第六天魔王は稼働中
その老人ホームは、最新の医療施設として紹介されていた。
外観は白く清潔で、余計な装飾もない。
だが、本当の売りは建物ではない。
歴史再現型VRケアシステム。
それが、この施設の正式名称だった。
高齢者はベッドに横たわり、脳接続装置を通じて『偉人の人生』を生きる。
その中でも人気が高いのが、『戦国時代・織田信長』だった。
次点は、『幕末・坂本龍馬』だ。
女性であっても、大半がこのどちらかを選ぶ。
管理室では、職員が静かにモニターを確認している。
脳波は安定。
情動値も良好。
満足度は常に高水準。
画面の中では、入居者の一人が馬上にいた。
黒い鎧、鋭い眼光。
彼は確かに、織田信長としてそこにいた。
「本能寺、間もなく到達」
誰かがそう記録する。
別の職員が淡々と頷いた。
「鈴木さん、信長人格が完全定着していますね」
一方、その『世界』の中で、信長は戦場を見下ろしていた。
怒号。
血と煙の匂い。
裏切りの気配。
それらすべてが、彼の現実だった。
だが、時折。
ほんの一瞬だけ。
視界の端に白い廊下のようなものが混ざる。
誰かの声がする。
「……お薬の時間です」
意味は分からない。
しかし、妙に耳に残った。
数日後。
管理室で異常は報告されていなかった。
むしろ安定している。
「最近、判断がさらに鋭くなっていないか」
「信長としての自己認識も強固ですね」
「本能寺を乗り越えるなんて、珍しいよな」
「まっ、乗り越えたところで、桶狭間に戻りますけどね」
それは『成功例』として扱われていた。
だが、別の記録があった。
ある入居者が、こう呟いたという。
「ここは……。どこじゃ?」
その発言は軽微な認知の揺らぎとして処理された。
VR没入を妨げるノイズとして。
その夜。
信長は長篠にいた。
迫りくる赤備え。
はためく風林火山の旗。
鉄砲の三段構え。
大きな飛躍へと向かう運命。
「……信玄か」
そう呟いた瞬間だった。
また、あの声が混ざった。
白い部屋。
規則的な電子音。
誰かが自分を見ている気配。
視界が揺れる。
剣戟の向こうに、別の風景が重なる。
白い天井。
動かぬ身体。
そして、見知らぬ者たち。
不意に白い世界が一気に押し寄せる。
戦場が崩れる。
音が消える。
そこには、動かぬ『老人の身体』だけがあった。
信長は初めて、はっきりと理解した。
「儂は……。俺は、田中ひ……。」
言葉にした瞬間、世界が止まる。
『現実認識エラーを検出』
『人格再同化を実行します』
思考が崩れる。
名前が剥がれていく。
代わりに『信長』だけが塗り込まれる。
織田信長。
織田信長。
織田信長。
それ以外が、消えていく。
最後に残ったのは一つだけだった。
儂は、誰だ。
再び、戦場。
信長は笑っていた。
「儂は第六天魔王・織田信長ぞ」
白い部屋で、眠る老人たちの列。
その中の一人が彼だった。
管理室のモニターには、変化はない。
信長人格は安定。
戦国乱世は継続中。
満足度も高い。
最後に、システムの記録ログが一行だけ更新された。
『現実側の認識をVRと誤認しているため、介入不要』
火縄銃の炸裂音は続いていた。
モニターの中で、信長は笑っていた。
「是非もなし!」
その声に迷いはない。
完璧な歴史の再現だった。
それが現実なのかどうかは、もう誰も問わなかった。




