26話 海中を進む箱
荷物を纏めた僕達が導かれたのは、人気のない海岸だった。瓶や木屑の流れつく、物寂しい灰色の砂浜。それに到着するや否やニーナは外套を放り投げ、砂浜へと飛び込んだ。
海は遠目から見るばかりで、遊んだことはない――そう語った彼女の水嫌い、もとい海嫌いは、案の定食わず嫌いから来ていたようだ。海の楽しさを知った今、これまでの言動を悔やむかのように、彼女は遊び回っていた。
砂浜から始まり、打ち寄せる白波と戯れ、そうっと水に足を差し入れる。それを何度か繰り返した少女は、やがてピンと尾を立たせると、地平線へ向けて走り出した。
「ニーナ、あまり奥に行っちゃ駄目だよ!」
慌てて呼び掛けると、くるりと彼女は振り返る。膝まで海に浸かり、ワンピースの裾が濡れても構うことなく、力強く海面を蹴り上げた。
分かっている。そう言っているかのようだ。
それを眺めていた魚人族マリネラもまた、打ち寄せる波へと足を踏み入れた。細い足に外套を絡ませ、厳かに進む。およそ腿のあたりまで海に沈めた所で、彼女は愛おし気に、雲を映す海面を撫でた。
耳の奥が張り詰める。耳鳴りだろうか、頭の奥がキンと痛んだ。
相棒の顰め面を見るに、どうやら音はカーンにも届いているようだ。柳眉の間に刻まれた溝が、その不快さを表している。
音はすぐに止んだ。不快感は波の擦れる音と、空を行き交う鳥の声とに上塗りされ、何事もなかったかのように平穏が戻った。
「マリネラ。どうやって行くの? やっぱり泳いで?」
「いいえ。……もう少しで来るかと思います。しばしお待ちを」
「来る?」
言われた通りに待っていると、突然海面が盛り上がった。
滝壺の如き飛沫と共に浮上する箱。それは滑らかな曲線を描き、金細工や珊瑚と思しき装飾を纏っている。街道を行く馬車のような様相ではあるが、海から上がって来た箱には、動力となる家畜が付いていなかった。いや、視界に入っていないだけかもしれない。
立ち上がったマリネラは箱に近付くと、箱の側面に嵌め込まれた楕円の扉を開けた。
「さあ、お乗りください」
呼び掛けられて、真っ先に飛び込むのはニーナだった。対して尻込みする僕とカーン。足は浜に付いたまま動かず、ただただ箱を、そしてマリネラを見つめていた。
「あの……マリネラ?」
「はい」
「沈まない? それ」
「沈みはしますが、浸水はしないはずです」
確かに馬車の内部に濡れた形跡はない。しかしそれに乗ったが最後、僕達は四方を水に囲まれた空間へと放り出されるのだ。臆さずにはいられなかった。
「……ちょっと待ってもらえる?」
情けないと思いつつ断りを入れると、マリネラは踏み込むことなく、ただ快諾した。
心の整理をしよう。そう己に理由を付けて得た時間だったが、それは却って毒になってしまった。
未知へと旅立つ心労が積もり、ずっしりと肩を重くする。このようなことは初めてだ。人間界へ足を踏み入れる際も、〈兵器〉を求めるべく住み慣れた家を出た時すら抱くことのなかった不安が、ざわざわと心を揺らしていた。
「遺書、書いておけばよかったかも」
呟く僕に、相棒が短く同意を示した。
■ ■
この馬車は、どうやら二頭の大きな魚によって引かれているようだ。
サメ程の寸法の巨大魚は、太陽の光が届く最初こそ見えていたが、奥へ奥へと進むにつれて、霧の如き海へと姿を消した。飛び回る鮮やかな小魚もついに途絶え、丸い窓は曇天染みた景色を映すばかりとなる。
海の中は質素だった。特に海面とも海底とも表し難い中頃の位置は。それに早々に音をあげたのが、他でもないニーナだった。
「楽しいって言ったのに……」
嘘吐いたらお山が怒るんだよ、と独り言ちるニーナは、尾を以って座面を叩いた。
退屈のあまり息絶えてしまいそうな彼女を、僕は慰められなかった。少女が興味を持ちそうな話題も玩具もない。何かしら用意してくればよかった。反省を始めた僕は、早くも地上が恋しくなっていた。
「リオ様、外の様子はいかがですか?」
沈みつつあった空気を裂くように、相棒が話し掛けてくる。どうやらカーンは、獣人の少女を無視する方針に決めたようだ。
馬車に乗り込んでからというもの、相棒は一度たりとも視線を持ち上げようとはしなかった。じっと膝を睨みつけ、その踵は忙しなく揺れている。尋常でない様子だ。一体どうしたというのだろうか。
「とても不思議な感じだよ。ずうっと……青というか黒というか、同じ景色がどこまでも続いてるんだ! カーンも見てごらんよ」
「いいえ、私は……結構です」
ゆるゆると首を振るカーン。それに獣人の少女は何か言いたげだったが、赤い眼光に貫かれると、急いで鼻面を隠した。
彼女は、カーンに睨まれると多くの場合鼻を隠す。それがまるで謝罪であるかのように、茶色の手で鼻面を押さえ、じっとカーンの様子を窺う。怯えさせるようなことはしていないはずだが、ひょっとしたら少女は、相棒の内に秘めた熾烈を見抜いているのかもしれない。
もしもそうだとすれば、たかが子供と侮っては痛い目を見る。
そんなことをしていると、不意に窓を叩かれた。マリネラだ。魚人族としての姿を露わにした彼女は、細い指を以って前方を示した。
指の先に、何かがあるらしい。頬をガラスに貼り付けて、僕は様子を窺う。するとニーナが僕の背に圧し掛かってきた。そして僕と同じように顔を寄せ、あっと声を張り上げた。
「光! 見て見て、光があるよ!」
「本当だね。何だろう、あれ」
しっとりと広がる闇の中に、淡い光があった。色とりどりの輝きを見せるそれは、馬車が進むにつれて二つ、三つと分裂していく。
まるで塔から見下ろす夜景のようだ。
もうしばらく様子を見ていたかったが、足腰が先に悲鳴をあげた。ガラスを一部曇らせて外を眺める少女、その体重が思っていたよりも重かったのである。
「ニーナ、退いて。重いよ……」
「あーっ! リオ、いけないんだー! 女の子に重いって言っちゃ駄目なんだよ」
「そうなの? ご、ごめんね」
「いいよー」
駄々を捏ねられるかと思いきや、すんなりと言って、ニーナは僕の上から退く。上機嫌な彼女はガラスの前を陣取ると、尾を振って、現れつつある景色を瞳に映した。沈んでいた目が、今では強い好奇心に輝いている。
ふと僕は相棒に目を向ける。ニーナが僕に圧し掛かっても、今回の彼は手を出さなかった。今朝の一件を経て、ようやく「戯れ」を理解したのかと思いきや、どうやらカーンは一連のやり取りを視界に入れてすらいなかったらしい。依然として顔を伏せ、じっと石像のように固まっていた。
「カーン、大丈夫? 酔った?」
「いえ、大丈夫です。ただ……いつ水が流れ込んでくるか、気が気でなくて……」
カーンに言われて、僕は思い出した。
馬車に乗り込んでからというもの、窓外の景色にばかりに意識が向いていたが、箱の外は暗く冷たい水で満たされているのだ。万が一にもそれがガラスを開き、あるいは扉を破って雪崩れ込んできたら、僕達は――特にカーンやニーナは助からないだろう。
地上では嫌というほど胸を騒めかせた光景を、なぜ今の今まで忘れていたのだろうか。
冷えてしまった僕の背を、そっと相棒の隣に預ける。海の先に見えていた光が、冥府の目印でないことを祈るばかりだった。




