第9話 彼女の迷い
彼女に「大人だね」と言われた夜、俺はほとんど眠れなかった。
大人。
その言葉が、ずっと胸の奥で引っかかっている。
大人だから踏み込まない。
大人だから欲しがらない。
大人だから、諦める。
それは、本当に正解なんだろうか。
翌日、仕事中もどこか集中できずにいた。
書類の文字を追いながら、頭の片隅では、コンビニの軒下の光景が繰り返されている。
俺が一歩下がった、あの瞬間。
彼女は、少しだけ傷ついた顔をしていなかったか。
昼過ぎ、スマホが震えた。
【昨日は、ありがとう】
【ちょっと、話せる?】
短いメッセージ。
でも、胸がざわつくには十分だった。
【今なら】
すぐに返してしまう自分がいる。
【電話でもいい?】
画面を見つめて、少しだけ迷ってから【いいよ】と返す。
数秒後、着信音が鳴った。
「……もしもし」
『あ、出た』
彼女の声は、少しだけ緊張しているように聞こえた。
『急にごめんね』
『でも、なんか……昨日から、変な感じで』
「変な感じ?」
『うん』
『自分でも、よく分からない』
言葉を探している沈黙が続く。
俺は、遮らずに待った。
『私さ』
『ちゃんと、結婚するつもりなんだよ』
分かってる。
そう言いかけて、飲み込んだ。
『相手のことも、大事だし』
『逃げたいわけじゃない』
それでも、と彼女は続ける。
『でもね』
『蓮見くんと再会してから』
『昔の自分が、急に顔を出してきて』
胸が、少しだけ締め付けられる。
『あの頃の私』
『何も考えてなくて、ただ楽しかった』
「……うん」
『今の私は』
『ちゃんと選んで、ちゃんと責任を持とうとしてる』
『それは、悪いことじゃないって分かってる』
声が、少し震えた。
『でも』
『楽しかった気持ちまで』
『間違いだったみたいに思うのが、怖くて』
その言葉に、はっとする。
彼女は、迷っている。
誰かを捨てたいわけじゃなくて、
自分の過去を否定したくないだけだ。
「……それは」
「間違いじゃないと思う」
自然と、そう口にしていた。
『そう言ってもらえると、救われる』
また、その言葉だ。
「でも」
俺は、続けた。
「俺が言えるのは、そこまでだ」
電話の向こうで、彼女が息を呑むのが分かった。
「俺は」
「君の迷いを、解決してあげられない」
「どっちを選んでも、責任を持つのは君だから」
沈黙。
嫌われたかもしれない、と思った。
でも、それでもいいと思えた。
『……うん』
しばらくして、彼女が小さく頷く気配がした。
『分かってる』
『だからこそ、話したかった』
「俺でよかったのか?」
『うん』
『変なことしないって、分かってるから』
それは、信頼なのか、距離なのか。
電話を切ったあと、しばらく動けなかった。
彼女の迷いに、触れてしまった。
踏み込まなかったはずなのに、もう安全な場所にはいない。
大人だからこそ、分かってしまう。
この関係は、
何も起こらなくても、
確実に、誰かを傷つけている。
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