受験
「あの、ちょっといい?」
そう言って声を掛けてきたのは見知らぬ男だった。目つきは少し鋭いが、顔はそこそこいい。ただ残念なのが髪の毛だ。伸びに伸びた毛は天パなのか、それぞれが好きな方向にとっ散らかっていて、非常にだらしない印象を与えていた。
「何?」
彼はこちらを向いて話しかけてきたので、俺は手を止めて顔を上げるだけでいい。
話しかけられた心境としては少し複雑だ。
いつもならば手放しに喜んだだろう。
俺は、人に話しかけることが苦手だ。だからと言って、友達は欲しくない訳じゃない。いや、欲しい。寧ろ、欲しい。だからこそ友達を作るときは、苦手だのなんだの言っている場合ではなく、人に話しかけざるを得ない訳だが……。そんな俺にとって話しかけるという行為は、神からの救いの手とも言えるだろう。
それだけではない。残念なことに、俺は人から好かれる性質ではないらしく、そのそもあまり人から話しかけられない。だからこそ、邪心抜きで素直に、〝話しかけられる〟と言う行為そのものが嬉しい。
……普段なら。
然し今の状況を考えてもみろ。受験だぞ?昼食休憩が思っていたよりも長いからと言って、友達作りに励もう。とはならない。
特に合格圏内ぎりぎりという訳ではないものの、確認ぐらいはしておきたいと思うのが普通だろう。周りを見てみても、みんな必死に最後の追い込みをかけているのが分かる。
だから本当は話しかけてほしくはない。
それでも話しかけてきたこと自体は嬉しくて、先に友達を作っておくのも悪くないかな、なんて、思ったりして。だから、彼がなんて話すのだろうか?なんて予想しながら、彼の言葉を待っていたわけだけど。
「僕、寝るから、時間になったら起こしてくれない?」
……は?
…………は?
こいつ寝るの?
……勉強しないの?余裕かよ。
……いや、まあ、勉強しないのはまだいい。いい、けど、それ、普通……人に起こすの頼むか?なんだそれは。自分で起きろよ。俺はママか。どうしても起きられないなら寝るなよ。家に帰るまで我慢しろ。こちとら勉強したいんじゃボケ!
……とは言えず。
「あ、うん……分かった」
と答えるほかなかった。今思えば、友達になろうとか考えてた自分が恥ずかしくて八つ当たりも入ってたかもしれない。それでも、彼を時間ピッタリに起こそうとすると、時間を定期的に確認必要がある訳で……。勉強に集中出来る筈もない。
まあ、それでも悪くはなかった。そんなに切羽詰ってたわけじゃなかったし、彼と俺とは一度会話した仲なのだから、今後会うことがあれば、自然と話しかけやすくもなるし。未来への投資、と考えれば……うん。悪くない。
でも少し考えた訳だ。このまま起こさなかったら、彼はどうなるのだろう?と。もし起こさなかったら……。
きっと彼は人に起こすのを頼むぐらいだ。かなり寝つきが良く、ちょっとやそっとじゃ起きないのだろう。ならば、彼はそのまま寝続け……試験には落ちてしまうのかも……しれない。いや、途中で試験官に起こされるのかもしれないけど……。でも、もし起こされず、もし、落ちれば、それは俺にとってライバルが減る……と言うことになる。今のところ彼とは赤の他人だし、それで恨まれたところで大したダメージはない。
それに俺自身は勉強に集中できるわけだし……。なら、起こさないという選択肢も……。
・
「番号があるか、ちょっとお母さん先に見てくるわね」
俺よりも、緊張した面持ちで母は人混みの中に紛れ込んでいった。自己採点ではそこそこいい点が取れていたし、そんなに心配する必要はないと思うんだけどなぁ。まあ、こういうのって意外と本人よりも親の方が心配なのかもしれない。こんなに大きな図体になっても、母親の中ではまだまだ子供、と言うことなのだろう。
俺は母親のように、人混みを掻き分けていく気力はなく、少し外れたところで佇んでいた。すると同じように、ぽつんとったっている学ランが一人。気になってちらりとそちらを見ると、彼も同じこと思ったのか、此方を見て……微笑んだ。
笑うと鋭い印象の顔が綻び、可愛くなる、と彼な意外な一面を知れた。
「あの時は、起こしてくれてありがとう。おかげで受かったよ」
そう、俺はあの時、彼を起こした。
だって、そんなやり方で受かっても、ただ格好悪いだけだ。それに、それで彼が落ちたら、心のささくれにはなるだろう。そんなことを気にして生きていきたくなんて、考えただけで寒気がするね。
ってか、俺そこまで切羽詰ってた訳じゃないし。
ここで彼を起こす、と言う善行をしておけば、次のテストに簡単な問題が出るかもしれないしね。
神様が見ていて、俺を少しに贔屓にしてくれる……みたいな?情けは人の為ならず、と言うし。
彼の笑顔を見て改めて思った。彼を起こしてよかった、と。
やっぱり、善行はするべきだな……。
・
彼と話してみると、思ったよりも変な人ではなく、俺達はよく気が合った。もしかしたら、今後、長い付き合いになるかもしれない……なんて思うほどには。
彼の話によると、どうも彼は緊張すると眠くなる体質らしく、受験でも大層、眠かったそうだ。しかも不幸なことに、一度寝ると何があっても起きないらしい。だからこそ、少し下の高校を受けたものの、それでも不安で……俺に声を掛けた、と恥かしげに語っていた。
彼も、そんなに積極的な性格ではなく、俺に声を掛けるのにかなりの勇気を要したのは想像に難くない。
今なら思、誰かに肩を叩かれた。振り返ると母親だった。なんだか泣きそうな顔をしている。
「番号、なかった……」
……。え?
だって、自己採点の点数は悪くなかった……はずだ。
「な、何かの冗談、だよね……?」
「そ、そんなわけないでしょ?」
「じゃ、じゃあ、見間違いとか……」
「何回確認したと思ってるの……!!」
叫ぶ声には涙が混ざっていた。
俺は、駆けた。人混みに向かって。ガッツポーズをしている男を、泣きながら肩をさすり合っている母娘を、写真を撮っている女を、談笑している男たちを、番号を探している女を。
押しのけて押しのけて押しのけて押しのけて押しのけて、漸く、紙の前にたどり着く。
それを何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。
肩をさすられた。
母親だ。
かれはいなかった。
母親は泣いていた。俺は、目の前が真っ暗になり、崩れ落ちるように跪いた。