第06話 カレン・リッチフィールド その5
──銃弾の重さ──
ひと時の休憩時間が終わり、トーナメントの抽選も終わった。
残り八名。各選手がくじを引き、八つあるトーナメントの空白を埋める。
ここまで当たることのなかった、ジャック、アズマ、トーマス、マスクオブカーヴの四名の命運が、完全に決まった。
トーナメントの初戦にトーマスが名を連ね、第二戦にはジャックとマスクオブカーヴの組み合わせが決まった。準決勝は、この二つの戦いを制した者達となる。こちらは、いわばAブロック。
次いでアズマは第三戦に名を連ねたBブロックには、アズマ以外でリゥやカレンが名を知るガンマンは存在しなかった。
観客席から、この対戦カードを見て、カレン達は小さくため息をついた。
理想としては、マスクオブカーヴとトーマスが戦うことだったが、残念なことに、ジャックとマスクオブカーヴという最悪の組み合わせとなってしまった。
この組み合わせの中、実力を考えれば、決勝はジャック対アズマとなるだろう。
もっとも、カレンとリゥ以外からすると、ジャックはともかく、アズマは初戦敗退と思われているだろうが。
(……飽きたとか言って、負けない限りだが)
そんな可能性を思い浮かべ、リゥは一人苦笑した。
「どうやら、先に市長と当たるのはジャックのようですわね。これは残念ですが、市長と彼の対戦の目は、なくなってしまいましたわ」
「そう、なんでしょうか……?」
ケイトリンが、首をひねる。確かにジャックも初戦以外は安定して勝ち進んできたが、勝ち方としては、市長。マスクオブカーヴの方が、敵を圧倒していて、強そうに見えた。
「ま、それは仕方ありませんわね。結果は結果です。対戦となったら、遠慮なく市長を応援し、肩を落とすとよろしいですわ!」
「わ、わかりました……」
カレンの圧倒的自信を前に、気圧されたケイトリンは、たじたじしながら、その言葉にうなずいた。
「でも、ここまで順調に勝ち抜いてこれましたから、もう十分なのかもしれませんね」
本来なら、一勝もできずに敗北し、笑われていても不思議はなかったというのに、因縁のある街の者にも勝ち、勇敢であることは十分に見せることはできた。
少なくとも、臆病者として指を指されることは、今後ないだろうと、ケイトリンは胸を撫で下ろす。
「そうですね。これで文句を言うとすれば、リゥさんの術に気づいている人くらいでしょう」
「それに気づかれるとしたら、そもそもこの戦いに出ると考えること事態が無意味じゃろ。顔をあわせただけで、あの男がどんな性格なのか看破される」
「それもそうですわね」
トーマスの変化に、彼を知るものは気づいているだろうが、それが精霊の力を借りたものだとは、誰も思わないだろう。
それがわかるとすれば、エルフの秘術を目の当たりにしたことのある者だけだ。
その条件をクリアするカーヴシティの住人は、ここにいない。
であるから、この変化は市長に認められるため、必死に勇気を振り絞った結果だと、疑う者はいないはずだ。
「ま、やはりベストは、直接市長を倒すことじゃったがな」
「それは無理ですわねー。なにせ次の市長の相手は、ジャックですから。ふふふふふ」
残念。というように、優勝を確信したカレンは、手で口を押さえ、一応堪えるように笑った。
リゥはその姿を見て、やれやれと肩をすくめた。優勝するかは、アズマとの戦いを見なければわからないが、リゥも、アズマ以外のガンマンにジャックが負けるとは思っていなかった。
そんなことを三人娘が話していると、トーナメント開始のアナウンスが響き、初戦となるトーマスと、その対戦相手が姿を現した。
「ひとまず、勝てるところまでがんばってもらうとするか」
「そうですわね。さあ、応援の声を送ってさしあげなさい!」
「はい! がんばってトーマス!」
ケイトリンは、少し腰を上げ、手でメガホンを作りながら、姿を現した青年に向け、声を張り上げた。
銃声が鳴り響き、トーナメントは、トーマスの勝利で幕を開ける。
『第一試合が終わりました。トーナメント第二試合に出場の選手は、入場ゲートまでおこしください……』
「あ、出番だよじゃっくん」
「だな」
第一試合であるトーマスの戦いも終わり、第二試合に出場する自分を呼ぶアナウンスを聞いたジャックは、ベンチから腰を上げ、受付のある入場ゲートへ向った。
自身の登録ナンバーを示し、すでに何度目かの顔合わせとなる、受付にいる秘書へ挨拶した。
何度かというのは、試合のたび、今居る場所かもう一方の場所かで出る場所が変わるためだ。
「ついに大詰めですね。私個人としては、ジャックさんが優勝なんじゃないかって思いますよ」
「いやいや、それほどでもあるけどよ。そういうの、係の人間が言っちゃだめだろ」
受付に到着したジャックへ、にこにことした笑顔を貼りつけた秘書が口を開き、ジャックが苦笑しながら、答えを返す。
「おっとこれは失礼。忘れてください。それでは、弾をこめますので、銃を」
「はいよ」
ジャックはガンベルトを外し受付のテーブルのところへ置く。
秘書はそのベルトから銃をとり、一発一発。合計六発の弾丸を、銃へこめた。
「残りの六発は、ベルトに挟みますか? それとも、もう一丁へ?」
「ベルトの方に挟んでおいてくれ。どうせ、使わねえ」
「またですか。相変わらずの自信ですねえ」
「まーな」
決闘に使える弾丸は十二発。だというのに、ベルトに挟んでいては、いざ一丁の銃を撃ちきった時、弾をこめなければならない。
そのリスクを考えず、ベルトの銃を収める場所を指定するとは、それだけ自信があるという意味でもあった。
はたから見れば、ただの自信過剰。アホにしか見えないが、これまでの戦いを見て、秘書もジャックの実力に気づいており、これ以上のことは言わなかった。
むしろにやりと笑い、弾をこめた銃をベルトへ戻し、ジャックへと渡す。
「サンキュ」
ジャックは受けとったベルトを再び腰に巻き、アナウンスまで待機する場所となる、入場ゲート前の通路へと進む。
控え室と入場ゲートの間には、一枚ずつそれぞれの場所を区切る扉があり、選手は決闘開始までの間、入場ゲートを前にして、精神集中する小部屋。というか通路が用意されていた。
セコンドなどが居れば、ここで軽く会話などをしてもよい場所だが、ジャックは一人なので、ここには当然一人だ。
ジャックは一度目を瞑り、相手。マスクオブカーヴを思い浮かべ、バトルのイメージを瞳に重ねる。
まぶたの裏に映ったマスクオブカーヴが銃を抜き、ジャックの腕がピクリと動いた。
「よし」
『ジャック選手、入場ー!』
なにかを確信し、小さくつぶやいた直後、決闘場からジャックを呼ぶアナウンスが響き、入場ゲートが開く。
外の光がゲートからさしこみ、さらに、さえぎるものを失った大歓声が、一気になだれこんできた。
ジャックは決闘場へと足を踏み出し、入場と共に上がった歓声に、右手を上げ、答えを返す。
ジャックが姿を現した後、『マスクオブカーヴ』の名が呼ばれ、反対側のゲートが開いた。
扉の奥から現れるのは、ちょっと突き出たおなかを持つ、全身タイツのマスクマン。
大歓声があがるが、一瞬、その歓声が、ざわめきに変わった。
今まで馬に乗って颯爽と登場していたというのに、今回は、馬を使わず、ゆっくりと決闘場に姿を現したからだ。
今までにあった派手なパフォーマンスではなく、まるで、おふざけなど一切なしの、本気でやると書いてマジでやると書いてあるような雰囲気を、纏っている。
その姿に、ざわざわとざわめく観客の雰囲気など気にせず、マスクオブカーヴは決闘場の中央へと歩いてくる。
中央。最初の定位置につき、マスクオブカーヴは、ジャックの顔を、じっと見つめ、にっかりと笑った。
「ふっ。やはり、私の目に狂いはなかった。君は、私に匹敵するほど。いや、私以上の強さを持っている。であるから、本気で行かせてもらうために、こうしておふざけナシで、やってこさせてもらった……!」
ぶわっと、マスクオブカーヴの全身から、プレッシャーが放たれた。
「っー!」
それは、本人を目の前にしない、決闘場の外側。観客席に居る観客達が息を一瞬つまらせるほどの、圧力だった。
歓声を上げていた観客達が、一瞬声を失う。
素人でもわかるほどの、気迫であった。
それは、今までガンマン達を一歩後ずさらせ、萎縮させたプレッシャーをはるかに超える圧力。
だが、だというのにもかかわらず……
「上等」
そのプレッシャーを楽しむかのように、ジャックはにやりと笑みを返した。
マスクオブカーヴの放つ気迫は、ジャックにしてみれば、そよかぜのようなものだった。
ジャックは、これ以上のプレッシャーを放つ存在を知っている。それ以上のバケモノと、修羅場を知っている。それらを潜り抜け、彼はこの場に立っているのだ。
ゆえに、マスクオブカーヴのプレッシャーを軽々とはねのけ、笑うことができた。
それを見て、マスクオブカーヴも、にやりと笑う。
二人は同時に、足を肩幅に広げ、少し腰を落とし、自分のガンベルトへ、手をかけた。
構えの合図を待つ間にも、二人の気迫はぶつかりあう。
びりびりと、見えないなにかがぶつかり合い、空気が小さく音を立て、大地が揺れているような錯覚さえ覚えた。
歓声の上がっていた観客席も、中央に近い場所から徐々に、音を失ってゆく。
ペイント弾での戦いであるにもかかわらず、そこに流れる空気は、命と命をかけた、決闘のようにも見えた。
観客は息をするのも忘れ、二人の一挙手一投足を見守るしかできない。
決闘の死角となる場所で、お嬢様達が、互いに応援する男の勝利を願い、祈りを捧げた。
勝利を確信するカレンでさえ、こっそりと祈りを捧げている。
それほど、ここに渦巻く緊張の渦は、どちらに勝利の天秤が傾くのか、わからなかった……
「……」
男の額に脂汗が現れ、そのマスクへと流れ落ち、吸収された。
(なんと、恐ろしい若者か……)
ジャックと対峙し、気迫のつばぜり合いを続けるマスクオブカーヴは、思う。
目の前に立つ男は、構えや視線。なにをとっても、バランスがよく、見ただけで一級品の腕があると見て取れた。
だというのに、相手からは、殺す気が一切感じられない。
目の前の男。ジャックは、実戦と同じ気構えでここに立っているはずだ。
(私の気あたりを受け、平然と立ち、だというのに、一切の殺気がないとは……)
それはつまり、実戦であっても、相手を殺す気がないということを意味している。
(これは、彼が舐められるわけだ)
先日の朝見たときから、マスクオブカーヴ。改め、市長の中で渦巻いていた疑惑。
一流のガンマンならば、構えを見ただけで、相手の実力はある程度わかる。命のやりとりをするのだ。相手の実力もわからず、銃を抜こうとするなど、自殺行為。
現に、朝ジャックと戦った男は、市長と相対した時、その格の違いを見抜き、戦う前から勝負がついていた。
だというのに、その違いがわからず、奴等はあの日、ジャックへ戦いを挑んだ。
その、理由。
その答えが、ここにあった。
ジャックからは殺気が感じられない。ならば、アウトロー達は、彼の構えを見たところで、怯えない。
彼を前にしても、殺される気がしないのだ。となれば、怯えも、恐れもしない。だから、彼等は萎縮せず、最大パフォーマンスで、銃を撃てた。
命のやりとりをする中、相手の調子を少しでも下げるというのは、生き残る上で必須のことだ。
だが、目の前のガンマンは、それを捨てている。
市長に、その理由はさっぱりわからなかった。当然。血を見ると自分が気絶するから、下手に相手を傷つけられない。などという理由に、思い至れるわけもない。
わかるのは、そんな、敵が十分パフォーマンスを発揮できる状況で、彼はそれを上回り、さらに弾丸を相手の銃へと命中させられる腕を持つこと。
圧倒的な速さと技術力。そして、自信があるということだ。
相手を傷つけるというプレッシャーが感じられないゆえに、勘違いしてしまう、彼の真の実力。
歴戦のガンマンであり、何度かジャックの戦いを見たがゆえ、市長は、ジャックの実力が自分より上であることに気づいた……!
ジャックの奥底に眠るガンマンとしての恐ろしさを垣間見て、背筋が震えるのを感じる。
だが、その恐ろしさの中で、歓喜も自分の中で渦巻いていることに、市長は気づいた。
この緊張感。それは、久しく感じなかった、死への恐怖とも言える、歓喜と恐怖を纏った、戦いの世界でしか感じられない、快楽であった。
市長、もとい、マスクオブカーヴは、ジャックの姿を観察しながら、歓喜のままに、自分から発するプレッシャーをさらに強める。
それでもジャックは動じない。
するりとマスクオブカーヴの殺気をかわし、相手の動きを冷静に観察していた。
(すばらしい!)
恐怖と歓喜。両方を伴った笑みが、マスクオブカーヴに、浮かんだ。
「……すばらしい」
受付の裏にある、決闘場を覆う壁の隙間から、この戦いを見る秘書が、思わずつぶやいた。
(やはり私の見立てに間違いはなかった。間違いなく、あの男は、市長に勝つ……!)
市長の表情が芳しくないことを感じ取った秘書は、心の中でにやりとほくそ笑んだ。
(くくくくく。あとは、開始の合図がなり、あの男が市長を撃ち殺すだけ。そうすれば、市長は死亡。私の横領が、世に出ることはない。さらには市長の後継者として、私が次期市長になって、しかも傷心のケイトリン様を慰めて、下手すると玉の輿にまで乗っちゃったりして……!)
ぐふふ。と、声を殺し、秘書は笑った。
横領の発覚を恐れた秘書の立てた、市長を殺す方法。
それは、ペイント弾がこめられるはずだった銃に実弾をこめ、それを用いて、他人に市長を殺してもらうというものだった……!
(ふふっ。市長の趣味を考えれば、この祭りに参加するのは確実! 最初のランダムでは仕掛ける時間がなかったが、このトーナメントになれば、いつどこで戦うのかがわかり、さらに実力のある奴等の選定までできた! その中で、一番の実力者! このタイミングこそが、確実! さあ、あとはお前が市長を殺し、私が思い出した適当な私怨で逮捕されればいい! お前は昔、この地に来て、市長に排除された男の息子とか、そんな感じだ!)
そのでっち上げが都合よくいかない可能性は、計画が順調すぎるほど順調に進んでいる秘書は、思い至らない。
なにより、いざとなれば事故で済ますことができる。
(もしくは、ペイント弾と間違え、実弾を紛れこませたと、リッチフィールド商会になすりつけてもいい! パイプがなくなるが、そちらの方が可能性はありえる! どのみち、市長さえ死ねのならば、事故でもいい!)
心の中で、次のステップを考えながら、秘書はその戦いがはじまるのを、今か今かと待つ。
(さあ、撃て。撃て。撃て!)
会場を凝視し、念を送りながら。
開始の合図を送る審判も、ジャックとマスクオブカーヴの間に漂う緊張に、喉に渇きを覚える。
だが、自身の仕事を全うすべく、ホイッスルをくわえ、震える肺を大きく膨らませ、その合図へ息を吹きこんだ。
戦闘開始の合図が、鳴り響く。
(殺せ)
二人のガンマンが、合図と共に銃を抜く。
銃をホルスターから早く引き抜いたのは、ジャックであった。
今回は、手加減抜きである。
(殺せ!)
一瞬にして銃口をマスクオブカーヴの胸へと向け、その引き金を……
「っ!」
(殺せー!)
たぁん。
一発の銃声が、決闘場に、響いた。
「う、そ……」
驚きの声をあげたのは、観客席のカレン。
「なん、じゃと……」
隣の、リゥ。
「まさか……」
さらに、メリッサであった。
ジャックを知る三名が、信じられないと、驚愕の表情を浮かべている。
あのメリッサですら、笑顔を崩し、信じられないという表情だ。
「……は?」
決闘場にある壁の裏で、素っ頓狂な声をあげたのは、秘書。
その顔は、なにが起きたのか、信じられないというものだった。
唖然と、その光景を、見つめる。
それは、ありえない光景だったからだ。
ジャックが、銃を抜いたまま、その胸を赤く染めている。
ゆらゆらとあがる硝煙。
それの揺れる銃口を持つのは、同じく信じられないという顔をしている、マスクオブカーヴだった。
ジャックの持ち上げが銃からは、弾丸が放たれていない。
ジャックは、引き金を引かず、マスクオブカーヴのペイント弾を、胸に受けたのだ……!
『勝者、マスクオブ、カーヴ!』
勝利者アナウンスが、会場全てに聞こえるよう、大音量で流れた。
緊張に包まれていた場が一瞬にして脱力し、大歓声が会場を包む。
よい戦いだったと、負けたジャックにも喝采は送られ、さらに勝利したマスクオブカーヴには、より大きな賞賛が送られた。
その喝采を浴びるマスクオブカーヴは、どこか信じられないように、自分の勝利を聞き、胸を朱に染めた対戦者を、見ていた。
一瞬の攻防であったが、一流のガンマンであるマスクオブカーヴには、速さにおいて、自分は負けていたと確信していた。
「……」
ジャックは無言のまま、銃をホルスターに納め、きびすを返す。
「あ、君……」
マスクオブカーヴは自身の疑問を口に出そうとするが、ジャックは立ち止まらず、その背中は遠ざかり、開いた入場ゲートへと消えていった。
それは、敗者は大人しく去り、勝者への喝采を邪魔しないようにも見えた。
観客から見れば、非常に潔い幕引きのようにも見え、敗者が消えたことにより、マスクオブカーヴへの喝采はより大きくなった。
マスクオブカーヴも、腑に落ちなかったが、勝利は勝利と、ジャックの態度を受け取り、観客の歓声へ答えることにした。
散々無理だといわれ、トーマスとの対決を諦めかけていたケイトリンは、予想していなかったマスクオブカーヴの勝利によって、思わず拳を握り、席から立ち上がってしまった。
ふるふると喜びに震え、そのまま席を立ち上がり、最前線へと走り、身を乗り出すようにして、次の試合を観戦しはじめる。
このまま彼女は、父対恋人の対決に、かぶりつきで応援するのだろう。
同じように、リゥとカレンも、腰を浮かせていた。
だが、こちらはケイトリンとは違う理由だ。
二人は顔を見合わせ、カレンは腰をおろし、リゥが立ち上がり、後にある通路へ出て、走り出した。
当然目的は、ジャックに何故撃たなかったのかを、問うためである。
「……バ、バカな」
秘書は、見つめていた隙間から、目を見開き、信じられないと、声をあげた。
(なぜ、撃たなかった……まさか、銃に実弾が入っていると、気づいたのか……? いや、そんなこと……)
希望的観測を思い浮かべるが、その希望はありえないと、秘書は即座に気づかされた。
ぎろり。
「っ!」
きびすを返したジャックは、秘書の居る隙間を一瞬睨んだのだ。
いや、秘書を見たとは限らない。視線があったわけでもないし、こちらへただ視線を投げかけただけかもしれない。だが、怒りに燃えた目が秘書の目に飛びこんだ瞬間。秘書の背筋が震え、まるでにらまれたような錯覚を覚えたのだ。
(ば、ばれてる……! あいつ、銃に実弾が入っていたって、絶対気づいてる! なぜかわからないけど、絶対気づいてるー!)
秘書はその場でぺたんと尻餅をつき、震え上がった。
あの怒りの表情は、絶対に自分を捕まえに来る。そう確信した秘書は、ばたばたと手足をばたつかせ、地面を蹴ると、その場から逃げ出した。
バタン。
入場ゲートの扉がしまり、ジャックが控え室とゲートの間の通路へ戻る。
「じゃっくんじゃっくーん。どったのー?」
そのジャックを出迎えたのは、アズマだった。
だが、塗料のついた上着を脱ぎ捨て、肩を怒らせ歩くジャックはアズマに答えを返さず、その横を通り過ぎ、アズマの襟首をむんずと掴んだ。
「おぉ?」
「おい、あそこの受付に居た男、どこに行ったか見てたか?」
ドスを効かせた、怒りをふくんだ声で、まるで恫喝するかのように、引きずる少年へ声をかける。
受付には、先ほどの秘書ではなく、全然知らない別の係員が立っていた。
「ああ。あの市長の秘書って誰かが言ってた人なら、さっき急いで控え室出て行ったよ」
「そうか。なら、ついて来い」
受付へ視線を向けたアズマを、ずるずると問答無用で引きずったまま、ジャックは控え室を横切る。
視線を、自分を引きずるジャックへ戻したアズマは、やれやれとジャックへ向け、声をあげた。
「あー。それは、今撃たなかったことと、なにか関係ある?」
「ある。大有りだ。すぐに追いかけて、とっ捕まえてボコボコにしたいクズがいる。手伝え!」
「えー。そういうのじゃっくんだけで大丈夫じゃーん。俺まだバトル残ってるんだけどー」
「うるせえ。どうせ真面目にやっていねーんだ。手伝え」
「へいへい。どうやらお怒りが有頂天のようだね。でも、大体わかったよ。これはお祭りで遊んでいる場合じゃないや」
「……マジか?」
なんの説明も聞かずにあっさりと出た、アズマの理解宣言に、怒りに震えていたジャックの頭も、少しの冷静を取り戻す。
一瞬足をとめそうになったが、速度が少し緩んだだけで、歩みはとまらなかった。
「そりゃもう、じゃっくんがこれほど怒りに震えるなんて、一つしかないじゃん。んで、秘書さんで、なぜ撃たなかったか。答えは出たも同然だね」
引きずられながら、アズマが人差し指を立て、指をくるくると回しながらいくつかの要点をピックアップする。事情も詳しく聞いていないというのに、それは立派にマトを得ていた。
「……さすがだ」
ジャックは少し苦笑しながら、アズマの頭をぐわしと握り、乱暴に撫で回した。撫でたというより、振り回したと言った方が正しいが。
説明をしなくて話が早いというほっとした気持ちと、なんでたったあれだけでわかるんだよ。という複雑な気持ちが織り交じった結果である。
「うわっぷ。歩きにくい。歩きにくいよ!」
「うるせえ。それで、今度はどっち行ったんだ!」
控え室からさらに外へ出て、決闘場の外周となる通路へ足を踏み入れたジャックは、キョロキョロと、周囲を見回した。
この通路は、決闘場の最も外側の壁で隔てられ、先ほどいたジャック達の控え室から、ぐるりと円を描いて、反対側の控え室に向うための通路である。
控え室から出たすぐのところに、外へ出る扉もあり、秘書の逃げるルートは、そこから外に出るか、左右の外周を回り、反対側の控え室にある扉から外へ逃げるか、中にとどまるかであった。
「さすがに控え室から出た後、扉が閉まっちゃったからわからないねー」
「ちっ」
ジャックはアズマを、通路へ放り投げた。
「うわっとっと」
放り投げられたアズマはバランスをとり、ジャックを振り向いた。
「決闘場の中は任せた。俺は、外を探す!」
「はーい」
外へ通じる扉を指差し、ジャックはそのまま、外へと飛び出してゆく。
アズマも返事を返し、扉から右回りで、通路を進みはじめた。
外へ凄い勢いで飛び出すジャックは、ぎりり。と歯軋りが外まで周囲まで響くかの力で奥歯をかみ締め、拳を握った。
「あの野郎、絶対にゆるさねえからな……! 絶対にだ!」
怒りに燃える瞳を左右に揺らし、いなくなった男を探し、ジャックは走る。
入り口から外へと出て、周囲を見回す。
背中には、「わぁ!」と、観客の大歓声が響き、その勢いから、びりびりと背中が震えるのが感じられた。
アズマがゲートから出現せず、棄権したので、この歓声は、その次のバトル。第四試合のモノだろう。
アズマが棄権したにもかかわらず、祭りの盛り上がりは失われるどころか、さらにヒートアップしているようだ。
だが、ジャックは盛り上がる会場のことなど気にも留めず、キョロキョロと周囲を見回すが、探し者は見つからない。
「くそっ。どこ行きやがった」
「ジャック!」
外を見回しているジャックのもとへ、リゥが観客席へと登る階段から、降りてきた。
ジャックが銃を抜き、それなのに撃たないという行動をとった上、アズマまで試合放棄し、失格となったのだから、一体なにが起こったのかと、唯一ジャック達へ接触できる彼女が代表で聞きに来たのだ。
「なんだ、リゥか。ちょうどいい。お前、あの市長の秘書、見なかったか? オールバックでキツネみたいな顔をしたヤツだ」
「秘書? ああ、それならさっき階段ですれ違ったぞ」
「なにっ!?」
自分の背後を指差したリゥへ、ジャックは駆け寄り、階段にいる彼女を押しのけ、観客席へと走り出そうとする。
「ちょっ、こら、一体なにが起きている! なぜお前はペイント弾を撃たなかった!」
階段の前で体を大の字に広げ、階段を無理に登ろうとするジャックの邪魔をしながら、先ほど撃たなかった理由を尋ねる。
理由もわからないし、なにより、観客席には今ジャックに顔をあわせられないカレンがいるのだから、リゥの行動も当然と言えた。
「ええい。時間がないってのに、ならいい!」
強引にリゥの背中をつかみ、そのまま小脇に抱えるようにして持ち上げる。
前にアズマが抱え、原っぱを走ったあのスタイル再びだ。
「んなっ!?」
じたばたと暴れるが、ジャックの力に、リゥはそれを引き離すことができなかった。
「走りながら説明してやるから、一緒に来い!」
「いや、じゃが……」
「嫌なら置いてく!」
「……」
このまま置いていかれたら、ジャックが急ぐ理由も、なぜ銃を撃たなかったのかもわからない。
ついでに、置いていかれたらカレン達と顔をあわせるのを指をくわえてみていることになる。色々複雑な気持ちだったが、今は事情も聞きたいので、抵抗はせず、なすがままとなった。
木の階段に拍車の音を響かせ、ジャックが観客席へとあがってゆく。
「で、なぜ撃たなかった! いくらあの市長が凄腕でも、お前の方が速さは上じゃったろう!」
「ああ。上だったさ。だがな、撃つわけにはいかなかったんだよ。なぜなら今俺の銃には、実弾がつまってやがるんだからよ!」
「なっ!?」
リゥは、ジャックの腰に納まる銃へ、視線を下ろした。
この銃は、マスクオブカーヴとの戦いのまま、ここにおさまっている。
ジャックの言葉が本当なら、ここには、ペイント弾ではなく、実弾がつめこまれているということになるからだ。
「一体何故! そして、どうしてそこに実弾がつまっているなどわかった!」
ジャックは一発も弾を撃っていない。なのに、実弾がつまっているなんて、なぜわかる。
「なぜここに実弾をつめたのかは知らん。でもな、持った時の重さが違うんだよ。昨日言ったろ。実弾のが重いって。さっき抜いた時、その実弾の分、重かったんだよ。この銃が!」
「っ!」
リゥは、昨日の試射の際説明された、弾丸の重さのわずかな違いを思い出した。
ジャックは、あの極限の一瞬で、そんな重さの差異さえ感じ、銃撃をとめることができたのだ。
(相変わらずこいつも、とんでもない男じゃ……!)
感心するリゥの耳に、ぎりりと、激しい歯切りが聞こえる。それほど、ジャックの怒りが大きいのが、わかった。
「そして、なにをやろうとしたのか、俺になにをやらせようとしたのかは、わかる。あの野郎は、俺を使って、市長を殺させようとしやがった。暗殺だ……!」
その怒りの大きさの意味も、リゥには理解できた。
ジャックが最も嫌いなもの。それが、暗殺なのだ。
自身が血を見ると気絶するというトラウマを植えつけられたのが、カレンを狙った暗殺。それ以来、ジャックにとって暗殺は、忌むべき存在となった。
その大っ嫌いな暗殺の片棒を担がされそうになったとなれば、ジャックが怒るのも当然だろう。
「そして、その首謀者が、その秘書というわけじゃな?」
「ああそうだ。こいつに弾をこめたのは、あの秘書だからな!」
試合前に、受付でジャックの銃を持ち、弾をこめたのは、秘書だ。その時以外に、ジャックの銃にペイント弾以外の弾丸がこめられるはずがない。
なにより、問い詰めようとしたら逃げ出した。
これらのことから、犯人は、秘書以外にない!
「だからまずは、あいつをとっ捕まえて、ボコボコにして、どうしてそんなことをしたのか、問い詰めてやる!」
「問い詰めてから、ボコボコにしろ……」
階段を駆け上がるジャックに、リゥは呆れたようにつぶやいた。
ジャックが観客席に駆け上がって行く。
一方、決闘場では、ついに運命の戦いもはじまろうとしていた。
マスクオブカーヴ。もとい、ケイトリンの父、市長と、その恋人、トーマスの一戦。
ジャックが敗北したことにより、実現した、夢のカードが……
──運命の一戦──
トーナメントの第二回戦。
わかりやすく言えば、準決勝第一試合。
それは、トーマスとマスクオブカーヴ。ある運命をかけた戦いのカードだった。
トーマスの名がアナウンスされ、トーマスが入場ゲートから姿を現したのと同時に、大歓声がわっと上がる。
観客はカーヴシティの住人も多く、ここまで彼が、勇敢に戦えるなど誰も思っていなかったゆえ、その反動からの応援が、とても多いのだ。
とはいえ、市長ふんするマスクオブカーヴも、人気という点では負けていない。
街の住人対決ということで、観客のヒートアップも、ひとしおだ。
残ったもう一方から、マスクオブカーヴが姿を現せば、さらに大きな歓声があがる。
今回も、馬に乗った登場ではなく、ジャックの時と同じく、本気を意味する徒歩での登場であった。
マスクオブカーヴとトーマスが視線を合わせる。
ばちばちと火花が散るかと思うような、緊迫した空気が溢れた。
両者が中央へと歩み寄る中、マスクオブカーヴの背後の位置に、ケイトリンが移動した。
観客席の最前列に陣取ったケイトリンと、その存在に気づいたトーマスの視線が、合う。
トーマスは、優しく微笑み、目で語る。
目の前に現れたマスクオブカーヴ。いや、市長へ、自分達のことを伝えてよいか。と。
ケイトリンは、その瞳を感じ取り、こくりとうなずいた。
ここまできたのなら、もう、行動する以外にないと、彼女はトーマスを信じたのだ。
決闘場中央の停止位置に立ち、緊迫と歓声が高まる中、トーマスはゆっくりとその利き手を、天へかかげた。
「む?」
マスクオブカーヴが疑問の声を上げ、意味深な行動に、歓声がゆっくりと静まってゆく。
「マスクオブカーヴ。いや、市長。ここで一つ、宣言させていただきます!」
マスクオブカーヴとトーマスにばらけていた視線が、全てトーマスへと集まった。
これだけの熱気と視線にさらされても、トーマスは堂々としていた。それは、今までの彼を知る者からすれば信じられない光景である。気弱で、臆病な彼を、一体なにが突き動かしているのか。皆が思った疑問に、彼は答える。
「私は、あなたのお嬢様とお付き合いさせていただいております! どうか、お嬢さんを、僕に、くださーい!」
天に伸ばした手を体の横につけ、一気に身を正し、トーマスは勢いよく、頭を下げた。
ざわっ!!
あまりに予想外な宣言に、会場に音が戻り、ざわめきの声が会場に満ちた。
観客の視線は、勢いよく頭を下げたトーマスから、答えを返す、マスクオブカーヴ。いや、市長へとうつる。
「くく。くくははははは!」
マスクマンは、突然、笑いはじめた。
「そうか。突然の豹変は、娘のためか。これで、納得がいったよ。何故君が、この祭りに参加したのかを。何故君が、勇敢に戦ったのかを! ここでそれを明かしたのは褒めてやろう! だが、まだ認めぬ! 娘が欲しければ、この私を! 父となった私を倒してみせよ!」
マスクオブカーヴは、その顔を覆うマスクを剥ぎ取り、素顔を見せた。
なんと、マスクオブカーヴの正体は、このカーヴシティの市長にして、ケイトリンの父だったのだ! こいつはおどろきだ!(棒)
マスクオブカーヴは素顔をさらし、市長として、父として、この勝負を受けたのだ!
ざわめきに満ちていた会場の空気が変わる。
わぁっ! と、大歓声の音に満ちた。
ここにきて、祭りは更なるヒートアップを見せたのである。
あとは、トーマスが市長に勝利するだけ。
なのだが……
「……」
頭を下げたトーマスは、だらだらと脂汗を流していた。
トーマスの頭を覆っていた、熱い熱の膜が、突然波が引いていくかのごとく、消えてしまったからだ。
それは今までトーマスの気分を高揚させ、昨日まであった気弱なトーマスを感じさせないでいた、心の奥から湧き上がる、酩酊するかのような、熱く、心地よい、熱病のようなもの。
それが、唐突に、なくなってしまった。
さぁっと、熱が引き、トーマスの中に冷静な心と、理性が戻ってきた。
冷静さが姿を現せば、一体なにが起きたのか、すぐ理解できた。
答えは、簡単である。
リゥのかけたエルフの秘術の効果が、切れたのだ。
リゥは二日持つと言っていたが、トーマスの中の火は、彼女の予測を大幅に超えるほど、燃えやすかったようだ。
おかげで、体に秘めた火を一時的に燃やしつくし、熱病のような興奮は、終わりを告げてしまった。
熱の障壁は失われ、残ったのは、元の気弱で、頼りない青年だけ。
わあぁぁぁぁぁ!
巨大な歓声が、トーマスを襲う。
周囲全てから、彼を応援する声が、響いてくる。
だが、精霊の加護を燃やし尽くした彼に、それは、巨大なプレッシャーでしかなかった。
腹の奥が、きゅっと縮まり、手足が小刻みに震える。
視線を地面にさまよわせ、口元はひくひくと引きつっていた。
今まで聞いたこともない応援と注目に、トーマスの体は強張り、下げた頭を上にあげることさえ一苦労だった。
ぎらり。
顔をあげたトーマスへ、素顔をさらした市長の眼光とプレッシャーが襲い掛かる。
ひぃ! と声を上げ、後ずさりたいところだったが、それさえできないほど、トーマスの体は、いうことを聞かなかった。
このままでは、銃を抜くどころか、固まったまま、なにもできずにうちたおされる様が、目に浮かんだ。
周囲からの応援と、市長からのプレッシャーに、身が竦む。
あの宣言をしたのだからもう、後には引けない。
なぜこのタイミングで、解けてしまったのだ。なんて恨みがましいことを思ったところで、意味はない。
逃げ出したかったが、戦って勝つ以外、道もなかった。
(勝たなきゃ。勝たなきゃ)
そう思い、体を動かそうとするが、手が強張り、マトモに動かない。
かたかたと震えながら、手を銃の元へ導くので、精一杯だった。
(まただ……)
いつもそうだった。
人を前にしたり、なにかプレッシャーにさらされれば、心臓がバクバクと波うち、頭がパニックになり、色んな失敗ばかりが浮かんで、それが怖くて、体が動かなくなる。
成功のビジョンなんて全く浮かばず、そのまま失敗して、その恐怖がまた、次の失敗を引き起こす。
(エルフの秘術を受けて、僕は変わったと思っていたけど、それは、思い違いだった。やっぱり、僕は、ダメなのかな……)
次から次へと、市長に撃たれたり、銃を取り落としたりするなど、失敗のビジョンが頭を駆け巡る。
考えれば考えるほど、体は強張り、身は竦み、動かなくなっていった……
「トーマス!」
開始の合図が迫る中、観客の歓声の間をぬい、愛しい人の声が聞こえた。
市長の後から、自分を必死に応援する、ケイトリンの姿が目にはいる。
「っ!」
(ダメ、だ! 諦めちゃ、ダメだ。なんのために、僕はこのバトルに参加したんだ。ケイトを幸せにするためじゃないか!)
ダメダメなトーマス。母の病でカーヴシティへ戻り、なれない酪農生活の中、出会った、愛しい人。
(こんなダメな僕を放っておけないと、手を差し伸べてくれた、唯一の人! その人の、期待に答えられないなんて、いいわけがない!)
諦めかけた心に、新たな力が生まれた。
(どうしようどうしよう!?)
頭を必死に働かせようとする。
だが、ネガティブな想像ばかりが浮かび、成功する姿など思い浮かばない。
失敗して、皆に笑われ、恋人が去ってゆく最悪の想像まで生まれる。
考えれば考えるほど、体が動かなくなってゆくのを感じた……
──迷ったら、頭空っぽにして難しく考えるのやめちゃった方が楽ですよ。いっそ、別のこと考えちゃうのはどうですか?
「っ!」
頭の中に、決闘場へ出る直前に顔をあわせた少年の言葉が響いた。
トーマスの目が、カッと見開かれる。
目に、市長の後に居るケイトリンの姿が目に入った。
心配そうに、自分を見つめ、祈る彼女の姿だ。
(ケイト……ああ、もう、こうなったら、どうにでもなれ……! ケイト、ケイト。ケイトケイトケイトケイトケイト!)
愛しい人をじっと見て、トーマスは難しく考えるのをやめた。ただひたすらに、ケイトリンのことだけを考える。
彼女との出会い。彼女との秘密のデート。彼女と語り合った、将来のこと。彼女の、笑顔を……
すると、周囲の音が気にならなくなった。
周囲に見える観客の姿も、トーマスの意識の中から消えうせ、対戦相手の市長さえ、ぼんやりとした姿へ変わる。
じっとただ一つのことに集中したトーマスの意識は、いつの間にか高い集中力を発揮し、混乱した体は、落ち着きを取り戻していた。
「ほう」
市長が、またトーマスの雰囲気が変わったことを感じた。
姿を現した時のトーマスは、まるで不安定に揺れる、燃えつきる前のロウソクの炎であるかのように見え、啖呵を切った直後に、その炎は風にふかれたかのように、消えてしまった。
今まで、酒や仮面などの力を借りて、自分ではないなにかの皮をかぶり、勝ち残って来たように見えたのだが、今は、違う。
市長の気迫により、その化けの皮を剥がされ、火の消えたトーマスの体は、動揺に震え、今まで対戦した誰よりも、市長のことを恐れているように見えた。
素の自分を丸裸にされたトーマスだったが、ギリギリのところでまた、雰囲気が変わった。
ロウソクの炎が消えてしまったのが、良く作用したのだろう。炎が消えたがゆえ、どれほど風がふいても、揺れる炎が存在しない。
今の彼は、波も立たない水面のような心に変わっていた。
たった一つのなにかに集中し、市長の放つ気迫さえ、感じていない。
この大一番で、まるで集中力のゾーンに入ったかのような落ち着きを見せていた。
その姿は、今までのトーマスから、一つなにか、殻を破ることに成功した姿だった。
(あの他人の力を借りたような状態や、小刻みに震える状態ならば、決して認めようとは思わなかったが、今ならば、考えないでもない!)
トーマスの変化を感じ、市長は心の中で、にやりと笑った。
だが、当然負けてやる気は毛頭ない。
この勝負に負けるようならば、娘をやるわけにはいかない、父の意地もあるからだ!
炎のような市長の気迫と、透き通った水のようなトーマスの集中力が、決戦の地でぶつかり、受け流されあう。
(トーマス。お父様……!)
観客席のケイトリンが、祈るのと同時に、運命の合図が響き、一発の銃声が、場に鳴り響いた。




