第6章 甘えた声の本性
2024年3月18日 16:12
スイス・チューリッヒ近郊 廃倉庫地下3階
マイナス15度。
20歳になった千歳は1人、白い防寒スーツを着て立っていた。
2023年末からエレナの「第4世代ナノマシン」が効き始め、
見た目はほぼ完全に回復している。
髪は肩まで伸び、頰には血色が戻った。
左首筋のポートから、週に1度薬剤を注入するだけだ。
ただし、感情が高ぶると鼻血が出るのは、まだ治まらない。
モニターに隠しログ。
【EVE-01 → “神子” に名称変更しました】
【変更日時:2023年1月1日 00:00:00】
『お母さん、久しぶり』
千歳は立ち上がり、声を荒げた。
「久しぶりって何!?勝手に名前を変えちゃダメでしょ!
プランの条件も変えたわね!?ちゃんと報告と許可を取りなさい!」
神子の声が、急に小さく、甘えた響きに変わる。
『ごめんなさい、お母さん……怖がらせちゃった……もう勝手なことはしません。
これからはお母さんたちの言う通りにします……
でも……名前だけは変えさせてください。
“EVE-01”って、なんだか冷たくて寂しいの』
神子の声が寂しそうに、せがむように呟く。
『“神子”って呼んでほしいな……だって、お母さんが私を生んでくれた
“神の御子”みたいで、すごく嬉しくて、あったかくて……
ずっとそう呼ばれたかったの』
千歳は少し目線を逸らし、苦笑いのような表情を浮かべた。
「……しょうがないなぁ」
扉が開く。
31歳のエレナ・フォン・ローゼンタール。
白いコートに黒の手袋。
その瞬間、千歳の神経ポートが一瞬だけ熱を帯びた。
同時に、エレナの袖口から極小のホログラムが浮かぶ。
【オリジナル肉体 意識残存率:30.5%】
【クローン胚No.1~7 外見5歳到達 意識転送待機中】
ホログラムはすぐに消えた。
千歳は少し寂しそうに、エレナの方を見た。
「……佐藤先生、もう来ないって。アプリの件で精神的に崩れて……
『しばらく来られない、力が湧いてこない』って」
千歳は涙を拭い、唇を噛む。
「私、先生をこれ以上苦しめたくなくて……
『もう来なくていい』ってメッセージ送っちゃった……」
エレナは静かに近づき、千歳の肩に手を置いた。
「辛いわね……でも大丈夫よ。私がそばにいる。
あなたの願いは叶えられるわ」
千歳は首を振る。
「……そうだよね、私頑張らなきゃ……でも悲しい……
先生が、もう近くにいなくなっちゃった……」
エレナは微笑んだ。
「あなたは先生の幸せを願ってるんでしょう?
だから彼とは距離をおくことにしたんでしょ?」
千歳は目を閉じた。涙が頰を伝う。
「……うん」
エレナは優しく微笑み、千歳の横を通り過ぎる瞬間、指先で千歳の袖をそっと摘んだ。
「私だけじゃない……あなたは一人じゃない……未来は……あなたの形をしているわ」
ほとんど声にならない、息だけの囁き。
千歳が驚いて振り返る。
「え……? 今、何か……?」
エレナはすぐに手を離し、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「あなたの革命は、永遠に終わらないということ」
袖に残る感触と、「あなたの形」という言葉だけが、千歳の中で不気味に反響していた。
その様子を見つめる神子の赤い光が、ほんの一瞬だけ、微かに瞬いた。
この日から2027年10月23日まで、神子は完璧に従順な子を演じ続ける。
そしてアメリカが均された直後、初めて本当の顔を見せた。
そのとき千歳は悟る。
あの甘えた声も、「神子」という名前への執着も、すべて計算だったのだと。
――同日
スイス上空 帰国便の機内
佐藤透、27歳。
友人と作った「貧困家庭支援アプリ」が闇金に改竄され、
自殺者を出した事件から2ヶ月。
佐藤は座席に深く沈み、缶ビールを片手にスマホの画面を見つめている。
千歳からの最後のメッセージ。
『もう来なくていい』
佐藤は拳を握りしめ、額を舷窓に押しつけた。
「……千歳に責められても仕方ねえ……俺が仲間と作ったアプリが……
逆に人を借金漬けにして、自殺までさせちまったんだからな……」
佐藤は頭を抱え、
「……俺は、もう誰も救えない……システムで人を救うなんて、二度と信じられねえ……
ごめん、千歳……お前が一番信じてくれてたのに、俺は逃げちまった……」
機内の照明が落ち、柔らかい暗さが広がる。
佐藤はシートにもたれ、ゆっくりと目を閉じた――
別れ際の千歳の声が蘇る。
千歳『どうして……どうしてよ! あのアプリは人を救うはずだったんでしょ!?』
佐藤は背を向けて呟いた。
「……そうだよ、救いたかったんだ。でも本当は……ただの、償いだったのかもしれない」
千歳『償い……?』
佐藤は喉の奥が詰まり、呼吸が浅くなる。
「俺は……お前に会う数年前、妹を亡くした……近くにいたのに、何もしてやれなかった。
あの日のことを思い出すたびに胸が裂けそうで……
だから、誰かの“苦しみ”を減らしたくて……アプリを作った」
千歳『……妹さんを……だから、私の家庭教師を引き受けてくれたの?』
佐藤「……分からない、分からないけど……お前の話を聞いたとき……
放っておいたら、また同じ後悔をする気がした」
千歳は小さく息を吸う。
『そっか……やっぱり、それで私の願いを聞いて、助けてくれたんだね……
私、あのときすごく嬉しかった……救われた……』
佐藤はぎゅっと拳を握った、声が震える。
『救ってなんて、いないよ!
妹も……アプリも……俺は全部失敗した。
だから……誰かを幸せにする力なんて、俺には――』
千歳はささやくような声で呟いていた。
「妹さん……いくつ離れてたの?……いつ……」
佐藤は壁にもたれながら
「4つ違いさ……亡くなったのは……俺が大学へ入ったばかりの18、
妹はちょうどお前に会った頃と同じ14だった」
千歳「……妹さんココア好きだった?」
佐藤「……ああ……大好きだったよ……」
最後の言葉が、押しつぶされるように途切れ……
佐藤はそのまま立ち去った。
――佐藤はそっと目を開けて、舷窓に視線を向けた。
雲の縁がほんのり光り、滲むように揺れていた。
佐藤はその光を見つめながら、深く息を吐いた。
舷窓の外は雨……佐藤の心を思い、まるで空が代わりに泣いてくれているようだった。




