第11話 急転直下
ティアナとメアリーは辻馬車を使ってルスネリア公爵邸までやって来た。こっそりと宮殿を抜け出してきたため、思ったより時間がかかってしまった。帰り道を考えると、晩餐までに戻るのは難しいかもしれない。
(きっとミリィが上手く誤魔化してくれるはずだわ)
ティアナは信頼している親友兼侍女の顔を思い出し、緊張している心を和ませた。
(さあ、早く宝玉を見つけて持ち帰るわよ。大丈夫。宝玉があれば婚約破棄にはならないのだから)
ティアナは心の奥底に蔓延る不安から目を逸らすように、目の前の成すべきことに集中した。
◆◆◆
「あった……!」
メアリーはなぜか隠密行動に慣れており、エリザに教わったという公爵邸の隠し通路にも精通していたので、二人はすんなりとロバートの執務室に侵入していた。ティアナは心強い味方に同行してもらえた幸運に感謝しきりだった。
あるなら執務室だろうとあたりをつけて一番最初に探しに来たが、さして苦労もなくあっさりとそれらしきものを見つけてしまった。
「もうここに用はないわ。すぐに宮殿へ戻りましょう」
こみあげてくる不安に必死に蓋をして宮殿へと引き返そうとした。ティアナが漠然と感じていた嫌な予感が的中したとわかったのはそのときだった。
執務室の扉の前に悠然と笑みをたたえて立つロバートの姿があったのだ。
「ああ。ティアナ、帰っていたのか。ちょうど良かった。私も先程宮殿から戻ってきてね。この書類を預かってきたのだよ」
ティアナが普段訪れることのないロバートの執務室にいることの不自然さには全く触れることなく、ロバートは機嫌よさそうにティアナへと声をかけた。
「お前と皇太子殿下の婚約を解消するための書類だ」
「婚約、解消……?」
ティアナは署名をするように、とロバートから上質な紙を渡された。震える手でそれを受け取り、さっと目を通す。一番目につく場所に、ウィルバート・フランネアとティアナ・ルスネリアの婚約を解消すると書かれていて、ロバートの言葉が嘘ではないことを裏付けていた。
ティアナはつい先ほどまでウィルバートの婚約者として宮殿にいたのだ。それなのに、急に婚約解消など……にわかに信じられず、半信半疑で書類に目を通していた。まるで現実のこととは思えない。
しかし、心の中ではああ、ついにこの時が来たのか、という諦念も生まれていた。
宮殿でウィルバートの婚約者として過ごしながらも、そこが自分の居場所ではないような、どこか夢の中にいるような、ふわふわとした感覚をティアナはずっと感じていたからだ。
それと同時に、もし自分が宝玉を取り戻すことに失敗したとしても、ウィルバートならばきっと何とかしてくれる、という淡い希望も心の奥底にあったのだ。しかし、その小さな希望も見事に打ち砕かれてしまった。他でもない、婚約解消を了承する彼自身の筆跡を目にすることによって。
「そうだ。皇帝陛下と皇太子殿下の署名は先に得てある。そもそも皇帝陛下からのご指示だからな。当然断れるものではない」
そっと書類の上、婚約解消を承諾するとの文面の最後に綴られたウィルバートの署名に指を這わせる。
(間違いなくウィルの筆跡だわ)
『ティアを諦めたくない』と言ってくれたウィルバートの姿がぼんやりとティアナの脳裏に浮かぶ。けれど、この書類には『婚約解消を承諾する』という意思が彼の筆跡で示されている。
「さあ、ここに署名するんだ」
目の前にはティアナを冷たい目で見下ろすロバートが立ちふさがる。
(私はどうすればいいの、ウィル……)
ずっとずっと大好きで――。結婚するならこの人しかいないと思った。
けれど、両親が亡くなり、目の前にいるロバートにこのルスネリア家に連れてこられてから、日に日にその思いは胸の奥に閉じ込めるようになった。ティアナには果たすべき役割があったから。
それでも、予想外にも大好きな人と婚約できてしまった。夢のように思っていたが、所詮夢でしかなかったのだ。
「承知しました」
ティアナ一人が突っぱねたところで、婚約相手であるウィルバートも承諾しているし、何より皇帝も承諾済の事案なのだ。拒否などできるはずもない。ティアナには署名する以外の選択肢は残されていなかった。
文字まで愛しいその人と、もう道は交わらないのだと自分に言い聞かせ、ぐっと涙をこらえて彼の名の隣に署名した。
(やっぱり結婚式の前にこの光景を見ることになったわね)
ティアナはこの光景を何度も夢に見ていた。結婚式で愛を誓い合った後、結婚証明書にお互いの名を並んで記し、二人笑顔で微笑み合う光景を――。
潰えた夢を思い、だが、涙は流さまいと瞳を閉じる姪を横目に、ロバートは完成された書類を満足げに手に取り確認した。鼻歌でも歌いそうなほどの上機嫌で、今後の計画を脳裏に描きながら――。
「皇太子殿下の新たな婚約者はお前の義妹のアマンダと決まった。だからそれをアマンダに渡すようにとのお言葉を皇帝陛下から賜っている」
ティアナはビクッと肩を震わせた。「それ」と指さされた宝玉をぎゅっと両手で握りしめる。やはりティアナがこれを取り戻しに来たことは露見していたようだ。
「これは私が継承すべきものです。どなたにもお渡しできません」
これをアマンダに渡すわけにはいかない、ということをティアナは本能的に感じていた。
「皇帝陛下のご命令に逆らうなら、相応の処罰を受けてもらうことになる。連れて行け」
ロバートはすでにこの事態を想定していたのだろう。皇帝陛下直属の近衛騎士団の騎士たちを率いていた。ロバートは彼らにティアナの拘束を命じ、高圧的に連行するよう言った。
「ティアナ嬢、失礼いたします。それをこちらへ」
ティアナは言われるがままに宝玉を騎士に渡し、騎士からロバートに渡る宝玉を虚な目で眺めていた。
(婚約破棄を防ぐために必要だった宝玉……ああ、もう何もかも遅かったのね。いいえ、むしろロバートにとってこのために私は存在していたのだわ。初めからウィル……いいえ、皇太子殿下はアマンダと結ばれる結ぶ運命だったのよ。ふふふ。私はロバートの手のひらで踊っていただけだったのだわ。それなのに恐れ多くも皇太子殿下と結婚できるなんて大それた夢を見て、有頂天になって……。現に皇太子殿下自身も婚約の解消に同意しているしね。私ひとりで運命に抗おうと奮闘していたわけね。滑稽だわ……)
ティアナは婚約を解消する書類を本物だと確認した瞬間に、自分の望みを叶えることをそうと意識せずすっかり諦めてしまっていた。しかし、諦められずとも皇帝と皇太子の署名入りの正式な書類を覆すことなど、実質誰にも不可能であった。
だが、何よりもティアナの心を傷付けたのは、二人の婚約の解消に同意するというウィルバートの意志を書類上に形として確認できたことであった。彼の署名があったのはその意思表示に他ならないのだから。
ティアナはもし婚約の解消が正式に決まることがあったとしても、そこに至るまでは当事者同士で話し合いがなされるものだと思っていた。しかし、実際は一方的な通知であって、ティアナにとっては従うしか道がない完全なる事後承諾であった。
ルスネリア公爵家で虐げられることに慣らされていたティアナであったが、今の彼女は宮殿で温かく迎え入れられ、愛する人に愛される喜びを知ってしまっていた。
ティアナはここ数年の辛い経験が原因でなんでもすぐに諦めることが癖になっていたが、ウィルバートとの結婚だけは諦めたくないという気持ちがいつの間にか大きくなっていて、頭では諦めているのだが、心では抵抗しており、二つの相反する思いの間で心をすり潰されるような痛みを感じていた。
(なんだか胸が、痛い……)
一方、全く抵抗せず、自分たちの拘束に素直に応じる憔悴しきった美しい令嬢に騎士たちはみな戸惑っていた。
(この先どうなるのかしら……。でも、ウィルと結婚できないのなら、この先私の身がどうなろうとさして変わりはないわね……)
憂いを帯びた笑みを浮かべるその美貌に、ひとりの騎士、サミュエル・スペンサーは心打たれていた。
(ああ。近くで目にすると目眩を起こしそうな程神々しい美しさだ。しかし彼女はプロスペリア王家の血を引いていると聞いた。だったら、主張の正当性は彼女の方にあるように思えるが……。彼女の憂いは払ってあげたいが、陛下のご命令に背くわけにはいかないし……)
彼は迷いながらも縄で拘束されたティアナを宮殿へと連れ帰る馬車へと誘導した。
しかし、ティアナを馬車に乗せるその瞬間、違和感を感じて躊躇した。中を確認して驚いたが、声も発さず何もなかったようにティアナを中に誘導して扉を閉めたのだった。
ブックマークと評価、ありがとうございます……!




