできない。
クラングランの目がうっすらと開いて、彼がすぐに口を開く。
「リュシュカ、逃げろ」
クラングランの喉元には鋭利なナイフが光っている。そんなこと、できるわけがない。
心臓が苦しいくらいばくばくいっていた。
汗が吹き出して、呼吸も苦しい。
こんなことになるのならば、魔術をもっとちゃんと練習しておけばよかった。体術も、もう少しだけでもきちんと教わっておけばよかった。
爺ちゃん。
急にいなくなるなんて思ってなかった。元気なうちに、もっと色々教わっておけばよかった。
現実感が妙に薄い。
胸が絶望に塗られていくさなか、頭の後ろはすっと冷えていて、全てを諦めるように促していた。
爺ちゃん。
爺ちゃん。助けてよ。
ぎゅっと目を瞑る。
不意に、ふわりと意識が遠のく感覚に呑み込まれていく──




