主事補・神坂太一 1
・国民健康保険税
国民健康保険に加入する者なら義務として納めなければならない税金。田岡市が運営する国民健康保険事業の財源に充てられる。
・賦課係
国民健康保険税を計算し課税する係。地方税法と田岡市条例の知識、問い合わせにきた国保加入者への適切な接遇が求められる。
クレームの多い係に配属となった神坂太一。市民からの信頼を得られ、能吏としての第一歩を踏み出せるのか?!
「だから!こんなの払えるわけないだろ!ふざけてるのか!!」
午前8時30分。春の季節。寒く辛い季節を乗り越えた木々は、柔らかい新緑に包まれる。
清らかな朝日から木漏れる光は希望に溢れ、新年度と伴に走り出す若人達をスポットライトのように照らす。いつも春はそんな爽やかな始まりの季節だった。しかし、今年の春は違った。
真冬に大型台風が遅れて直撃したような怒声が襲ってきたのだ。その標的は俺だ。
神坂太一22歳恋人なし。いわゆるMARCHと呼ばれるレベルの大学(と自負している)の経済学部を卒業し、地元の市役所に採用された新人だ。
「申し分ございませんが、この税額を安くする事は出来ないんですよ。ご理解頂きますようお願い致します。」
その場を取り繕うため、頭を振り絞り精一杯答える。しかし、自分でも溜息が出るほど当たり障りのない返答だ。
無理もない。採用されて2週間。知識ゼロ、接遇経験ゼロ、新人研修を終えたばかりのそんな俺に、税金の苦情対応なんて出来るわけがない。理不尽にも程がある。
-モノには順序があるんじゃないの?何で、先輩方が対応してくれないんだよ!-
返答する言葉とは裏腹に、心の声はそう叫び続けている。そもそも、市役所の職員なんてなりたくなかった。
第一希望は、憧れの経済産業省だった。この国の経済を動かす華やかな官僚になりたかった。しかし、受験するも一次でアウト。
気を取り直して受けた第二希望は東京都庁。都庁の職員も何となく華はある。何よりも、あの新宿にあるオシャレな都庁舎で働ける!そんな思いで受験した。
これは一次試験を突破したが、二次試験でアウト。最終選考まで残っただけに悔しかった。
就活に失敗し続ける俺を尻目に、次々と内定を勝ち取る同期達。その姿に焦り、まさかニートになるのでは?!と、不安がよぎり始めた。
そんな矢先、両親の薦めで試しに受けていた地元の田岡市役所に合格した。
両親は喜んでくれたが、俺はあまり嬉しくなかった。
何故なら、遊ぶところもなく何もない地元が好きじゃないからだ。
そして市職員の給料は安いし、仕事は地味だ。その上、底辺公務員なので市民から目の敵にされる。
でも、このままではブラック企業かニートかの選択を迫られる。それだけは嫌だ!
市職員なら、毎年昇給するしクビにならない。つまらないが残業ゼロの楽な仕事だ。
それに親の老後もある。いずれは一人っ子の俺が面倒を見なければならない。それに公務員なんだから、安定志向の女の子と結婚だって出来るだろう。
こうした打算を重ねた上で、市役所からの採用を受け入れた。
そして、俺が採用され配属されたのは国民健康保険課の賦課係。国民県健康保険税という税金を計算し課税するという係だ。
そんな係に入ってしまったが為に、朝っぱらから父親と変わらない年齢のオッさんにドヤされる始末だ。
「今度!こんなフザけた税金をかけやがったら納めねえからな!」
そのオッさんは一頻り怒鳴った後、窓口を後にした。
「お疲れ様」
始業開始20分にして、徹夜明けのように青白くなった俺にポツリと声をかけてきた。
課長の村田義雄だ。どうやら事の顛末を影から眺めていたらしい。
「こういうのも経験だからね。頑張ってよ!」
事務方とは思えない赤銅色の四角い顔と、溢れる白い歯を見せ、事務所最後部の課長席へと戻っていった。
-見ていたんなら助けてくれよ -
そう心の中で呟き、デスクへ戻ろうと俯きながら踵を返した。同時に己の思慮の浅はかさに後悔した。
こんなはずじゃなかった。ゆとりのある楽な仕事だと思っていた。しかし、現実は違った。朝から窓口対応に電話対応。それが終われば転入者への所得照会といった事務処理だ。
業務を教えてくれるのは、3人いる係のうちの1人。
50歳を迎える主査の今川京子だ。今川主査は採用30年を迎えるベテランだ。
パソコンを使った事務処理が苦手のようで、そこそこ知識はあるものの、課内ではちょっとしたお荷物のような存在として扱われている。
その主査から仕事を教わりながら事務処理を代行するという奇特な業務体制を送っていた。その結果、定時で帰れるどころか、毎日21時前後まで残業だ。
世に言う社畜のような扱いだが、公務員なので"公畜"と呼ぶべきだろう。
そして我が係にはもう1人の職員がいる。それはリーダーである係長・砂川慎なんだが...これが人事異動の引き継ぎ云々という事で、未だに顔すら見た事がない。
俺が新人研修の期間中に一度だけ挨拶に来たらしい。まだ若く、将来を嘱望されているやり手だと聞いていたが、何て無責任なのだろう。引き継ぎ期間は終わったのに、係長の分際でまともに姿を見せない。
こんなに忙しくて大変な時に!込み上げるやり場のない怒りを堪え、溜息を吐きながらデスクへ着いた。
「おはようございます!」
闊達で透き通る声が響いた。しかし、苦情対応で嫌気が差していた俺には、頭を小突かれるような違和感を覚えた。
声の方向を見ると、そこには黒く長い髪を束ねたほんのり丸顔の女性がいた。
明るい表情から覗く八重歯。歳は30歳ほどだろうか?ありきたりの濃紺のスーツとスカートを纏っているが、どこかしら色っぽさを感じる。すぐ男の性が働き、自然と身体つきに目がいく...胸とお尻は大きくないようだ。所謂、スレンダー体型だ。そして、スラッと伸びたしなやかな足。モデルのように綺麗な足だ。好みではないけれど、我々男性にとって充分過ぎるほど魅力的な女性である事に間違いない。
その女性は長い足をキビキビと動かし、村田課長の方へ歩みを進めた。
村田課長はスッと立ち上がり、再び溢れる白い歯を見せた。
「おお!もう引き継ぎは済んだんだね!お疲れ様!砂川係長!」
- 係長?!このお姉さんが?! ー
思わず声が出そうになり、慌てて口を噤んだ。咄嗟に職員名簿に目をやった。
そこにある賦課係長の名は砂川慎と間違いなく書いてある。
名前から男性職員とばかり思っていた俺はしばし呆然としてしまった。
村田課長と何らかの会話を交わした彼女は、係長席に軽快な足取りでやってきた。
「おはようございます。砂川です。事務引き継ぎの遅れにより、ご迷惑をおかけしました。皆さん宜しくお願いします。」
ハキハキした明るい口調で挨拶をした彼女は、俺の方へ歩み寄ってきた。
「あなたが新採用の神坂君ね。少ない係なのに負担をかけてごめんね。今日から一緒に頑張りましょう!」
明るく勢いある彼女に圧された俺は小さく「よろしくおねがいします」と返すのが限界だった。
「ところで、さっき喚いたいた人は何のクレームで来ていたの?」
「え、、、っと、先月、息子さんが社会保険から外れて国保へ加入したので、それで遡及課税になって、税金が上がったんです。」
朝から怒涛の展開で混乱している俺は、何とか事の顛末を整理して伝えた。
「じゃあ、今年度の税額も高くなるね。その事はちゃんと伝えたの?」
「いや、その、話を聞いてくれなくて...」
「それは駄目でしょ。息子さんの所得があるから、その分の税額が高くなるのは明白でしょ?そこはきちんと確認しなきゃ。」
「あと、社保離脱なら仕事をしていない恐れがあるよ。減免制度の説明もしなきゃ。」
矢継ぎ早に、駄目出しを浴びせられた俺は何も言い返せず、ただ、黙って耐えるしかなかった。
「京子さん、遡及課税の処理状況と過年度の調定額を教えて下さい。」
俺を駄目出ししていたと思ったら、今川主査と業務について何らかのやり取りを始めた。
- この人は何なんだ!怒って終わりかよ!係の長なら部下のフォローをしろよ!新人にそこまで出来ないよ! -
いきなりのダメだしに反感を覚えた俺は、不満を顔に出さないよう取り繕い、苦情対応のファイルに先ほどのオッさんの資料を綴ろうとした。
「あ、神坂君はさっきの人に連絡してね。」
一瞬、頭が真っ白になった。これは対応して終わった件じゃないか!即座に、何とか切り抜けたい思いで頭が一杯になった。
「え、、電話するんですか?さっき怒っていたのに...」
「だから連絡するんでしょ。早めに先手を打つ。減免の対象だったらどうするの?あ、庁舎内にまだ居るかもしれないから、早く探して話をしてきて。」
そんな殺生な!あんな思いをしたばかりなのに、この人は鬼か!
そもそも納税通知書に、税額が上がった事由が記されいるし、減免制度のパンフレットだって入っている。通知したのに、窓口で聞いてこない相手が悪い。
それに怒鳴り散らしてきたんだから、これは威力営業妨害ではないか。そう考えを張り巡らせていた。
「え、、、と、そこまでしなくても」
考えを張り巡らせて出た言葉がそれだった。内弁慶な俺にはこれが限界なのである。
しかし、そんな俺に係長は容赦なかった。
「何?やらないの?それともこんなのも出来ないの?」
さっきまでの明るい表情と闊達な口調は一変していた。
その表情と口調は、大蛇が獲物を睨みつけるような凍てつく恐怖と重圧を伴なっていた。狼狽えた俺は何も言えず俯くしかなかった。
その空気を察した今川主査が「まだそこまで指導してないから自分が対応しますよ」と、係長に告げ席を離れた。
二人きりになる係長と俺。気まずい。また怒られる。
空気はより冷たく重くなり、吸い込むと凡ゆる臓器の隅々までキリキリと傷めるように侵食していった。
更に、追い討ちをかけるよう係長は淡々とした口で告げた。
「次からは神坂君が最後まで対応してね。それと、出納整理期間が終わるまでは、主に窓口対応をして貰います。」
思わず唖然とした。臨時職員が来週から来る事を今川主査から聞かされていたからだ。
臨時職員に窓口と電話を任せ、事務処理に専念する計画を虎視眈々と練っていたのだが...それが係長に潰されようとしている!何とかしなければ!これじゃあ、身体がもたない!
「臨時職員が来週から来るので、その人に任せ..」
「その臨時は私が引き抜いてきたから、私の補佐としての業務と事務処理をやって貰うわ。あなたは、まずは市民の意見を聞く事から始めて貰いましょう。」
- そんなバカな!たかが臨時職員にそこまでさせるのかよ!労働契約違反じゃないの?!そして俺は臨時職員以下かよ!今まで何だったんだ! -
怒りと失望で心はグチャグチャになった。
これからこんな所で、あんなクレームモンスターを相手に仕事をするなんて...あんまりだ!
程なくして、今川主査が戻ってきた。どうやらオッさんを見つけ対応してきたようだ。
「もう大丈夫だからね。神坂君。どうやら息子さんはカフェを始めるみたい。困ったら相談に来ると言っていたわ。それと、失礼な事を言ってしまったと詫びていたからね。」
「あ、ありがとうございます。」
ホッと胸を撫で下ろしたが、虚しさは晴れない。
「京子さんありがとう。それと、遡及課税の納付書の発送の事なんだけど...」
二人は業務について確認を始めた。事務処理を代行している俺を抜きにして。
良い大学(と自負している)に入って留年もせず、一生懸命頑張ってきた。だから、市役所上級の採用試験に一発で合格できた。
俺には知識も教養もある。パソコンだって使いこなせている。だから、採用早々にも関わらず事務処理が出来ているんだ。それなのに、たかが苦情対応で除け者だなんて!
これまでの人生を否定されたようなショックを味わった俺は、将来を嘆き失望した。
新社会人になった俺の春は、鬱屈した重苦しい湿った大気が纏わりつく梅雨を思わせるような、そんな嫌いな季節になった。
そして、[転職]という二文字が、頭の中を浮かんでは消えていくのを繰り返し始めたのだった。