国境を目指して
「爺ちゃん」
最近、よく同じ夢をみる。
夢の中では決まってあの日の朝だ。
爺ちゃんが、死んだ日。
眩しい朝の光が射している中、リュシュカは寝ている自分を見ている。
扉の外ではガタガタいう爺ちゃんの気配を感じている。きっと、いつものように早くから鍛錬をして、朝食を食べて、それから畑へと行くのだ。
「爺ちゃん」
何度か呼ぶが、爺ちゃんは畑に行ってしまう。
──待って。爺ちゃん。
***
「……意外にストレスすごいのかなあ」
「俺と結婚するためにそんなに疲れきって……かわいそうに」
「目玉取られないためなんだけど……」
「冗談だ」
「その顔で言われるとマジでいけすかない自信過剰かモテ男みたいで笑えないな」
「俺にはそういうほうが似合うんだろ?」
「なんで?」
「……国では気障な男の振る舞いが喜ばれた」
「クラングランには似合わないよ」
おぞけしか立たない。
「ていうか、わたしといる時にほかの女の話をするなんてひどいわっ! バカバカ!」
「……お前もそのキャラ驚くほど似合わないな」
旅はいよいよ終わりへと近づいていて、もうこのあとはセシフィールとルノイがわずかに面している国境の山を目指すばかりとなった。
不便さからほとんど人が使わないような国境だ。だからそこまでも道といえるような道はない。
岩、岩、岩、たまに樹木、といった感じで、ここを過去に通った人はいるのだろうかと真面目に考え込んでしまう酷い道だった。おまけにそういう場所は山賊や犯罪者が寝ぐらにしていることも多いので、気を抜いて歩くこともできない。
先に行ってしまっていると思っていたクラングランが、ほんの少し高い岩場の上でこちらを見ながら待っていた。
「……掴まるか?」
「……うん」
この高さはちょっと頑張ればリュシュカひとりでも登れる。けれど、差し出された手を取ると、驚くほど楽に引き上げられた。
クラングランは、最近ちょっと優しくなった気がする。
いつからかと遡ると、リュシュカが宿でメソメソ泣いたあたりからかもしれない。
それまでも優しかったけれど、素直じゃなくてわかりにくい上に、どこか遠慮があり距離が空いていた。それがまた一段階なくなった。それは、友情が深まったことを意味していて、とても嬉しい。
クラングランはどんどん優しくなるし、甘えさせてくれるようになっていっている。
累積した疲れから落ち込みぎみのリュシュカだったが、心のほうはだんだん持ち直してきているのはきっとクラングランのおかげだ。
「クラングラン、ちょっと手、いい?」
クラングランは不思議そうにしながらも、言われた通りに手を差し出してくる。
リュシュカはにんまり笑って、大きさも硬さも自分とまるで違う彼の手を握る。
しばらく目の前には平坦な道が続いている。特に段差があるわけではないので必要はない。ただ、リュシュカがそうしたかっただけにすぎない。
数歩行って、それにまるで意味がないことに彼も気づいたようだった。一瞬だけ呆れた視線が寄越される。
リュシュカはクラングランのほうを見ないようにして、つながった手にきゅっと力を入れて、もくもくと歩き続ける。
しばらく行くと、握った手にリュシュカがしたように、きゅっと力が込められた。
胸がいっぱいになっていく。
ニコニコしているリュシュカに、クラングランが真顔で聞いてくる。
「リュシュカ……お前は異性との接触は苦手だったんじゃないのか?」
「いぇ? あっ、こ、これはぁ……異性とか、そういうやつじゃないし!」
「ああ……なるほどわかった。もういい」
クラングランは呆れた息を吐いてほんの少しむくれた顔をした。
「ねえ、クラングランの話、もっと聞かせて」
「ならお前は代わりに……」
「うん?」
「ゾマドの話を聞かせろ」
「そこ、わたしの話聞きたがるべきじゃないの?!」
「同じことだろ」
クラングランはふんと鼻を鳴らす。どこか不機嫌混じりだった。
「クラングランは、どこで剣術は教わったの?」
「最初は国の騎士団で稽古をつけてもらっていたんだが、相手になれる者がどんどんいなくなり……相手の格がどんどん上がっていった」
「最後は騎士団長?」
「いや、それはうまいこと言って逃げられた」
「エルヴァスカならなぁ、絶対爺ちゃんが相手してくれてたよ。騎士団の一番上の総帥だったらしいから」
「……それから、セシフィールでは相手をしてくれる奴がいないから、こっそりルノイの剣術大会に仮面をつけて出たこともある」
「どうなった?」
「楽に優勝しかけたが……正体を隠していたから、表彰前に逃げたな」
「爺ちゃんはエルヴァスカの大会十連覇して、大会のパワーバランス崩れるからもう出ないでくれって泣きつかれて殿堂入りしてたんだよ!」
「お前マジでゾマドで張り合ってくるな……」
「爺ちゃんすごいから!」
爺ちゃんの遺書で武勇伝はたくさん見た。
どれも嘘みたいな内容なのに、爺ちゃんを知っているとまったく嘘には感じない。途中はだいぶ自慢みたいな内容が続いていたが、誇らしく思うばかりだった。
「……イカは味が嫌いなの?」
「以前……腹を壊して酷い目に遭った」
「それでかあ」
しばらく穏やかな道が続いていたが、そのうちに道はまた荒れていき、リュシュカは無口になっていった。慎重に行かないと怪我をするからだ。きちんとバランスを取って、時に手も使って登ったり下りたりするので、ふざけてつないだ手も自然と離れた。
そこは小さな滝を挟む岩が乱立した地帯で、場所によっては濡れた苔で足元がぬるついている。
「待って。クラングラン……わあっ」
リュシュカは岩と岩の隙間に足を挟んで転倒した。
「うう……油断してた」
ここまでどんなひどいルートを通らされても無傷できていたというのに。ささやかな誇りが打ち砕かれて、リュシュカは半べそになった。
「大丈夫か?」
少し先を行っていたクラングランが目の前まで引き返してくる。
「たぶん骨には、いってない。痛みもそこまででも……ただ……擦れたから出血してるかも」
靴の中に気持ちの悪いぬるついた水分の感触があった。
「リュシュカ、そのままそこに座ってくれ」
クラングランに言われて岩に腰掛ける。
彼はリュシュカの一段下の岩場に降りて荷物から医療品をいくつか取り出していく。
クラングランは相変わらず荷物に視線をやりながら、無造作に片手を差し出して言う。
「ここに足を出して」
「え……ここって、そこ? その、手の上?」
「そう」
ええぇ〜。そこに置くの?
ためらいながらも怪我したほうの靴を脱ぎ、裸足の足を差し出した。思った通り血で汚れていた。
クラングランはリュシュカの片足をひょいと手に持った。
それから、傷の位置を確認するように顔を近づける。クラングランが足の角度を変える時、指がそっと擦れる。ぞわりと神経が波立った。
クラングランは水を染み込ませた布でそっと血液を拭き取り、足を清めていく。くすぐったくて、わずかに逃げようとする足はしっかり掴まれていて、逃げられない。ムズムズする。
「っ、……クラングラン……あの……っ」
「なんだ?」
「はなして」
「まだ終わってない」
クラングランは傷の手当てをしているだけだ。
それでも、触れる指先にぞくぞくが込み上がり、息が荒くなりそうなのを必死で堪える。なぜだかどんどん顔が熱くなっていく。
どうしよう。クラングランのエロスイッチが入っている。
いや、本人はエロいことしようなんてまるで思ってなさそうだ。手当だから。これはむしろリュシュカのエロスイッチなんだろう。
そうなると、クラングランは何も変わってないのに、急にものすごく恥ずかしくなってしまうことがある。
これは手当てでしかないのに。異性がどうとか、男女のそういう感じのあれじゃないのに、本当にどうかしている。クラングランは悪くないのに。
「…………っ、ぁ」
いや、やっぱり絶対クラングランが悪い。クラングランて、たまに急に猥褻物になりさがるところがある。そういうのが悪いところだ。
「ゃ……あの、じ、ぶんでできる……から、離して」
クラングランは、リュシュカが真っ赤になっているのにようやく気づいた。ぱっと手を離す。
「悪い……国では幼い頃に妹にしてやってたから……」
リュシュカは残りの包帯をひったくって、ぐるぐる巻きながら口を尖らせる。
「そういうのって、お付きの人がやるんじゃないの?」
「俺じゃなきゃ嫌だとごねるから……なら俺がやったほうが早いだろ」
「うーん……わかる気がする」
クラングランは黙ってさえいれば絵に描いたような王子様だ。妹が懐き、そんな甘えた我儘を言いたくなるのも頷ける。
「……でも、わたしは妹じゃないよ」
「そうだな。よく知っている」
リュシュカは手早く手当を終えると医療品を荷物に戻し靴を履いた。だいぶすっきりしたし、わずかにあった鈍痛もさっきの手当の衝撃で飛んでいった。
クラングランは、この間から本当に優しい。
ほんの少し違和感を覚えるくらいに。
けれど、リュシュカは嬉しさからそれを彼と打ち解けたからだと思った。初めてできた友達に浮かれていたのだ。
「クラングラン、妹とは似てる?」
「俺とはあまり似てないな。妹は父親似なんだ」
「セシフィールに行ったら会える?」
「…………」
クラングランはなぜだか黙りこんだ。
だから質問を変える。
「妹、どんな子?」
「そうだな……あいつは真面目な奴だ。今十四だが、あと二年したら結婚も決まっている」
「やっぱ政略結婚なの?」
「いや……昔からの馴染みで仲のいい公爵家だ。あんな小さな国で、政略結婚なんて俺だけすれば十分だからな」
「いいお兄様だねえ」
ぽつぽつ話しながら歩いていたが、そのうちに傾斜がきつくなり、リュシュカが疲れて話は再び途切れた。
無心でもくもくと歩く。ただひたすらに歩く。
やっぱり足が痛い。
「クラングラン、ごめん。ちょっと休む」
リュシュカが座り込み、クラングランが少し先から戻ってきた。
もう最後の一踏ん張りだ。しかし、続いていた旅の疲れが蓄積していて、自分の予想より体がバテるのが圧倒的に早い。日々、どんどん体力量が少なくなっていってる気がする。
「うーん……大丈夫か? 水飲むか?」
ひどい怪我をしても、熱を出しても一日二日で治してしまうクラングランには、おそらくリュシュカの疲れは本質的にはわかっていない。
だからそれは自分とは違う種族の小動物が風邪をひいたそれに、怪物がよくわからず回復を励ましているような空々しさがあった。
「女は……思った以上に弱いものなんだな」
「女っていうか……人間ね、にんげん」
どこか不思議そうに心配するクラングランに、『ニンゲンは脆いんだなぁ』と言って千切れた足を指にぶら下げて困った顔をしている怪物の姿が連想された。
「今日はもう、この辺でやめておくか?」
「うん……そうしたい」
水を飲み、は、と息を吐いてあたりを見まわす。木と草と乾いたくすんだ薄茶色の土ばかりがあった。
しかし、上を見上げるとそこには山がそびえている。
「……もしかしてあの山?」
「ああ、あれが国境の山だ。抜け道は知ってるからそこからは早い。明日には国に入れる」
明日。
長いようであっという間だった旅が終わる。




