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実験場

第六天魔王は稼働中

掲載日:2026/07/15




 その老人ホームは、最新の医療施設として紹介されていた。


 外観は白く清潔で、余計な装飾もない。

 だが、本当の売りは建物ではない。



 歴史再現型VRケアシステム。

 それが、この施設の正式名称だった。


 高齢者はベッドに横たわり、脳接続装置を通じて『偉人の人生』を生きる。


 その中でも人気が高いのが、『戦国時代・織田信長』だった。

 次点は、『幕末・坂本龍馬』だ。


 女性であっても、大半がこのどちらかを選ぶ。



 管理室では、職員が静かにモニターを確認している。


 脳波は安定。

 情動値も良好。

 満足度は常に高水準。


 画面の中では、入居者の一人が馬上にいた。


 黒い鎧、鋭い眼光。

 彼は確かに、織田信長としてそこにいた。



「本能寺、間もなく到達」



 誰かがそう記録する。

 別の職員が淡々と頷いた。



「鈴木さん、信長人格が完全定着していますね」



 一方、その『世界』の中で、信長は戦場を見下ろしていた。


 怒号。

 血と煙の匂い。

 裏切りの気配。


 それらすべてが、彼の現実だった。


 だが、時折。

 ほんの一瞬だけ。


 視界の端に白い廊下のようなものが混ざる。

 誰かの声がする。



「……お薬の時間です」



 意味は分からない。

 しかし、妙に耳に残った。


 数日後。


 管理室で異常は報告されていなかった。

 むしろ安定している。



「最近、判断がさらに鋭くなっていないか」

「信長としての自己認識も強固ですね」

「本能寺を乗り越えるなんて、珍しいよな」

「まっ、乗り越えたところで、桶狭間に戻りますけどね」



 それは『成功例』として扱われていた。


 だが、別の記録があった。

 ある入居者が、こう呟いたという。



「ここは……。どこじゃ?」



 その発言は軽微な認知の揺らぎとして処理された。

 VR没入を妨げるノイズとして。


 その夜。

 信長は長篠にいた。


 迫りくる赤備え。

 はためく風林火山の旗。

 鉄砲の三段構え。


 大きな飛躍へと向かう運命。



「……信玄か」



 そう呟いた瞬間だった。

 また、あの声が混ざった。


 白い部屋。

 規則的な電子音。

 誰かが自分を見ている気配。


 視界が揺れる。

 剣戟の向こうに、別の風景が重なる。


 白い天井。

 動かぬ身体。

 そして、見知らぬ者たち。


 不意に白い世界が一気に押し寄せる。


 戦場が崩れる。

 音が消える。


 そこには、動かぬ『老人の身体』だけがあった。

 信長は初めて、はっきりと理解した。



「儂は……。俺は、田中ひ……。」



 言葉にした瞬間、世界が止まる。



『現実認識エラーを検出』

『人格再同化を実行します』



 思考が崩れる。

 名前が剥がれていく。


 代わりに『信長』だけが塗り込まれる。


 織田信長。

 織田信長。

 織田信長。


 それ以外が、消えていく。

 最後に残ったのは一つだけだった。


 儂は、誰だ。


 再び、戦場。

 信長は笑っていた。



「儂は第六天魔王・織田信長ぞ」



 白い部屋で、眠る老人たちの列。

 その中の一人が彼だった。


 管理室のモニターには、変化はない。


 信長人格は安定。

 戦国乱世は継続中。

 満足度も高い。


 最後に、システムの記録ログが一行だけ更新された。



『現実側の認識をVRと誤認しているため、介入不要』



 火縄銃の炸裂音は続いていた。

 モニターの中で、信長は笑っていた。



「是非もなし!」



 その声に迷いはない。


 完璧な歴史の再現だった。

 それが現実なのかどうかは、もう誰も問わなかった。




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― 新着の感想 ―
読ませていただきました。 ひょっとしたら、近いうちにこういう未来が訪れるかもしれませんね。 現実逃避ではありませんが、辛い日々を少しでもVR等で自由に駆け回ったり、偉人の生涯を体験出来たら楽しいでし…
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