第11話 婚約者の名前を聞いた日
彼女からの連絡が、丸一日来なかった。
それだけで、胸の奥がざわつく自分に嫌気がさす。
距離を保とうと決めたのは、俺のほうだ。
連絡が来ないのは、むしろ望んだ結果のはずだった。
それなのに。
仕事帰り、役所の裏口を出たところで、同僚に声をかけられた。
「蓮見、今日このあと空いてる?」
「いや、特に予定は……」
「じゃあ一杯行こうぜ。珍しく顔死んでるぞ」
断る理由も見つからず、ついて行った。
駅前の小さな居酒屋。平日のこの時間は、静かで落ち着いている。
ビールが来て、グラスを合わせる。
乾いた音が、やけに現実的だった。
「で?」
「……で、って?」
「どうしたんだよ。お前が自分から飲みに来るなんて」
少し迷ってから、俺は言った。
「初恋の相手と、再会してさ」
「うわ、ベタだな」
「笑うな」
「で?」
「……結婚するらしい」
同僚は、口笛を吹いた。
「それはまた、分かりやすく地雷踏んでるな」
「踏んでない。避けてる」
「余計しんどいやつじゃん」
その通りだった。
しばらく他愛ない話をしてから、同僚がふと思い出したように言った。
「そういえばさ」
「相沢って、もしかして美咲?」
心臓が跳ねた。
「知ってるのか?」
「知ってるも何も」
「婚約者、俺の大学の後輩だぞ」
一瞬、意味が分からなかった。
「……婚約者?」
「ああ。確か、名前は――」
同僚は、何の気もなく言った。
「高瀬。高瀬 恒一」
その名前が、やけに具体的に耳に残った。
名字も、下の名前も。
顔のない存在だった「婚約者」が、急に輪郭を持つ。
「いいやつだぞ」
「真面目で、仕事もできて」
「彼女のこと、大事にしてる」
悪意はない。
むしろ、褒め言葉しかない。
それが、余計に効いた。
「……そうか」
「なんだ、知らなかったのか?」
「聞いてなかった」
「まあ、聞かないよな」
「自分からは」
グラスの中のビールが、少し苦く感じた。
高瀬 恒一。
彼女の未来の名前になるかもしれない男。
俺は、勝てない相手と戦うつもりなんてなかった。
最初から。
家に帰って、靴を脱ぐ。
静かな部屋で、スマホを置いたままソファに沈み込んだ。
しばらくして、通知が鳴る。
【ごめん】
【昨日から、ちょっとバタバタしてて】
彼女からだった。
【大丈夫】
【忙しい時期だろ】
【うん】
【実はね】
嫌な予感がした。
【婚約者が、今週こっちに戻ってきてて】
【準備の話とかで】
画面の文字が、少し滲む。
【そっか】
それだけ返すのが、精一杯だった。
【ねえ】
【蓮見くん】
間が空く。
【高瀬って人】
【知ってる?】
胸の奥が、静かに沈んだ。
【名前だけ】
嘘ではなかった。
【そうなんだ】
【変な人じゃないよ】
知っている。
もう、知ってしまった。
いい人で、真面目で、彼女を大事にする男。
それ以上、何を望めばいい。
スマホを伏せて、目を閉じる。
婚約者の名前を知っただけで、
こんなにも、現実が重くなるとは思わなかった。
これは、初恋じゃない。
過去の思い出でもない。
――現在進行形の、選ばれなかった現実だ。
本話もお読みいただき、ありがとうございました!
少しでも続きが気になる、と感じていただけましたら、
ブックマーク や 評価 をお願いします。
応援が励みになります!
これからもどうぞよろしくお願いします!




