自殺の話
カンカンカン。
けたたましい音を鳴らしながら、遮断機は降りる。
それからしばらくの後、ガタンゴトンガタンゴトンと決して耳障りがいいとは言えないような音を立てて、多くの人々を乗せた列車は通り過ぎて行った。
窓から見える中身は、スマートフォンを弄るOLやコート姿のサラリーマン、本を読む学生、等でぎゅうぎゅう詰めである。
ああ、また今日も失敗だ。そう思いながら、そんなに長くもないその箱の中身を眺めていた。
そのうちに、再度見える景色。先ほどと変わらない住宅街。生い茂る雑草。
その中にただ一つさっきと違うものが見えた。赤と緑のチェックのマフラーを首に巻きつけた女子高校生だ。彼女は寒そうに首を縮こめ、遮断機の向こうに立っていた。
僕がじっと見つめていたからだろうか?そのうちに彼女と目が合う。彼女はにこりと笑った。僕はなんとなく目を逸らす。
遮断機が上へあがる。音が鳴り止む。彼女はくるりと背を向けて、踏切と逆方向に行ってしまった。その後ろ姿を見送った後、僕もくるりと踏切に背を向けた。
・
次の日も、その次の日も、彼女は踏切の遮断機の向こう側に現れた。
僕は知らず知らずのうちに彼女が振り向く様を目で追っていた。
どうやら、彼女の微笑みを見るのがもうひとつの目的と貸していたらしい。夕日に照らされる彼女の微笑みにただただ見とれていた。
そんなある日だった。今日もまた、遮断機の向こうの彼女を見ていた。その時には、彼女に目をそらさずに微笑み返せるようになっていた。そして今日も背を向け、彼女は去るのだろう……そう思っていた。然しながら、予想とは裏腹に彼女はこちらに向かって歩んでくる。僕は戸惑いのあまりにその場から動けなかった。金縛りにあったかのように動けない。
そして彼女は最後の1歩を両足飛びで縮める。僕達の距離は片方が手を伸ばせば届く程の距離になっていた。
「ねぇ。あなた、いつもここに居るのね。どうして?」
両手を後ろで握り、顔をこちらに突き出す彼女は、遠くで見る以上に整っていた。小さな顔を僅かに傾け、そのぱっちりとした大きな瞳を上目遣いにしてこちらを見つめる。以前同じようなポーズをしている女性を見て、湧いたのは嫌悪感だったが、彼女が同じことをしても可愛さしか感じない。
そんな彼女に問われ、本当のことを言うのは阻まれる。しかし嘘をつくのも忍びない。
悩んだ結果……。
「い、いやちょっとした用があって」
言葉を濁すことしか出来なかった。
だって言えないだろう?毎日毎日死のうとして失敗してます、なんて。
どんな間抜けだ。
「もしかして……死のうとしてた?」
僕の誤魔化しも虚しく、彼女はズバリ正解を言ってのけた。
彼女は、僕の真意を探るようにこちらをじっと見つめた。彼女の瞳の中の僕は間抜けな顔をしている。
言葉が出なかった。女の勘、と言うやつだろうか?
「当たってたのね。どうして死のうと思ったの?」
聞かれ返答に困る。大した理由なんてないのだ。
彼女は尚もじっとこちらを見つめる。それが何かを期待しているように思えてきた。仕方がなく答える。
「いや、死んだらどうなるのかなって、思っただけさ」
「どういうこと?」
「うーん、なんて言うのかな。ほら、僕って見るからに平凡な身なりだろ?見た目通り中身も平凡なんだけどさ。だから自分が死んだ後に世界が変わらないんだろうな、って時々思うんだよ。すると、何故生きてるのかがわからなくなるんだ」
女の子は空を見上げてうーん。と唸る。
僕の考えを咀嚼しているのか、はたまた全く違うことを考えているのか。
そして何かを諦めたように、ため息をついた。
あ、わかんなかったんだな。
「なんだか難しいこと考えてるのね」
彼女の相槌はなんとも予想通りで、僕は内情を口にしたことを後悔した。
これまで幾人もの人に同じようなことを伝えた。その全てが今のように興味無さそうに返すか、それは思春期特有のあれだねと一刀両断するかのどちらかだった。彼女に興味がなくなりかけていたその時だった。
「だから死にたくなるのかしら?」
その言葉に再び彼女に視線を戻す。よく見るとその瞳には先ほどと変わらず、興味の色を浮かべていた。決めつけていたのはこちらだったと気づき、羞恥心に見舞われる。
「死にたくなるって言っても、今日まで実行できてないんだけどね」
今までの人間と彼女を一緒にしたことを彼女に悟られないように、頬をかくことで火照った顔を誤魔化す。
「そ、そんな残念そうに言わないでください!」
彼女は口元のマフラーを邪魔そうに手で抑える。その表情は必死だった。何かに怯えているようにも見えた。
「しかしなあ、君も間抜けだって思うだろ?」
僕は、にこりと笑ってみせる。きっとその笑みは情けないものになっていただろう。
彼女はぎゅっとスカートの裾を握る。おかげで規則正しいはずの折り目はぐしゃぐしゃに乱れていた。
「生きることは素晴らしいです!」
少し行動に起こすのは躊躇しただろう叫び声に驚いた。まるで宗教のような言葉に笑ってしまう。けれど先程のような情けない顔ではなかったはずだ。
「そうだね」
僕が同意すると彼女は驚き、しかし安心したようで、腕を組みふむふむと頷いていた。
「あ、そろそろ時間だわ。じゃあまた明日!」
そして彼女は、手を振って去っていってしまった。咄嗟に手を振り返したが、明日、会う約束を取り付けられてしまったようである。無理矢理結ばれたそれは、しかし嫌な気分にはなれず、仕方が無いかという気持ちにさせられた。
・
いつもよりも少し早く踏切につく。
向こう側には彼女がいつもと変わらず佇んでいた。彼女がこちらに歩みを進めると、
カンカンカン
けたたましい音が鳴り、遮断機は彼女の進行方向を遮る。
彼女は残念そうな顔をし、こちらを見て照れたような笑いを浮かべた。それから手を振る。手を振り返そうと、腕を上げると電車が目の前を横切った。
ガタンゴトン
ガタンゴトン
暫くして電車が通り過ぎる。そうすると、やっと遮断機は上に。彼女は少し上がった遮断機と地面の隙間を潜るようにこちらにやってきた。
「今日もいるってことはまだ死にたいって気持ちは変わらないようね」
よく見ると昨日とは違う柄のマフラーの彼女は腰に手をあてる。
「今日も死ねなかったけどね」
僕は昨日と同じようなセリフを昨日と同じような表情を作って発した。
本当に死ぬ気があったのかは自分でもよくわからない。以前より鬱々とした気分で無くなったのは確かだろうけど。
「またそんなこと言うのね……っ!」
彼女が声を張り上げたので慌てる。
「いやいやこれは、慣例的なもののつもりだよ」
手をブンブンとふるおまけ付きだ。
「どういうことかしら?」
「うーん。これから会うのに使う決まり文句?合言葉みたいなもの、かな?」
そう言うと彼女は満足したようで、表情は一変。笑顔になった。その顔をじいっと見ていると、彼女が気づく。
「な、何よ!こっちをじっと見て!」
顔が赤くする彼女。
「い、いや、可愛いなって」
その様に見惚れていた僕はつい、本音を口走ってしまう。その後、慌てて口を手で覆うが効果はない。更に赤面してしまった彼女と共に黙った。
沈黙があたりを支配する。
顔を俯かせ、チラチラと前を見る。彼女と目が合ってしまい、慌ててそらす。その繰り返しだ。
きっと彼女も同じようにこちらをチラチラと見ているから目が合うのだろう。
何度も繰り返し、居心地がの悪さが最高潮に達した時だった。
「そ、そう言えば!この間の続き聞いてなかったわ」
彼女はいい話題を思いついた、とでも言うように手を鳴らす。
「生きてる意味……って、種の存続?って言うの?子孫を残すためなんじゃないかしら?」
顎に手をあて、疑問を投げかけてきた。
「うーん。そういうのはあんまり実感がないね」
彼女も僕と同じことを思ったのだろう。
「確かに」
とあっさりと引き下がった。
そして少し考え込んだ後、
「楽しいことを楽しいと思えるならそれだけで生きている価値はあるんじゃないかしら。自分の価値は自分で決めるって言うんだっけ?」
最もらしいことを言ってきた。
「楽しい、なぁ。楽しいってどんな感じなんだろうな」
僕は考える。けれど、やはりよく分からなかった。
「そんな難しい顔して考えることじゃないと思うけど……。もしかして今まで生きてきた中で、楽しいって思ったことないの?」
彼女は目を細めこちらを見る。疑っているような、胡散臭がっているような表情をしていた。
「思わなかったことが無いわけじゃないけど……」
彼女の目に、怖気づき、声が徐々に小さくなる。
「楽しいと思えても、その直後、くだらないという気持ちが、楽しさを、どこかに追いやってしまうん……だ……」
上手く言葉が見つからず、探り探りだ。それでもきちんと伝えられているようには思えず、語尾は弱々しくなる。彼女の反応を聞くのが恐らく、耳を塞ぎたくて仕方がない衝動に駆られた。
「その気持ち、何となくわかる気がするわ」
思いがけない言葉に、ガバッと顔を上げた。勢いのあまりに首から変な音が聞こえた気がするが無視だ。
「自分以上に騒いでる人を見る。すると冷水をあびせられたかのように、ふと我に返ってしまう。それでも人からハブられたくないから楽しいふりをするわ。そしてその人たちを見て、内心、冷ややかな目で見てる。楽しいふりする私も冷ややかな目で見てる私も……ほんとに最低だと思うわ」
その時の気持ちを思い出したのかのように、彼女の声は低く沈んだものになっていった。
僕はそんな彼女にかける言葉を見つけられず、ただただ黙って話を聞いていた。
暗い顔をしていた彼女ははたと気がつき言葉を止める。そして僕の顔をじっと見た。じっと見つめられ、なんだか緊張してしまった。汗ばんできた手をぎゅっと握ると、彼女が何かを呟いた。
「ごめん、もう1回言ってくれる?」
彼女と出会って間もない……しかも初めて話したのは昨日、という僕がこの表現を使うのはおかしいかもしれないが、彼女〝らしくない〟という言葉を思い浮かべるには十分な弱々しい声だった。
「な、なんであなたが謝るの……」
よく見ると彼女もまた、手をぎゅっと握っている。よく聞いてみると鼻声に聞こえなくもない。
「こんなみっともない姿を見せちゃって……ごめんね?」
ゴシゴシと、乱暴すぎるぐらいに目を拭う。瞳にはどうやら涙が溜まっていたようで、袖がほんのりと濡れている。鼻は赤く染っていた。寒さからのものではないのだろう。
「いや、僕なんかに話して楽になるなら、いくらでも聞くよ!」
思いがけず、大きな声が出てしまう。目の前の彼女も驚いた表情を見せていたがそれ以上に僕が驚いた。なぜか分からないけれど、彼女を放っておけなかった。
「でも……本当は私が貴方の悩みを聞くつもりだったのに……」
自分を責める彼女に憤りを感じた。でも大きな声を出すだけでは彼女に伝わらない気がして……ない頭を使って考えてみる。
よし。固めた決意が鈍らないうちに、ひゅうっと、大きく息を吸った。
「そ、そんな風に貴方の本心が聞ける事の方が嬉しいよ。なんだか人の役に立ってるみたいでさ……生きてて嬉しいって思えるんだ」
実際に口に出してみると、言うのを躊躇うぐらいにはキザだと自覚していたけれど……思ったよりも……恥ずかしい。胸のあたりがグツグツと煮えたぎるように熱い。顔も内側から、燃えているようだ。湯気が出ているんじゃないか?と不安になる。
「本当に?」
「本当さ」
それでも彼女に心配させないように強く頷く。涙を目に溜めたその顔を見ると、多分、僕が悪いわけじゃないけど、悪いことをしたような気持ちになる。
ポロリと涙が流れ落ちた。
笑顔を見られるだろう、とタカをくくっていた僕は予想外の反応に戦く。
そこから堰が切れたようにボロボロと大粒の涙が流れ落ちた。何度も何度も降り注いだそれは地面に小さな水溜まりを作る。
何をすればいいか全くわからない。結果、彼女の周りでオロオロするだけである。
何を間違えたのだろうか……。わからない。自分では最善を尽くしたつもりだったのに……。
不安や疑問が顔に出ていたのかもしれない、忙しなく動く僕の手をぎゅっと握ぎられた。ピタリ、と止まる動作。
彼女は涙を流しながら、ゆっくりという。
「ち、違うの……嬉しくて……」
そして花のような笑顔で微笑んだ。
「ありがとう」
・
そうして彼女と共に語らい、太陽を何度も見送った。
冬もそろそろ終わりを迎え、
春になるだろうと言う頃……。
僕は遅刻をした。仕方がなかった。初めてできた友達と語らううちに時を忘れてしまったのだ。
急いで踏切に向かうが、遅れるのは明白だった。
それでもギリギリ、音を鳴らす遮断機にたどり着く。
初めは遠すぎてよく見えなかった。
1.0もない、矯正もしていない視力を最大限活用するために目を細める。
すると、人影のようなものが見えた。きっといつもの彼女だ。
しかしいつもと違う所があった。
遮断機の内側に佇んでいたのだ。
目を擦るが、目の前の光景は変わらなかった。
今まで本気で走っていなかったわけではない。それでも火事場の馬鹿力と言うべきか、とにかく僕は更にスピードアップ。いつもより、早く走れた……ような気がした。それでも電車は少しずつ彼女に迫っていて、だんだん彼女の表情が鮮明に見えるようになり、彼女は僕に気づいたのか、驚いた顔をした後に、「なんで……」と呟いて、そして笑顔になる、その瞳には涙が滲んでいて、僕は走る、まだ肌寒い風が頬に当たり刺すように痛い、電車のうるさい音が聞こえ、息はもう絶え絶えで、それでも走る、手を伸ばすけれど、彼女を掴むにはあまりにも、遠かった、それでも、僕は、足に力を込め、電車と彼女の距離は……。
そこから先のことはよく覚えていない。
「大丈夫ですか?」
肩を叩かれて、気がついた。辺りには噎せ返るような血の匂いが充満していた。気持ちが悪い。吐き気を催し、酸っぱいものが込み上げてくるが、気合で飲み込む。
僕の瞳には、脳裏には彼女の笑顔がこべりついたように離れなかった。
肩を叩いた男はその姿をじっと待っていた。制服を着ている……警官?らしい。
目の前には電車が……もう見たくもない。そして視界は、真っ暗になった。
思えば彼女とはつまらない話しかしなかった。僕は彼女のことを知らなかった。
高校も住所も年齢も名前も……
何故毎日踏切に来てるのかすら知らなかったのだ。
同様に、僕は彼女に何も伝えていなかった。
自分の気持ちも伝えられなかった。
ただ彼女が僕が死なないことを匂わせるセリフを言う度に喜んでいることには気づいていた。
これは僕の推測だけど、彼女は元から、自殺するつもりだったんじゃないだろうか。だから、毎回鉢合わせる僕のことが邪魔だったんだろう。
あんなにかわいい女の子が僕のような冴えない男と話してくれるなんておかしいと思っていたんだ。
彼女のことを疑いたくはない。けれどそう考えるのが自然なんだ。
僕はなんだか、裏切られたような気分になった。
ここまで考えて顔を上げる。
目の前には、灰色の大きな石が鎮座していた。そこに書かれた文字を指でなぞる。こんな機会で知りたくなんてなかったけど、彼女が死んでからやっと、その名前を知ることが出来た。
買ってきた花束を置く。
空を見上げれば、桜の花弁がはらりはらりと舞い落ちる。
頭に乗っかったものを手で払って、立ち上がった。そして墓石に背を向け歩く。
暫くして、ふと後ろを振り返る。そこには変わらず墓石が鎮座していた。
再び前を向く。今度は振り返ることなく、桜が散る道を一歩ずつ歩き始めた。