海の見える街(4)
翌日。ゼルツィニの街でたっぷり英気を養った二人は宿を出て出発しようとしていた。
「この街は食べ物がおいしかったなぁ……お魚のグリルにもぎたてのレモンぎゅうって絞って食べるの最高だったし、お祭りの羊の炭焼きも絶品だったし、小麦麺に香草とヨーグルト和えたやつも夢みたいにおいしかったし、ソーダに香草で味付けしてる飲み物も癖になった。あとイカ……」
ちらっとクラングランを見る。
「……エビも忘れるな」
「うん、あれも辛いけどすごいおいしかった……てか、楽しかった」
その時、路地の前に見知った姿があった。
こちらに手を振っている。
「ねえ、あれ、クシャドじゃない?」
「そうだな。探す手間がはぶけた」
大きいから見間違えようがない。クラングランが手を振り返すと、彼は焦った顔でこちらへ来た。
「……こ、これから発つのか?」
「うん、いろいろありがとね! すっごく楽しかった!」
クシャドは「そうか……」と言って頷く。
少し様子がおかしい気がするけれど、何を言うでもない。詮索をしない関係はこういう時に何もできない。仕方なく行こうとすると呼び止められた。
「ま、待ってくれ」
クシャドはボソボソと下を向いて言う。
「頼む。こっちに……き、来てくれ」
二人は顔を見合わせたが、頷き合って彼についていくことにした。クシャドが何か困っているのかもしれないと感じたのだ。
「こ、こっちだ……」
クシャドはどんどん細い路地に入っていく。
クラングランとまた視線を合わせる。彼も不思議そうにしていた。少し不審に思ったが、そのままついていく。
連れてこられたのは袋小路だった。
「クシャド、一体どう……ッぐ」
クラングランは背後にいたクシャドから突然羽交締めにされた。
「よくやったクシャド」
猪みたいな風体の男がぞろぞろと現れて、クラングランの腰の剣を取り上げてしまう。
「クシャド!? どうしたの?」
一目見ただけでリュシュカの目玉を狙う奴等だということがわかる。その人数は前回より増殖していて十人以上いた。
あっけに取られているうちに、別の男にリュシュカも背後から首元に腕をかけられ、動きを封じられた。
「クシャド……お前……」
クラングランが咳き込みながら言って背後で捕まえている彼を見る。彼は気まずそうに目を伏せた。
リーダー格の猪人がクシャドに向かってニヤニヤしながら言う。
「この能なし、せっかく標的からめでたい面下げて近寄ってきたってのに何度もしくじりやがるから廃棄処分するとこだったよ」
男は周りに聞かせるように言う。その声は下卑た笑みを含んでいる。
「ただの肉壁にしかならないと思っていたのに、まあまあよくやったんじゃないか? このままベルテミス殿下の言うとおりにしていればお前も少しくらいは引き立ててもらえるかもしれないぞ」
「はははっ、靴を舐める係とかな!」
「見世物小屋の廃棄処分品には贅沢すぎんだろ!」
猪人たちはぎゃっはっはと大声で笑った。
リュシュカが不用意に話しかけたクシャドは、猪一派の仲間だったらしい。話しかけてくる相手には警戒しても、自分から話しかけた相手が騙そうとしてくるとは思わなかった。完全に油断していた。
ただ、猪人くらいならば、何人いてもクラングランがいれば逃げることは十分できる気がする。
クラングランと違ってリュシュカを抑える手は雑で緩いものだ。リュシュカさえ先にこの場から逃げられれば、クラングランは動きやすい。
とりあえず、なんとかして先に……そんなことを考えていると低い唸りが聞こえてくる。
「う……うう……」
見るとクシャドがクラングランを押さえつけながらボロボロ泣いていた。
それが目に入ったリュシュカは完全に思考停止してしまった。
「なんだこいつ……気持ち悪いな」
その異様さに何人かの猪人たちは不審がるが、猪人のリーダーは視界にも入れず、呑気に剣を点検している。あまり手入れがされていないようで、それは汚らしく錆びていた。
その間も、クシャドは苦しそうなまでにずっと嗚咽している。
「注文は女の目玉だが、ひとまず邪魔な奴を始末してからだな……クシャド、しっかり抑えてろよ」
そう言って猪人のリーダーがためらいなくクラングランに刃を向け、あっという間に振りかぶった。
しかし、クラングランの背後にいたクシャドがその刃を腕で受けた。
錆びついた刃はあまりに太いクシャドの腕の途中で止まり、血が噴き出す。
「クシャド!」
それを皮切りにクラングランがするりとクシャドの腕を抜け出した。すぐ近くで剣を構えた猪人の背後にまわり、首の後ろを払うように殴り昏倒させる。
クシャドも駆け寄ってきてリュシュカを捕まえている男を思い切り殴って解放した。
それからクシャドはリーダーらしき人物に真っ直ぐ向かっていく。
「おい、クシャド、お前、どういうつもりだ……」
クシャドはまだ泣いてはいたが、鋭い視線を男に向ける。
「は、初めてだったんだ……」
「な、何言ってるんだお前……」
「一緒に飯を食って笑うのも……た、ただ、他愛ない話をして笑い合うのも……」
「…………」
「と、友達って……言ってもらえるのも……」
クシャドは勢いよく血まみれの拳をぶちこみ、初めて大きな声を出した。
「今すぐ逃げろ!」
猪人たちはまだ何人も残っていたが、突然のことに動揺してろくに動けていない。
クシャドは鞘に収まったままのクラングランの剣を拾い、投げてくる。クラングランはそれを受け取るとすぐさまリュシュカの手を引いて走り出す。
走りながら振り向くとクシャドは残りの猪人たちを手当たり次第容赦なく殴っていた。
「クラングラン、いいの?」
「いいもなにも……いや、そうだな……」
もうかなり距離は空いていたが、立ち止まったクラングランは振り返り、叫んだ。
「クシャド! すぐには無理でも……いつか俺の国へ来い! セシフィールの王城だ! お前の名は通しておく!」
用心深いクラングランが、敵であったクシャドに自分の素性が推測できるようなことを伝えた。周りに聞こえるかもしれないのも構わずに。
リュシュカはなぜだかそれが自分のことのように、誇らしく思えてしまう。
声は届いたのだろう。遠くで大きなクシャドが手を振る影が見えた。




