【第5話】するめ、海獣に墜つ
変化描写は後半部分に詰め込みました。
「──いやいやいや、一組の豆田さんは……あの人はもう殿堂入りだろ〜!? 土日に街の方でモデルの仕事してるらしいぜ? プロと一般人を比べるのは、流石に反則っしょ〜。
……なぁ、海野。お前は誰だと思う?
「…………えっ?」
すぐ横にいた友人に不意に話しかけられて、その男子生徒──海野コウシは気の抜けた返事を漏らす。
まもなく校庭で二クラス合同の体育の授業が始まるというところ、体育教師がやってくるまでの間、日差しを避けて校舎横の木陰に男子生徒たちが気の合う者同士で車座になって待機していた。その同級生たちが視線を向けていたのは、校庭を半分に区切った反対側、担当教師が到着して一足先に授業を開始していた女子たちの方だった。
思春期真っ盛りの中学生というのは色々とデリケートな年頃である。この学校では生徒たちに配慮して、体育の授業はなるべく男女別々の場所で行うことになっている。片方が校庭ならば、もう片方は体育館、といった具合に。とは言え、海沿いの小さな田舎町にあるこの中学校の中で体育の授業ができる場所などはたかが知れているので、結局はこうして校庭を男女それぞれ半分ずつに区切って使うということも珍しくはない。
「あ、ごめん、よく聞いてなかった。何の話だっけ?」
「なんだよ〜。学年の女子の中で誰が一番可愛いかっていう、定番トークに決まってるだろぉ?
恥ずかしくなって聞かないふりしてたんじゃねぇの〜?」
「いや、そういうつもりはなかったんだけどさ」
実際のところ話が耳に入っていなかったのは本当なのだが、海野自身もたまたま女子の方を見ていたものだから、内心ドギマギしてしまう。
強い海風が吹き込んで砂埃が上がってしまわぬよう、校庭の大半の箇所は芝生で覆われている。その、やや赤ちゃけた風合いの芝生の上で、丸首とショートパンツの体操服姿に着替えた三十人ほどの女子生徒たちが、それぞれ二人一組になって準備運動を行なっていた。
上下半袖の体操服から伸びる女子たちの素肌は校庭に降り注ぐ陽の光を受け止め照り返していて、同い年であるはずのコウシにとってやたら眩しく見える。
「いや…………僕は別に、誰でも良いっていうか、あんまりそういうのには興味ないっていうか」
「おー? …………絶対嘘だな、それは」
「誤魔化そうとしてもそうはいかんぜ? 今、明らかにあの女子たちの中の、誰かに注目してただろ?」
「正直に白状しちゃえよー。別に他の奴らにバラしたりしないし。俺らももう全員発表しちゃったし」
「う、うーん……」
少し考える素振りを見せた後、諦めたように軽く溜め息を吐いてから、コウシは答える。
「僕は…………伊香保さんかな、女子の中で可愛いなあって思うのは」
「「伊香保…………?」」
同級生たちにとってその答えは予想の外にあったようで、一瞬、全員が沈黙して考え込む間があった。
各々に女子の方、その名前の持ち主の姿を確かめて、だんだん得心がいったような表情を浮かべ始める。
「…………あ〜! はいはいはい、するめちゃんのことか」
「なるほど、そうくるかぁ。ああいうタイプね、なるほどね……」
「なんか、言わんとしてることは分かる気がする」
正直に告白してしまって照れ臭そうにモジモジしているコウシを囲んで、それぞれにその女子についての私見を述べ始める。
伊香保するめという女子生徒は、普段校内で注目を集めることのほとんどない大人しい娘だ。
この田舎の中学校において男子からの人気を集めやすい女子生徒というのは、運動部で活躍しているような溌剌としたアクティブな子だったり、自分から積極的に男子と絡んでいけるコミュ力強者など、要はその仕草や振る舞いに分かりやすく華のあるタイプである。伊香保するめは、そこには当てはまらない。
傍から見ていると、いつもきちんと校則を守って身だしなみをしていることが分かる。肩にかかるくらいの黒髪を頭の後ろでお団子に結び、黒縁の眼鏡をかけていて、制服のスカートは膝が隠れるくらいの丈をキープ、ブラウスはきちんと第一ボタンまで留めたうえタックインしている。いかにも優等生という雰囲気を崩さない。
教室内ではいつも隅っこの方で仲の良い女子の友達数人とひそひそとお喋りをしている、という印象が強い。男子と会話をしていることはあまりなく、実際この会話に参加している者の中でも、彼女の人となりについて詳しく知っているという者はいなかった。コウシ自身も、彼女とは委員会や授業絡みの用事で何回か言葉を交わしたことがある程度である。
「話したことないからどんな人か知らんけど、いかにも良い子って感じだよなぁ」
「地味な眼鏡かけとるし、メイクも全然してないみたいやからあまり目立たんけど……。顔立ちは割と整ってるような……。原石という可能性はあるな」
「いやー、俺は完全ノーマークやった。でも確かに、伸び代は結構ありそう」
このように、一番人気に挙げる者はいない代わりに、特に異論を唱える者や悪く言う者もいない、という具合の評価に落ち着きつつあるようだ。自分のことを話されているわけでもないのに、コウシはだんだんくすぐったい気分になる。
「…………言われてみれば、あの子、前と比べると表情がイキイキしとる気がするな。彼氏ができた、って感じではないけれども」
「お、それならもしや、海野にも勝機が……」
「そういや新学期に入ってから、隣のクラスのみつきちゃんと二人で一緒におるとこ、よう見かけるようになったな」
「今まさに、あそこで一緒にストレッチしとるあの子やね。彼女ら同じ部活だったっけ?」
「そもそも部活入っとんのかね?」
「分からん、データがなさ過ぎる」
「…………話の流れとは趣旨が変わるかもやけど、みつきちゃんも結構可愛いよな」
「分かる」
「マスコットキャラ的な可愛さがあるよな」
「お、ちょっと見てみろよ。面白いことになってんぞ」
一団が彼女らの方をこっそり覗き見ると、二人背中合わせになって腕を組み、互いを背中に乗せて持ち上げることで背筋を伸ばすストレッチをしていた。
みつきの小柄な身体がするめの背中に乗せられ持ち上がり、運動靴を履いた両足が地面から離れて完全に宙吊りになる。『倉下』と苗字が書かれた大きな名札ごと、彼女のふっくらとした胸の膨らみがピンと張った状態で上を向いている。
「あぁ〜極楽〜……」とかなんとか言ってそうな、力の抜けた顔をしている。
「実は意外と立派なものをお持ちなんだよな、あの子……」
「そう、意外と、な……」
「すげぇ、お腹がでろーんって伸びてるぞ。めっちゃ柔らかそう」
「本当は液体なんじゃないのか、あのお腹」
「ウチの猫がオカンに抱えられた時みたいになってる」
「一家に一人欲しいよな。眺めてるだけで癒されそう」
「分かる」
「…………あっ、ハルティー来たぜ。整列せな、整列」
だんだん話の内容が本題からズレ始めた頃、校舎の中から男子担当の体育教師が姿を現したため、一同は腰を上げ、木陰から日向に出て並び始める。
「なかなか面白い話ができたぜ。海野、サンキュー」
「話しかけて仲良くなれたら、案外チャンスあるんじゃねぇの? 競争率そんなに高くなさそうだしよ」
「あ、う、うん。そうなのかな……」
自分の上げた名前から会話がこういう広がり方をするとは思っていなかったので、コウシはなんだか胸の中がムズムズするような感覚を抱きながら、授業の列に加わる。
本当だろうか……。ちゃんと頑張れば伊香保さんとお近づきになれる可能性が……?
するめに負けず劣らず、コウシも教室内では大人しく目立たないタイプである。
こういう男子生徒と女子生徒というのは、外観上の系統は似通ってはいても、実際は互いに最も接点のない者同士だったりする。
知らない相手に積極的に話しかけることがなく交友関係が広くはない以上、当たり前と言えば当たり前のことなのだが。
でも、何かしら話しかけるキッカケさえ見つけられれば、もしかすると……。
コウシの気分がだんだん高揚してくる。
たまに図書室で、彼女が何かの本を借りたり読んだりしている姿を見かけたことならある。
どんな本を読んでいるか分かれば、自然な形で話しかけられるキッカケにできるかもしれない。
家ではどんな感じなんだろう。
学校での優等生ぶりから想像するに、親の家事を手伝って、それから自分の部屋で好きな本を読んでいる、とか……。
まだ大して親しくもない相手の私生活を想像するなんて気色悪いことだとは分かっていても、どうしても気になってしまうコウシだった。
果たして自分は、彼女とそんな親密な話をできるぐらいの仲になれる可能性があるのだろうか?
その点についてはただただ未知数でしかない訳だが……。
伊香保さんは、自宅でどんな風に過ごしているのだろうか。
そんな、頭の中にすっかり居座ってしまった好奇心を横目に、グラウンドの内周を準備運動のランニングで流していく。
◆
土曜日の午後の昼下がり、半日授業も終わって、するめは既に帰途についた後だった。
家に着くなり、脱衣場に向かったするめは制服を脱いで現在は部屋着として使っている古い方の体操服に着替える。ついでに、学校鞄から今日の体育の授業で使った新しい方の体操服を取り出して洗濯機に放り込む。
台所に行くと、母親が作っておいてくれたお昼ご飯があるので、ラップがかかったそれを温め直して食べる。
祖父母は漁協の会合、父親は仕事、母親は買い出しに出掛けていて、午後の間中、家にはするめ以外誰もいない。
「ごちそうさまでした」
食後のお茶で一服したあと、使い終わった一人分の食器をさっさと洗い流してスタンドに立てかけておく。
脱衣場に行くと食事前に回し始めた洗濯機が乾燥まで済ませてくれていたので、中身を取り出しハンガーにかけてベランダに干しておく。家族全員分の洗濯や食器洗いをまとめて片付けようとするとなかなかの重労働なのだが、自分の一人の分だけならなんということはない。
自分の部屋に戻って、部屋着の体操服姿でベッドの上にゴロンと寝転がる。
右手には、アスティからの急な呼び出しがあっても大丈夫なように、エネルギーコンパクトが握られている。
「はー、午後は何をしようかなー……」
口ではそう言いつつ、午前中に体育の授業で身体を動かしたからかもしれない。一つ大きなあくびが溢れて、眼鏡を外してそっぽにのけてしまうと、するめの意識は少しの間、窓から差し込んでくるポカポカの陽気に包まれてウトウトと微睡んでいた。
…………そうして気づけば小一時間ほど、うたた寝をしていたするめだったが。
「んあっ……ん……んんっ…………?!」
妙な感覚に襲われ、半覚醒の浅瀬に浸っていたするめの意識は異変に気づいて浮上してくる。
なんだか、身体の様子がおかしいのだ。
「う、上手く力が入らない……?」
身を包んでいる体操服は新調前のものなので、元々身体に対してサイズが小さめになってきており、現在は部屋着兼水棲少女に変身する時の戦闘着として使っているものだ。
その体操服が、まるでひとりでにギュッギュッとするめの身体を締め付けてきているような、そんな感触がある。
「そ、そんな、まさか?」
目を開いたするめが傍を見やると、そこでは寝ている間に彼女の手からこぼれ落ちていたエネルギーコンパクトが開いて、まばゆい光を放ち始めていた。
「私の意思とは関係なく、勝手に水棲少女への変身が始まってるの?!」
シュルシュルと衣擦れのような音を起こして、純白色の丸首と赤色のショートパンツがするめの身体に密着、癒着していくと、その表面に素肌と同じような感覚が通っていく。
「ん、んんん……くすぐったいぃ……」
だんだんと水棲少女としての形態に近づいていくするめの身体だったが、異変はまだ終わらない。
どうやらするめの身体の変化は、通常形態の水棲少女の姿を通り越して、先日リヴァイアさんから支給された新能力──クラーケン・モードへの二段変身を一気に遂げようとしているようだった。
「きゃー!そ、そんなー?!」
丸首の白い生地がだんだんと上の方に膨張していき、するめの頭部をだんだん包み込んでいってしまう。同時に、丸首の袖口に施されていた赤い縁取りの穴の中へ、するめの両腕が、まだ発達途上で凹凸の控えめな胴体の内側に収納されるような形でズズズズッ……と飲み込まれていく。
「や、やだよぉー……。ぐむぅ、う、う……」
そんな声も虚しく、やがてするめの頭と両腕は完全に丸首体操服の内側に埋もれて見えなくなってしまった。
赤い縁取りがついていた襟元と袖口の三つの穴はまるで初めから何もなかったかのように消え失せてしまい、円筒状になった純白色の胴体の内側、必死にもがいて抵抗しようとする彼女の顔の輪郭が体操服の生地の表面にうっすら浮かんで見える。その横には、イカの胴体の先端部分、その両脇についているエンペラと呼ばれる大きな鰭が形成され始めた。
両腕が飲み込まれた肩のところから下半身の方向に向かってグニュッグニュッ……と、内臓の蠕動運動みたいな形で大きく蠢いているものがある。
それこそがおそらくは先ほど胴体の内側に飲み込まれた両腕のようで、だんだんと両腕のその太さの輪郭がお腹だったところを通り越して、赤いショートパンツに包まれた腰回りの方へと降りていっていることが分かる。
気がつくと、彼女の腰回りだった箇所にはイカの頭部が形作られている。骨盤の両脇あたりにはイカとしての両目が、両脚の付け根の間にはカラストンビと呼ばれる上下一対の嘴からなる口が現れていた。
そのイカの頭部と胴体の境目のところ、身体に完全に密着していたはずの丸首の生地のうち一箇所だけペロンと捲れているところがあり、そこから白い筒状の器官……漏斗と呼ばれるイカの排水器官が現れる。その漏斗が覗いている隙間から、するめの色白なお腹がチラリと垣間見えてしまっている。
下半身に降りていった両腕に視線を戻すと、その両腕は、すっかりイカの頭部に変わってしまった彼女の腰回り、その両脚の付け根から芽吹くように生えてくる新しい八本の腕の一部として再生され、再び身体の外側へと姿を現していた。
赤いショートパンツからスラリと伸びていたするめの色白の両脚は、いつの間にか丸首の生地と同様の純白色に染まり直しており、中を通っていた大腿骨など初めからなかったかのようにグネグネとうねり、新しい感触を確かめるように波打っている。この二本が、イカの十本の腕の中でもとりわけ長い触腕の役割を果たすことになる。その先端部分には丸首の赤い縁取りをそのままサイズダウンしたような見た目の赤い吸盤がビッシリと密生している。まもなく、新たに生えてきた八本の白い腕も十分な長さまで伸びていき、互いの位置関係が馴染んでいく。
最終的にそれら新しく生えた腕にも列を成して赤い吸盤が生え揃うと、彼女の全貌、そのシルエットはすっかり本物のイカそのものと違わないものとなってしまった。
ただ、その身体の模様は彼女が元々着ていた体操服のそれがそのまま残ってしまっている。元々はショートパンツに包まれた腰回りだった赤い頭部から、丸首体操服に包まれた上半身だった純白色の外套──イカの胴体と、こちらも丸首と同じ純白色に赤い吸盤が生えた十本の腕が繋がっている、という見た目をしている。また、胴体の真ん中あたり、元々は彼女の胸だったところには丸首の左胸に赤色で小さくプリントされていた校章マークと『伊香保』と黒文字で書かれた大きな名札が貼り付いたままである。その校章マークと名札越し、するめの胸の膨らみだったものもそのまま表面に浮かんでいる。それらが、生物的なイカの外観の中でも、なんとも珍妙な印象を浮かばせている。
こうして、するめの身体は、体操服模様の人間大のイカとでも言うべき姿へと変わり果てていた。
この姿は、超巨大海獣への対抗手段として“海の代表者”であるリヴァイアさんから新たに与えられた水棲少女の進化形態であり、ここからエネルギーを浴びて巨大化することで超巨大海獣との格闘戦が可能になるというわけである。
しかし、今のするめは、なんだか様子がおかしい。
そもそも、本人の意思を無視して、勝手に水棲少女への変身が行われることはないはずなのだが……。
やがて、イカとしての頭部に意識が定着し、身体が自律して動き始めた。ゾゾゾゾッ……とその十本の腕を使って、ベッドに横たわっていたイカの身体が畳の床にゆっくりと立ち上がる。乾燥を防ぐための分泌液によって、その全身の皮膚がヌルヌルと湿り始める。だんだん日焼け止めのような、ツンとした匂いが皮膚から漂い始めた。
両目がパチパチと確かめるように瞬きを繰り返し、カラストンビの嘴がカチカチと開閉したかと思うと、その中心の円形の口から「あ゛っ……あ……」と確かめるような声が二、三音発せられる。
そして、彼女の声は再び自らの意思を言葉にし始めたのだが、その口調は、普段の彼女とは似ても似つかない粗暴で醜悪なものであった。
「ククククッ…………ゲ〜ソゲソゲソゲソッ!!
ゲ〜ソゲソゲソゲソッ!!
愚かな小娘め!
まんまと俺様の策謀にハマってくれおったゲソねぇ!」
白い胴体にうっすら浮かび上がっている人間の姿だった時の顔の輪郭が、抗うようにグニグニと悶えている。
「今さら俺様の意思に楯突こうとしても、もう遅いゲソっ!!
俺様は悪の大海獣、スクィッド・クラーケン!!
お前の水棲少女エネルギーの中に忍び込み、身体を乗っ取るべく少しずつ浸食を進めておいたのだゲソっ!!
そしてエネルギーコンパクトに“クラーケン・モード”が実装されたことにより、我らの作戦は遂に最終段階に突入したゲソ!
今頃、世界中の全ての水棲少女たちが、続々と悪の大海獣へと変身を遂げていることだろうゲソ!!
ゲーッソゲソゲソ!」
自らの声が明らかにする驚愕の真相に、彼女の輪郭は動揺を隠せない。
なんと、今やするめの身体は悪の大海獣に乗っ取られてしまっていたのだ。
すなわち、コンパクトに忍び込んでいたスクィッド・クラーケンの意思によって、強制的にイカの姿へと変身させられたというのである。
「こうなってしまえば、もはやこの世界は我らの思うがままゲソ!
お前の身体は完全に俺様の支配下に入っているゲソ!
二度と人間の姿には戻れないゲソっ!!
……馬鹿な小娘だゲソ。なぜ、あのアスティとかいうアカヒトデが“正義の海の使者”だと、何の疑いも抱かず信じ込めたのだ?
なぜ、あのリヴァイアさんとかいう思念体を“海の代表者”だと思い込んでいたのだ?
なぜ、あんな胡散臭いおっさんたちの言うがままに、得体も知れない謎のエネルギーをその身に受け入れてしまったのだ?
──そう、全ては我ら……悪玉軍の筋書き通りに進んでいたのだゲソっ!
お前たち水棲少女は、正義のための戦いに身を投じていたつもりが、実際は我ら悪玉軍にその肉体を大海獣の素体として提供していたに過ぎないのだゲソ!!
悪のエネルギーが身の隅々まで完全に行き届き次第、まもなくこの身体は超巨大化し、暴れまわり破壊の限りを尽くすだろうゲソ!
自らの身体が完全なる悪の大海獣に堕ちていく様を、ただただ無力感に苛まれながら眺めているがよいゲソッ!!
ゲ〜ソゲソゲソゲソ!!ゲ〜ッソゲソゲソゲソッ!!」
これは大変なことになってしまった。
このままでは、するめの身体は海獣として町を破壊する兵器として利用されてしまうのだ。
なんとか身体の制御を取り戻せないかと彼女の輪郭は必死でムギュムギュともがき続けるが、イカの胴体をゴソゴソ揺らす以上の成果は残念ながら得られそうにない。
するめの部屋に立てかけられた姿鏡の前、スクィッド・クラーケンが十本の腕を愉快そうに揺らしながら、勝ち誇るように高笑いを上げていた……その時だった。
「ゲ〜ッソゲソゲソゲソ!! ゲ〜ッソゲソゲソゲソ!! ゲッ………………!??」
スクィッド・クラーケンの素っ頓狂な笑い声と身体の揺れ、その胴体に浮かんでいたするめの輪郭の動きが、同時にピタッと止まる。
────姿鏡に映る家の梁、その陰から、アスティがスクィッド・クラーケンの姿を呆れたような様子で眺めているのが見えたのだ。
………………なんとも言えない沈黙。
…………するめの輪郭に、幾筋もの汗がダラダラと浮かび始める。
何倍もの長さにも感じられた沈黙の後、「フッ……」と鼻で笑うような溜め息を漏らし、アスティは梁の向こう側に歩き去っていこうとする。
スクィッド・クラーケン…………もとい、するめが、慌ててアスティを引き止めようと縋り付く。
十本の腕でもって、すごい勢いでアスティの躰にへばりついていった。
「じょ…………冗談ですから!!
これ全部、冗談!冗談なので!
これは……単なる、悪堕ちごっこ!ごっこ遊びですからっ!!
本当に、私、悪の大海獣になんて、なってませんからっ!!
お願いですから、退治しようとか思わないでください〜〜〜〜っ!!!」
「………………あぁーもう!分かってやすって!!
どうせそんなことだろうなぁと思ってましたんでっ!!
あー、いたたたたっ!!?分かりやしたから、全身に吸盤貼り付けようとしてくるのやめてください!一旦離れてください!見た目以上に痛いんすよコレぇ!!?」
泣きべそをかきながら猛然と飛び掛かってきたするめを必死に宥めようとするアスティ。
この構図だけ見ても、ことの真相は語るに落ちるといったところだ。
「大体、そんな脆弱性のあるシステムを、人間界にまでわざわざ持ってくるなんて回りくどいことするわけないでしょ?
それに人間側の為政者にもちゃんとコンセンサスは取ってあるって最初に証書見せて説明しやしたよね?
…………ていうか、『ゲ〜ソゲソゲソ』って、どういうことです?
イカの鳴き声のつもり、だったんですか?
とりあえず語尾に『ゲソ』って付けとけばそれっぽくなるとでも?
……流石に安直すぎでは?
そんな喋り方するイカなんて、世界中探し回ってもお嬢以外には見つからないと思いますよ?
しかも、えっ?『スクィッド・クラーケン』…………?
もうちょっとなんか捻れませんでしたか?
えっ?スクィッド…………クラーケン…………?」
「ううううぅ…………それはもう言わないでください…………」
アスティのあまりに率直過ぎる感想に、するめはすっかり涙目で、胴体と十本の腕は頭部と変わらないぐらいの色合いまでみるみる赤くなっていく。しかし、『胡散臭いおっさん』呼ばわりされたことへの仕返しなのだろう、アスティは向こうしばらくはこのネタを引っ張り続ける気満々のようだった。
「えっ、ゲ〜ソゲソゲソ……?
スクィッド…………クラーケン…………?
破壊の……限りを……??」
畳張りの部屋の中、体操服模様のイカがアカヒトデを黙らせようとワチャワチャ追いかけっこをし始めた様子が見える。
伊香保するめの自宅での過ごし方──大体いつもこんな調子である。