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竜の瞳の行く末は  作者: 三浦常春
第2章 海中都市オロペディオ
22/22

22話 帰りたい

 魚人族マリネラとの会談を経て、「深く冷たい谷」への出立は数日後、僕達を迎える準備ができ次第にと約束を取り決めた。


 もともとオパール港には、一日かそこらの滞在を予定していたが、こうなってしまえば先を急ぐこともできない。僕達は、海面の白泡のように湧き出た暇を楽しむことにした。


 ある時は紙を買い集めて本の翻訳に勤しみ、ある時は街を散策する。砂浜に出てははしゃぐ子供を目に留め、はとした時には夢中になって輪の中で遊び回っている日もあった。その事実と、現実に引き戻された僕とを見て、カーンが随分と気の抜けた笑みを浮かべていたことは記憶に新しい。


 そんなある日の事、なぜか通例となってしまった現地の子供との交流を終えた僕達は、ほんの出来心から裏道に入り込んだ。


 大通りには見られなかった店が、ひっそりと構えられているのではないか。脆い、ただの偏見から来る行動ではあったが、それは確信に近かった。

 湧き上がる期待を胸に、連れ立って建物の隙間に滑り込む。その先にあったものに、僕の身体は硬直した。


 薄暗い小道。大人二人がやっと横に並んで歩くことができる程度の道幅に、ずらりと鉄籠が並んでいた。空のものもあれば、中身――時折の身動ぎから、ようやく確認できる存在を収めているものもある。さらにその奥には、先の道を隠すように垂れ下がる布。呆然とそれを眺めていると、ケホ、と肺が軋んだ。


「――リオ様?」


「気持ち悪い……」


 甘い香が、もたれるようなその香が、僕の身体を満たしていく。否応なしに侵食し、蝕み、奥底を炙る。切ないようなもどかしいような、そんな感覚が腹の中にたまる。


 何が起こっているのか分からない。漠然とした恐怖が、妙に冴えた頭を打ち鳴らす。


 ここはよくない場所だ。忌避すべき犯罪の匂いがプンプンとする。黙認された商売が、色濃く充満している。本能も理性も、互いに呼応し合い表街へと引き戻そうとしていた。


「リオ様、戻りましょう。ここはいるべきではありません」


 カーンが僕の腕を掴む。彼の行動は珍しく乱暴だった。カーンと僕の意見は一致している。反対する理由はない。大人しく表通りに戻る――つもりだった。


 鼓膜に差し込まれる幼い声。頭が痛むほど、脇目も振らず喚き散らすそれは、ガシャガシャと格子にぶつかり、茶色の毛玉は暴れていた。五本に分かれた指先が鉄棒を掴み、均等に穿たれた棒の隙間に鼻面を捻じ込む。全身を覆う毛が、虚勢を張るかのように膨らむ。僕はそれから目が離せない。


「あの子、獣人?」


「……リオ様?」


 訝しげなカーンの声。僕は温かい手からするりと抜け出す。そして錆びついた籠へと近付いた。


 ぱたりと耳が動いた。格子を齧っていた口を休め、代わりに僕に向けて小さな牙を剥く。それは幼い顔に似合わず、恐怖と怒りに塗られていた。


「バーカ、バーカ! こっち来んな、バーカ! ニーナはお家帰るのー!」


「落ち着いて。僕はキミと話しをしに来たんだ」


 そう言い切ったところで、再び咳が出る。


 冷たい石畳に膝を付いた僕は、格子を掴んだ。黒い鼻面、橙の瞳。膨らむ瞳孔。それが僕を見据える。囚われてもなお、恐れを抱いてもなお希望を見失わない、ひどく前向きな瞳だった。


「キミはそこから出たい? 出て……お家に帰りたいの?」


「帰りたい!」


 すると、それを待っていたかのような足音が近付いてきた。にこにこと、吐き気がする程に穏やかな笑みを浮かべたふくよかな男性。それは太った手を揉み、口元の皺を深くする。


 この裏路地の、いわば店長のような存在なのだろう。下っ端にしては肥えすぎている。そんな物が出てくるのだ。きっと檻の中の獣人は、相当な価値があると見える。


「その獣人に興味がおありで?」


 それは僕たちを見定める。気色悪い目だ。僕は眉根を寄せた。


「おや。御宅の御子さん、顔色が優れませんようで。いかがです、奥で休まれては? 様々な設備を用意してございます。きっと満足していただけるでしょう」


「結構だ」


 ぴしゃりと言い切るカーン。そして彼は立ち上がった。僕と、やって来た男とを隔てるように。


 だが商売人は諦めない。変わらないねっとりとした笑みを浮かべたそれは、侮蔑するような冷たい目を以って檻を、獣人の入った檻を一瞥する。


「その獣人、ちょうど一昨日入荷しましてね。それからずっとこの調子なのですよ。元気いっぱいで、それはもう世話係が暇を出すくらいに」


 それは頷く。昔を懐かしむように。


「……どうです。息子さんの遊び相手にするもよし、毛皮にして売り払うもよし。オオカミの毛皮は高値で取引されますからね。きっと、よりよい遊び相手を得ることができるでしょう」


 毛皮。その言葉に僕の背筋が寒くなった。


 獣人は、獣と人間族との中間に位置する種族である。伝達の役割を果たす言葉を用い、豊かな感情を持つ。文化と社会を形成し、秩序ある生活を送っている。人間族とさして変わらない。


 そうだと言うのにこの人間族は――いや、目前の男に限らず、世の中には獣人から毛皮を剥ぐ者がいるのか。それがあまりにも衝撃的で、頭が真っ白になった。


 垂れ下がったカーンの拳がギリギリと音を立てる。今にも卑劣漢の喉を貫かんばかりの殺意だった。

 そんな視線には目もくれず、男は依然として口角を持ち上げていた。


「いかがです。お安くしますよ」


 一層鋭くなるカーンの目。僕はその服を引っ張った。騒ぎは起こすな、そう釘を刺すように。


「……いくらだ」


「一万カラト――いえ、ここは旦那様の英断に感謝して、九千カラトでいかがでしょう」


「七千五百」


「下げますね……八千二百カラト。これでどうでしょう?」


 先日食べたゼントヴィッチを、約二千七百個買うことができる金額だ。しかしそれで一つの命を救えるならば安いものだ。


 言葉を交わさずとも、カーンと僕の意見は一致していた。


 男が持って来た平たい盆に、カラト硬貨が広げられた。僕達が換金した殆どの硬貨が、男の手元に渡って行く。手下だろうか、質素な服を着た者たちがふくよかな男に呼び寄せられて、硬貨の確認を始めた。


 カラト硬貨はヴァーゲ交易港で用いた硬貨と異なって、一つの種類しか存在しない。一カラトにつき一枚の硬貨を支払う。今回で言うならば、獣人の少女のために八千二百枚の硬貨を渡さなければならない。


 天秤に分銅と硬貨をそれぞれ乗せ、若い男達が揃って目盛を見つめている。それは調理の手伝いを任された子供のようで、じれったい程に慎重だった。ふくよかな男も苛立ちが重なったのだろう、あれやこれやと侮蔑と唾を飛ばして叱りつける。


 その間も、甘い香りは今なお止むことがなかった。それどころか地面を覆い、僕の身体を満たしていく。それがどこからやって来るのか、僕には分からなかった。外套で鼻や口を覆っても、まるで肌から吸収されているかのように、じわじわと四肢の先を炙り続けていた。


「大丈夫? お腹痛い?」


 格子の間から伸びて来た手が、僕の肩を揺する。首を振って応じるが、身体は熱を持ち、冷たい汗が背を伝い落ちた。


 毒の類ではないだろう。少なくとも、死へと追いやるそれではない。だが不愉快であることは確かだ。


 早く終わってほしい。そう願った矢先、突然足が地面から離れた。降ってくるのは聞き慣れた声。僕はそれに身体を預ける。


「宿へ向かいましょう、リオ様。もうしばらくの辛抱です」


「あの子は?」


「解放されましたよ。ほら、隣にいるでしょう」


 霞んだ視界で動く毛玉。それは飛び跳ねて、カーンに抱えられた僕を覗き込む。


 救えたのであればよかった。指先の痺れる手を伸ばして、濃茶色を撫でる。その毛は少しばかりごわついていた。


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