俺の蚊による蚊のための裁判
俺は草の上にゴロリと転がり、真っ青な空を仰いだ。天高く馬肥ゆる秋という言葉が頭に浮かぶ。ただし、肥えるのは馬ではなく、俺たちだ。
「おいお前、なにサボってんだよ」
聞きなれた、低い男の声が頭の上から降り注ぐ。俺は眼球だけを動かし、その声の主を確認した。
男は不機嫌そうな表情で俺の顔を覗き込んでいた。俺は寝ころんだまま、彼ににっこり笑いかける。
「なんだ、タケルか。お前こそサボってないでさっさとバーベキューの準備しろよ。一応サークルの代表だろ?」
タケルは無言で俺の横に腰を下ろした。ヤツの無駄に真っ白なシャツが太陽の光を反射しているのか、ちょっと眩しい。
タケルは俺のおでこをペシリと叩き、言った。
「サボっているメンバーを叩き起こして働かせるのが代表の仕事と言うものだ。バーベキューの準備などというのは下々の者にやらせておけば良い」
当たり所が悪かったか、それともタケルのテクニックがすごいのか、タケルに叩かれたおでこは想像以上に痛み、俺は草の上でしばし身悶えた。
仕返しにタケルのかけている黒縁の眼鏡に指紋を付けようと手を伸ばすも、ヤツに腕を掴まれ、関節とは逆の方に捻られて、俺はたまらず大きな声で「ギブ!」と叫ぶ。
「俺に勝とうなんて100年早い」
タケルはなんでもないようにサラリとそう言ってのた。勝ち誇った様子も、してやったりと言った表情でもない、あくまで「サラリ」だ。
歳の離れた兄が弟に宣言するような言い方に、俺は少々むくれながら口を開いた。
「偉そうにしやがって……。まぁ、野菜切ったりとか肉切ったりとかは女子がやってんだから良いんじゃね。家庭的な女アピールの機会をむざむざと奪うのも可哀想だろ」
「ごもっとも。そして、男の務めは家庭的な女アピールを見ていてやる事だとは思わんかね」
俺は「ぐぬぬ……」と少々口ごもった後、反論するのを諦めて話題を逸らすことに決めた。
「ところで、なんでお前はそんな暑苦しい格好してんの? 男は黙って半袖短パンだろ」
タケルの手首まで袖のある白いシャツ、スリムなジーパンと自分の蛍光オレンジのポップなTシャツ、カーキ色の短パンとを見比べながらそう言った。
タケルはキョトンとした顔で俺を見回しながら一言、
「蚊に刺されるからだ」
と呟くようにして言った。
「おいおい、女子にモテようと爽やかお兄さん気取ってるのかと思ったら、『蚊に刺されるから』って……なんだその小学生みたいな理由は」
俺はニヤニヤ笑いながらタケルの顔を凝視する。
「何言ってんだ、蚊をあまり舐めてると痛い目……いや、痒い目にあうぞ」
しかしタケルは至って真面目な顔で、まるで子供を諭す父親のような口調でそう言い放った。
「うまい事言ったつもりか! っていうか、もう9月なんだし蚊もそんなにいないだろ」
俺はそう言って空を見上げる。
夏特有の鮮やかすぎる空の青や、天空の城が隠れていそうな入道雲、そして攻撃的な夏の日差しはもう無く、吹く風も非常に心地よい。耳障りな蝉の声も聞こえないし、蚊が我が物顔で周囲を飛び回っている季節はもう終わったのだ。
「甘いな。数は少なくなっているかもしれんが、秋の蚊は普通の蚊とは気合の入り方が違うんだよ」
「……気合? まぁ、確かに秋まで生き残った蚊はデカいし、刺されると痒いって言うけど――」
「うーん、ちょっと違うな」
タケルは腕を組み、少し首を傾けた。
『ちょっと違う』の意味が分からず、俺はタケルに問いかける。
「なにが?」
「秋まで生き残った蚊がデカくて刺されると痒いって話さ」
「どう違うのさ」
「うううん……まず、蚊ってメスしか血を吸わないって知ってる?」
「えっ、そうなの?」
タケルは小さく頷いて俺の肘の下に生えていた白い小さな花を摘み、それを俺の顔に突きつけ言った。
「蚊はさ、普段は植物の蜜とか……それこそ、蝶とかと変わらん食生活を送っているわけよ」
「えええ……ベジタリアンだったんだな、蚊って」
俺はタケルに突きつけられた小さな花を受け取り、それをひっくり返したりまわしたりして遊ぶ。
「そうそう。で、普段大人しい彼女らがどうして俺らの血を欲するようになるのかというと――」
タケルはもったいぶるように、すぐには答えを言おうとしなかった。
「いうと?」
俺はため息を吐き、続けるよう促す。これはタケルが自身の知識を俺に披露するときのお決まりのパターンだ。
タケルは嬉しそうに小さく笑って、少しだけ得意げに口を開いた。
「我が子のためなのさ。メスは卵を育てるために特別な栄養が必要だ。それで自分の命を危険にさらし、俺らの血を頂きにくるってわけ。まさに蚊にとって、一世一代の大勝負ってとこだ」
「へぇ、そうなんだ。全然知らなかったよ。で、それがなんで秋云々って話につながるんだい?」
「おっと、気付かないか? 秋って、蚊にとってはあんまり生きやすい時期じゃないよね。もうすぐ冬が来ちゃうんだし」
俺らの前をトンボが横切る。秋の匂いを感じながら、俺は大きく頷いた。
「そうね」
「コレを人間に置き換えてみろよ」
タケルはそう言ってニヤリと笑う。
その瞬間、俺の右脳が凄まじい速さで活性化し、人間に置き換えられた秋の蚊のイメージが次々と湧き出てきた。
俺は目を輝かせながらタケルと顔を見合わせ、脳で製造されたイメージをダムからの放水さながらの勢いで口から吐きだす。
「……あっ! 30代、周りは次々にカレとゴールイン。ご祝儀ばかりが財布から消えていき、会社ではいつのまにかお局様的存在に。仕事で失敗し、ちょっぴり自棄になって金曜の夜に大酒をあおるも、若いころと違って酔いは次の日の私に遠慮なく圧し掛かってくる。鏡を見ると、『あれ? こんなところに小皺が……』そんな時、私の目の前に理想の男性が……!」
「な、食いつくだろ? 食いついて離さないだろ?」
タケルはますます嬉しそうに笑う。俺は手でいじくっていた白い花を投げ捨て、ガバッと起き上がり言った。
「うん、離さないね。つまり、蚊も必死って事?」
「そうそう。だから秋の蚊はより貪欲に血を求めてあたりを彷徨っているんだよ。多分」
「あー、だから秋の蚊には注意が必要なのかぁ」
俺は草の上で胡坐をかき、コクリコクリと頷き、そして呟いた。
「大変だなぁ、蚊の世界も」
その時、鋭い針のような黄色い声が少し遠くから俺らに向けて飛んできた。
「ねぇ、タケル君どこー?」
俺はニタリと笑って手足を草の上に投げ出し、そのまま横になった。
そしてわざとらしくタケルの顔を見上げ、声の方向を指差し言う。
「おや、女子がお呼びだぜタケル君」
タケルは大袈裟にため息を吐き、重い腰を上げた。本当は自分もバーベキューの準備なんてしたくはないのだろう。
俺のニヤニヤ顔を恨めしそうな目で一瞥してから、タケルは口を尖らした。
「じゃあ俺は行くけど、お前もつべこべ言わずにちょっとは手伝えよ」
「ういうい」
俺は気のない返事でタケルをいなし、そのまま腕を枕にして目をつむった。
「そんなとこで寝て、蚊に刺されても知らんからな!」
タケルの捨て台詞と足音が少しずつ遠のいていく。それが物理的な物なのか、違うのかもう判断がつかない。心地よい環境と、早起きした反動で俺は沼に沈む様にゆっくりと眠りに落ちていった。
**********
「――い」
頭がぐわんぐわんと揺れる。
何かが俺の襟首を掴んで、心地よい眠りの世界から引きずりだそうとしている。
嫌だ、俺はまだおきたくないんだ……
「おい! 起きないか、裁判が始まるぞ」
その声で突然意識が戻り、俺はパッと目を開けた。
木でできた高い机のようなものが目に飛び込んできて、俺はあんぐり口を開ける。オリンピックの授賞式でメダリストたちが上る台のように真ん中の机だけが高く、両隣の机はそれに追随するようにして小さく並んでいる。俺は慌ててあたりを見回した。
「えっ……なにコレ」
俺は思わず呟く。
そこは良くニュースやドラマで見るような裁判所のようだった。そして俺のいる場所は法廷の真ん中の柵の中、良く被害者がいる場所――
「こらっ、静かにしていなさい」
俺の頭を誰かがポカリと叩く。驚いて振り向くと、すぐ後ろに女の子が立っていた。気の強そうなその子は警備員のような青い服に赤いネクタイを締めていて、恐い顔でこちらを見ている。年の頃は俺くらいで、裁判所で働くにしては少々若い印象を受けるが、俺の目を引いたのはそんなところではなく――
「ほらっ、前向く!」
女の子は俺の頭を両手で挟み、強引に正面を向かせる。
俺はソレがどうしても気になって仕方がなかったので、またこっそりと振り返り、彼女のソレを確認した。
やっぱり、羽……だよな。
俺は心の中でそう呟く。彼女の背からはとっても大きな、それこそ彼女の身長を超えるくらい大きい羽が生えていた。
人の背から羽が生えている、と言うと天使をイメージする方が多いかもしれないが、そういうのじゃない。どちらかと言えば……妖精に近いかもしれない。
と言うのも、彼女の羽は天使のような鳥っぽい羽ではなく、透き通ったステンドグラスのような薄い――昆虫のそれにそっくりなのだ。しかも蝶のような華やかな色ではなく、地味で暗めの灰色っぽいものだった。
俺が口をあんぐり開けながらしばらく彼女の羽を観察していると、なんだか体に違和感を覚えた。ふと自分の体に目をやると、俺の体は太い荒縄で椅子にぐるぐると巻きつけられている。
「うわっ、なんだコレ!」
慌てて椅子から立ち上がろうと暴れる俺の頭を、またもや警備員らしき女の子が押さえつける。
「まだ縛ってる途中なんだから動かないでよ……!」
小声だが、彼女の言葉にはえもいわれぬ迫力があった。しかしその迫力に気圧されて黙っているわけにもいかない。
「なっ、なんで縛るんだよ!」
「裁判なんだから、当たり前でしょ」
女の子は常識でしょ……とでも言いたげな、半ば呆れたような物言いでそう言い放つ。しかしテレビで見た裁判では、被告人が縛られているような描写はなかったぞ。
そう言い返そうとして口を開きかけたその時、前方からカンッカンッという乾いた大きな音がして、俺は反射的に前を向き、居住まいを正した。
一番高い机で、テレビでしか見たことのない木槌で音を出す裁判長らしき女性を見て、俺はまた口をあんぐり開けたまま固まった。
「では、これより裁判を始める」
と宣言した裁判長の背中からも、あの黒いステンドグラスのような羽が生えていたのだ。慌ててあたりを見回すと、この裁判所にいるすべての人の背中から羽が生えている。俺は驚きのあまり、一瞬気絶しそうになった。
「罪状はサツカ」
聞きなれない言葉が耳に飛び込み、俺は右側でその言葉を吐きだしたスーツ姿の女性に視線を移した。女性は立ち上がって何やら書類を読み上げている。さしずめ、検事役といったところか。
それにしても、サツカってなんだろう。火サスなら知っているけど。
「被告人は幼少期から我々の仲間を数えきれないくらい多く殺してきました。圧殺だけにとどまらず、毒ガスを使っての毒殺や、我々の仲間を無理矢理押さえつけ、羽をむしってなぶり殺しにしたり」
検事が書類を読み進めていくにつれ、俺の体からはみるみる血の気が失せて行った。俺は彼女たちのような奇怪な人に会うのは初めてだし、ましてや彼女たちの仲間を殺したりなんて!
しかし、会場からは「まぁ」とか「なんてこと」と言った悲鳴にも似た声があちこちから飛んでくる。ダメだ、このままじゃ本当に殺人鬼に仕立て上げられてしまう――
「うっ、嘘だ! 俺はそんな事やってない!」
聴衆からのブーイングが飛び交う。あまりの迫力に俺は怯んでしまい、声を出せない。
思わず泣き出しそうになったその時、カンカンという乾いた音が俺を救った。
「静粛に! 被告人、許可された発言以外は認められていません」
それは裁判官の木槌の音だった。それを合図に、聴衆たちの声は次第に小さくなっていき、やがて元の静寂に包まれた法廷に戻った。
検事は小さく咳払いをし、先を続ける。
「被告人は多くの仲間の命を奪った大量サツカ犯であり、酌量の余地はありません。彼は間違いなく我々蚊の敵です」
……今、なんて言った?
俺はもう一度、彼女の言葉を口の中で繰り返す。
かれは、まちがいなくわれわれ……『か』のてきです
……か?
『か』ってまさか――
俺はついさっきまでタケルと交わした会話を思い出した。
『か』ってつまり、『蚊』の事? じゃあ、『サツカ』は……『殺蚊』?
目の前で俺を見下ろしている裁判官の背に生えた羽をまじまじと見つめる。確か、蚊の羽ってこんなんだったっけ。
「よって、我々検察側は被告人に極刑を求刑します」
信じられない言葉に、俺はすごいスピードで検察官に視線を移した。検察官は至って真面目な顔をしている。
……今、極刑って、言った? 極刑って、死刑だよね?
いや、極刑って国によって違うよね。死刑がない国もあるし、極刑が終身刑の国だって……いや、終身刑も嫌だなぁ。って、そうじゃなくて!
「被告人、検察側の調書に間違いはありますか?」
「まっ、間違ってます! いや、間違ってはないけど……えっと、その……」
俺はしどろもどろになりながら裁判官の顔と検察官の顔を交互に見比べる。なんて言えば良いんだろう。そりゃ、蚊はいっぱい殺したと思うし、検察官の言ってることは間違ってないけど――あぁ! とにかく、何か言わなきゃ!
「あのっ、だって蚊は俺の血を吸うしッ! それにその……なんで蚊に裁判されなきゃならないんだッ!」
ハッとして、俺は慌てて口を閉じる。蚊達の大勢いるなか、なんて物騒な事を言ってしまったんだろう。俺は身を縮めて小さくなり、こっそりとあたりを盗み見る。
しかし、俺が思ったほど蚊たちの反応は攻撃的なものではなかった。みんな複雑な表情を浮かべ、俺に罵声を浴びせるでもなく、物を投げるでもなく、ただ黙っている。
「確かに、異種族が裁判をするのは難しい事です」
沈黙を破ったのは裁判長だった。
裁判長は俺を見下ろしながら厳かに、ゆっくりと口を開く。
「人は我らが血を吸えば裁判もなしにすぐ我らの命を奪おうとする。結局、人は自分たち以外の種族の命なんて、それほど重く見ていない。人と同じ哺乳類である犬や猫だって簡単に処分されるんだ、我々なぞを殺すのに罪悪感など持たないでしょう」
裁判官の言葉に、俺は返事を返すことができなかった。
確かに蚊を殺すのに罪悪感なんてないし持とうとも思わないが、ここでそんな事を言えば「それは蚊も同じで、人を殺すのに何の罪悪感もありません」とか言って潰されてしまうんじゃないか、と気が気でないのだ。だからと言って、「そんなこと思っていません! 僕はこの世に存在するすべての命は平等だと思います」なんて白々しい事を言うのも気が引ける。俺が蚊を殺しまくってきたこともバレているようだし……。
そんな事を考えながら口ごもっていると、裁判長は再び話し始めた。
「ですが、蚊は慈悲深い生き物です。だからこうして多種族であるあなたを裁判にかけてあげているわけです」
「じゃっ、じゃあ……俺にも助かるチャンスはあるってわけですか!」
俺は椅子を背負ったまま手すりを乗り越えんばかりに前へ乗り出し、裁判官へ救いを求める。
「もちろん」
裁判長は満面の笑みでそう言った。地獄の仏とはまさにこの事。
この暗い蚊だらけの空間に、一筋の光がさした瞬間だった。
「では被告人。もう一度聞きますが、検察側の調書に間違いはありますか?」
裁判官の顔からスッと笑みが消え失せ、先ほどまでの無機質な表情へ変わる。裁判を再開したという事だろう。
俺は一抹の不安を覚えながらも、小さく頷いた。
「ま、間違い……ありません」
「そうですか、では被告人を極刑に処します」
「はい……え?」
あまりにもサラリと言うのでスルーしかけたその言葉を、頭の中で幾度も繰り返す。
「えっと……極刑?」
「そうです」
それは、俺が今までに聞いてきた「そうです」の中でも群を抜いてサラリとした一言だった。「今日の定食はサバ定食ですか?」という質問に対して定食屋のおばちゃんの発した「そうです」よりもサラリとしている。もうサラッサラだ。梅干を食いまくった血液よりサラサラ。
「べっ、弁護とか! してくれないんですか!」
「だって私たちは蚊だもん。人の弁護なんてできないよ」
俺の叫びに応えたのは、横でずっと俺を見張っていた警備員風の女の子だった。俺の顔からどんどん血の気が引いていく。
「ねぇ裁判官さん、もう良いよね? ちゃんと縛ってるし」
警備員のおねだりするような甘い声にハッとし、俺はもう一度自分の体を見やった。
なんだか裁判前より縛りがパワーアップしている気がする。裁判中にも縄を巻いていたのだろうか、どうして気が付かなかったんだろう。
「うん、良いよ」
裁判官はにっこりと笑い、軽く頷いた。その途端、今まで黙って座っていた聴衆や検事、良く分からない役職の人まで、とにかく法廷に集まっていたすべての人たちが嬉嬉として立ち上がった。
「待てっ、何をする気だ!」
「人間にとって、蚊がすることと言えば一つでしょ?」
警備員が俺の耳元でそっと囁く。背中に悪寒が走った。
「良かった良かった。これで安全に食料を手に入れることができましたね。じゃあみなさん、おいしく頂きましょう!」
裁判官の声を合図に、他の者達もわらわらと俺に集まりだす。
俺はむちゃくちゃに暴れようと手足をばたつかせるが、椅子にガッチリ拘束されていてとても逃げ出せない。
「うわっ、お前ら裁判とか何とか言って、最初からこれが目的だったんだな! 馬鹿ッ、やめろッやめろー!」
「ダメダメ、逃げられないよ」
耳元で警備員の女の子の声がしたかと思うと、首筋に鋭い痛みが走った。と、同時にスウッと意識が遠のいていく。
あぁ、もうダメかも。俺、死ぬのかな……
***********
「――い」
聞きなれた低い声が空から降り注ぐ。
俺は悪夢から逃げるように、ガバッと勢いよく起き上がった。
汗のせいで背中にシャツがぴったりとくっついて気持ちが悪い。
「やっと起きたか。ほら、バーベキュー始まるぞ」
声の主はタケルだった。
俺はタケルの足にしがみつき、草の上で足をバタつかせて再会を喜ぶ。
「うわー! タケル、もう会えないかと思ったよ!」
「寝ぼけてんのか? さっさと来いよ。肉なくなるぞ」
タケルは掴まれていない方の足で器用に俺を小突く。それにも負けず、俺はタケルの足を引き寄せながら叫びをあげた。
「聞いてくれよ! 俺、酷い夢見て――」
そこで、俺は声を詰まらせる。
そうか、あれは全部夢だったのか。蚊に裁判されたのも、蚊に血を吸われるのだって、全部夢で――
「ん? お前、スゲー蚊に刺されてるぞ」
「蚊」というワードに敏感になっている俺は大慌てでタケルの顔を見上げる。タケルは目を見開き、俺の足を指差した。
見てみると、なるほど、他人が見たら引くくらい蚊に刺されている。
「うわっ、こんだけ刺されてるともはや気持ち悪いな――」
タケルは俺の近くにしゃがみ込み、ブツブツだらけになった足を見て顔を歪める。
「酷いなぁ、ここってそんなに蚊がいるか? いくらなんでもこれは――って、おい!」
「うん?」
タケルの慌てたような物言いに、俺は首をかしげた。
「お前、腕も酷いな! こりゃ、全身刺されちまってるな」
タケルに腕を掴まれ、自分でもよくよく腕を見てみると、ここも大変な事になっていた。まだ痒みはないものの、そのうち酷い事になるんだろう。
「あーあ、こんなとこで寝てるから……」
俺は首筋に手を当て、自分の皮膚をなでまわす。すると、一際大きな蚊に刺されが一つだけあった。俺は警備員の女の子の顔を思い出す。
「これが極刑、なのかな」
「ハァ?」
俺は不審がるタケルに構わず立ち上がる。
そして失った血を取り戻そうと、肉を食らいに草原を走った。