電離層の彼方
“夏暮”は病室にいた。医師から絵を見せられている。
「これは何に見えますか」
ルビンの壷に酷似していたので、
「ルビンのつぼ、その二」
と答えた。
「二つの白い顔は男女を表して、真ん中のツボは男女が交じり合って集積、濾過されています。結果、自己内部が形成されて、人の感覚する世界が始まるのです」
白衣を着たマネキンは話を聞くどころか、カルテを書くこともできなかった。ただ椅子に座っている。
夏暮は舌打ちをして白磁サナトリウムを出た。ラジオの奴も見当たらなかった。
夕暮れの帰り道に“馬暮”と出会った。見知らぬ知り合いであったが、彼は上機嫌に秘密を漏らした。
「俺分かったんだ、夕日の赤いわけが。太陽のせいでもなく、風の仕業でもないんだ。この地表から空のあそこまで、いっぱいのみんなが飛び交っているからなんだ。幾千、幾億の無限のマクスウェルが飛び交って満たされて、光のように照らして……。だからなんだ。ようやく分かったよ。光なんだ。束なんだ。線なんだ。波なんだ。水なんだ。声なんだ。音色なんだ。ノイズなんだ。反応なんだ」
「俺もあの空の高み・二百四十キロメートルへいけば、みんな無害な奴らと一緒で語らえるのかな。パイロットになろう。飛行機なんかいらない。俺は知っているのだ、空の飛び方、何の制約も受けないけど少し騒がしい……」
陽が落ち始める。馬暮の顔が黒ずみ歪んでいく。
「そうさ、夕暮れ空は赤い、なぜなら音が満ちているから。電波の、自然の赤味なんだ。地表から電離層までありとあらゆる電波が飛び交うのなら、それをいちいち捕えて内容を調べていけば、遥か上空にまで届く強電波を捕まえられる筈……」
馬暮の表情はもう読み取れなかった。頭部に電波が幾重にも巻きついて月桂冠のようだ。激しく回転する月桂電波をして、彼は嘘くさい天使を演じるつもりらしい。
「おいで」
馬暮は案内する。
……
……
二人が住宅街の裏路地を歩いて行くと、街臭い街灯は低くポツリポツリとお喋りをしては、やがて押し黙った。前を行く馬暮は夜のせいで背中が黒ずみ、透けて見えるようだった。実際、透けているのかもしれない。
煌々とする街灯に浮かび上がるのは廃墟となった団地群である。その一つに彼らは入っていく。馬天使の頭部から「ぬいぐるみ・縫い包み」とノイズが走るが、夏暮はニヤついていた。
人の気配はなく、茶色の外壁は大きくひび割れている。まるで電波が走ったみたいに……。住人はこれを見て退去したに違いない。遠くから伸びる街灯の明度を頼りに馬暮の後をついていく。もう彼の足しかみえないほどだ。
横に入り共用廊下を進むと、ひとつだけ点いている照明があった。その真下で電離層天使は振り向いた。
「ココダ、ココダ。ほら見てご覧」
室の前に据えられている電灯は玄関のものだが、劣化のせいか激しく明滅している。多分そのせいで馬暮の上半身がなくなっている。なくなったフリをしている。
「これはモールス信号さ。君も寂れた街灯が悲しそうに泣いているのを見たことがあるだろう。じっと見つめるんだ。何か喋っているよ」
思惟恣意と囁く偽天使の声はノイズ混じりで耳に障る。勝手に開いた扉を覗きこむと地下への階段が暗く伸びていた。
夏暮が振り返ると、見知らぬ友人は黒いノイズになって掻き消えてしまった。巻ついていた月桂電波が地下へと流れていこうとしたが、それも霧消した。夏暮が代わりに降りていく。
階段は亀裂だらけだった。壁も段も電波が滲んで割れていたが、なぜか埃は積もっていない。誰か出入りしているのか……。下るにつれ、騒音がひどくなるようだ。
階下につくと、けたたましい音で耳が潰れそうだった。そこは室になっている。むき出しのコンクリートで囲まれ、地面にテレビが置かれているが、こいつが原因だ。すぐ目についた椅子を振り上げそいつに叩きつけると、急に静かになった。やれやれ。
改めて見回しても何もなかった。木の椅子とテレビだけだった。腰掛けてマジマジと見ると、テレビは随分レトロな仕様でツマミ・ガチャガチャのチューナー式ブラウン管。電源もなしに砂嵐を映し続けている。おかげで電灯がなくても仄かに明るかったが、不健康な光だなあ。
と、テレビの奴が話だした。
……
……
『夜は良い。真っ黒で、静かで、誰何の気配もなく……。全く静かではなく、時折の排気音や動物の鳴き声やほんの少しの人の気配があって、この時間だけは僕と電化の二人っきりになれる。
他人がいない。けれど、周辺としての人はある。効果音としてのひと気はある。電化の光のもと、電化はうめき、夕闇が見え隠れして、深夜の憂いは真っ暗な天井を見上げて空想する。
誰何も居ず。去ず。
白と黒の建物、一つの部屋、みんなと同じ形、窓から電線が見えて、仄かに光があって……。僕は電化の光を消して、夜の闇の中でジュースを飲む。今は何も恐くなく、なぜかといえば鳴り響く電化の時刻灯、つぶやきが語りかけてくるのだから。
寝そべって思いにふけると、ふと夜の過ぎてゆくのが怖くなる。夜は静かで、暗く、けれども全き静じゃなくて、周辺に散らばっていて、空想しながら。
誰何も居ず。去ず。意ず。
夜は良い。
朝がくると、道を誰何お構いなく歩いていって、誰何とも当然に自由を体感して、無責任な心で通り過ぎていく。みんな僕の視界から去っていく。
僕はただ効果音としての人があればいい。
夜は良い。架空映像世界のような空気がいい、人の気のない無人感に満たされる。原色、建物、空気、別の、別の現実。夜が過ぎるのが恐い、朝がくれば人が動き出すから。
他人は怖い。集まって、優しくなくて、そんな奴らに囲まれて生きていかなきゃならない。つらい、みんな消えてしまえばいい。偶然を装って、僕も含まれる。
電化のつぶやきを聞きながら、微笑した。
クジ運が悪いから、きっと当たるよね。猫が鳴いてる、赤ん坊みたいに。
夜が明けていく、過ぎていく。行かないで、ずっと、ずっと、ずっと 』
――
テレビの奴は存分に語っていた。
表情を変えるように砂嵐を上下左右するテレビノイズに聞き上手を決め込んでいると、夏暮は不意にあくびをした。夜明けを察知したテレビは機嫌を損ねたように、ブツンと在りもしない電源を落としたきり鳴かなくなった。
夏暮はウンザリして団地から出て行った
……
……
病院の一室で医者から絵を見せられた“汐暮”は「知らない」と答えた。対面男女(ルビン)が口元で器を支えている絵だと医者は説明したが、クロスパティーにしか見えなかった。福音は訪れない。
汐暮は病室を出た。院内の混合とした空気を吸い込むと、安らぎ、事務的、生死、手術、退院、その陰と陽を感じた。その妙なカタルシスに嫌悪して病院を抜けだした。
踊るように人混みを縫っていく。病衣がなびいているが、風はなかった。彼女の心が無重力となっている。わずかに漏れる人々の陽気をなぞってデパートに流れ込んでいった。
登りつめると、屋上遊園地は多くの子供で賑わっていた。子供の口からクリームソーダの香りが発している。炭酸と冷凍の合いの子の匂いに放心していると、子供を掻き分けて見知らぬ女がやってきた。
「私、“安暮”ね。あれを聴きなさい」
ベンチに腰掛けた安暮は、場の中心に据えられている館内スピーカーを黒いハイヒールで指し示したが、放送がなかなか始まらなかったので、ストッキングの足が疲れてプルプルと震えた。
と、スピーカーが嘘むいた。
『ユメユメ』
どこかで聞いた声だ。青年の様。
『ゆめゆめ、中央病院の看護婦がうっかり注射したって知ってるかよ。あそこの病院てさ、事故多いよな。わざとらしいくらいに』
『坂道から下る車は、ブレーキを多用するとフェード現象が起きやすい』
驚いた。医者の声だ。やっぱり追ってきた。聞こえてきた。
『中央団地の屋上給水タンクの中には隠し階段がある』
『卒業記念品のね』
『細長い管を下って巨大なテレビの中に迷い込むと、そこに雲女がいて、こう言ってくるんだってさ。ものを喋る本、ものを喋る靴、ものを喋る包丁、本物はどれだとね。(図書カードの貸出欄を見る)と答えなきゃいけないよ』
『分かった。つまり、ラジオの周波数を微妙な電流加減で調整しろってこと』
『病院の購買の間を抜けて、隣の産婦人科の横手のコンビニのトイレの窓が開く隙間の人家の庭先の犬の傍らの石造りの塀の上の横の道の下のマンホールの地下のハシゴの手すりの三段目に、それが書いてある筈だな。急ごうぜ……』
そこでプツリと放送が切れた。
隣の安暮を見遣ると、うたた寝していた。天気の良い日。子供らもいつの間にか消えていた。静寂が痛々しい。
汐暮は彼女を引っ張りながら、フェンス向こうの空を見た。ほら、風船が飛び回っている。
……
……
「給水塔の中でね、私はテレビを見てたわ。黒っぽくて、灰色のやつを。カビの臭いがいっぱいしてたけど、私は空っぽのタンクに飲み込まれて、放送をじっとみていたよ」
「くだらない」
歩きながら、汐暮は病衣をパタパタと叩いて遊んでいた。
「安暮は昇ったのかな、あそこに」
「安暮って、あなたじゃない」
ただ進む二人に夕暮れが迫る。
「私は馬暮」
「嘘ばっかり」
安暮は夕闇街灯を数えながら先導していた。彼女は歌うにつれ、長い髪を揺らしていく。ノイズが走る。
「かごめかごめ」
「何よ、それ」
「かごめかごめ、かごの中の鳥はいつに出会う。遥か大空の果て、細長い針金に掴まって飛びながら、きっと何か言うのだわ」
「それもそうね。当たり前よ」
「かごめかごめ」
「カコメカコメ」
二人の横を車が通り過ぎた。ボンネットのせいで声をどもらせつつ、怯える汐暮のそばを抜けていく。車内に満ちる煙草香が紫色に漂って、ラジオノイズがドライバーを出入りしている様子に精神がひび割れそうだ。エンジンは悪意を込めて叫ぶだけなのに。けたたましく……。
『お前は何やってんだよ。グズグズするな、走れ。昇れ。鉄の槍を伝って送電線に捕まったら、すぐに降りなくちゃいけない。飛び降りて夕日の中に溶け込むんだ』
『大丈夫。安心しろ。恐い事なんてないんだよ。明治時代の光は、この町にも生き残っているのだから。実にしぶとくね、チエ、残念無念、また明日』
その声に囚われてはならない。汐暮を抱えるように安暮は駈け出した。街灯が逃げ道を先導するように激しく明滅する。モールス信号だった。『ヌ・イ・グ・ル・ミ・・ウ・ソ・テ・ン・シ・』。あやふやに……。
……
……
息を切らせた二人が立ち止まったのは団地の前であった。随分と走って、遠くにきた。
汐暮が見上げると、団地には日が灯っていた。夕食時の賑わいが匂いとともに伝わってきた。
安暮が言う。
「屋上に行ってごらん。古い給水塔が卵のフリをしているわ。ミスティフィカシオンに宜しく」
晴れやかな声に振り返ると、安暮は宙に浮いていた。大きく口を開けて、大声で笑って、飛来した鍵型の電波にぶら下がって、遥か電離層の彼方に飛び立ってしまった。汐暮は「ずるい」と思った。
建物脇から登っていくと、程なく屋上に出た。夕日の残光がもうわずかだ。中央に卵とアンテナ型のシルエットが浮かぶ。プレローマの卵を食すフォーク。
配管に足を取られながら周縁を辿るが、隠し階段がある構造には見えない。ハシゴを伝って上部にいくと、マンホールに似た蓋に取手がついていて簡単に開いた。
中を覗きこむと卵型の底に階段があった。入ってみようとすると、どこかの家族団欒が聞こえ、引き止められたような気がしたが構わず入った。
構造を無視して広がる狭い螺旋階段を降りていくと、汐暮は心地良くなった。何だか柔らかい部屋に着くと真っ暗だったが、テレビが照明の代わりに映像を映しだす。喋るテレビだ。
汐暮がそいつの前に座ると、奇妙な映像が流れ始める。真っ黒な背景に現れたのは“夏暮”だった。
………
………
夏暮は足場のない空間に輪状の縄へ手を掛けてぶら下がっていた。縄の他に何もない。
そこから落ちてしまうと火の海に着き、炎で焼かれ、暑くなったので全身を炭化させながら反対側の海に飛び込む。すると、底まで流されてしまうが、いつの間にか海水が画用紙の束に変じていて鋭く手首を切り落とされてしまう。失くした手首を探している内に踏切へ迷い込み、そこを電車に轢かれて赤い霧となってしまった。その霧を自分で吸ってしまうと吐き気・めまいに襲われて、手近のクスリに手を伸ばし服用してしまう。
強い浮遊感に捕われて地面に急降下し、危うくぶつかるという直前、飛来する電波に掬われて上昇していく。高く高く昇りつめて、ついには電離層に達した。夏暮の身体が分解する。
『電波石を見つけよ、トルエンな君』
…… …
『物理……』とテレビが黙ってしまうと、汐暮のお腹がグウと鳴った。音のない暗い部屋で、夜が明けることをひとり恐れている。
お読み下さり有り難うございました。